第三章 うちでご飯
「ただいま」
玄関の扉を押し開けた瞬間、家の空気がふわりと揺れた。
そこに母が立っていた。まるでずっと待っていたかのように、俺の姿を見た途端、表情がぱっと花開く。
「おかえり」
満面の笑顔。
半年ぶりに見るその笑顔は、どこか泣き出しそうにも見えて、胸の奥がじんと熱くなる。
続けて母は、「ごはんは、食べる」と訊いてきた。
時計を見るまでもなく、夕食の匂いが家の奥から漂ってくる。
ご飯と言われた瞬間、腹の底がきゅうっと鳴った。
サービスエリアでハンバーグ定食を食べたはずなのに、二日間ほとんど何も口にしていなかったことを思い出す。
身体が食べ物を欲しがっている。食べたくてしょうがない。
「うん」
短く答えて、玄関を上がった。
食卓に座るのは、本当に半年ぶりかもしれない。
俺にとっては、ただ椅子に座っただけのことなのに、両親にとっては劇的な変化なのだろう。
引き籠っていた状態から、ようやく外へ出てきた――そう思えるから、嬉しいに違いない。
テーブルの上には、鶏肉のから揚げ。
昔からの大好物だ。
一口食べた瞬間、思わず目を閉じた。とてつもなくおいしい。
これがフランソワだったら、どれほど喜んだだろう。
食べさせたかったな、と胸が締めつけられるように切なくなる。
食事を終え、「ありがとう」と言って席を立ち、2階へ上がった。
母は何か話したそうに口を開きかけたが、父がそっと手を挙げて制した。
結局、何も言わずに俺は自分の部屋へ入った。
ここは、俺が引き籠っていたままの部屋だ。
高校時代なら、二日も家を空ければ、母が掃除をしてくれていた。
散らばった本やゲームソフトも、いつの間にか整理されていた。
だが今回は違う。
母は部屋に入らなかったのだろう。
変えてはいけない――そう判断したのだとわかる。
両親がどれほど気を使ってくれていたのか、胸に沁みる。
俺はパソコンを開き、事故の情報を検索した。
車に乗っていた人物のうち、所有者である拓朗の名前だけが記されていた。タクロウ58歳、重傷。
だが奇妙なことに、名字も病院名も報道されていない。
ほかの2名の男女については、未だ誰なのかわかっていない、とだけ記されている。
フランソワに関しては情報がまったくない。
日本人ではない可能性が高い以上、この事故は国際問題に発展する可能性がある。
警察が慎重になっているのだろう、と推察できた。
ひょっとすると、傑さんも拓朗と合わせて、梅渡家が表に出ることを良しとしない判断が働き、特定されているのに公表できないのかもしれない。
拓朗に会って話がしたい。
だが病院さえわからないのではどうにもならない。
警察に訊けばわかるかもしれないが、こちらの素性を聞かれるだろう。
それは避けたい。
俺は今回の一連のことについて、まったく知られていない。
だからこのまま自力で調べていく必要がある。
どうすればいい――?
ふと、拓朗のスマホを持っていた感触がよみがえる。
フランソワが師範の家へ走っていくため、彼のスマホを引っ手繰って持っていたことがある。
その記憶に集中する。
フランソワは拓朗のスマホを見ていた。
そうだ。
フランソワは彼のスマホで師範と話をした。
画面には拓朗の電話番号も表示されていた。
フランソワはその番号を見ていたのだ。
俺は記憶の中の画面に集中する。
――出た。
080-〇〇〇―××××。
どっと汗が噴き出す。
集中力のせいだ。
これほどの集中力があれば、望んだ大学だって入れるだろうと確信するが……
それほど真剣なのだ。
早速かけてみる。
しばらく呼び出し音が鳴り、録音に切り替わった。
考えてみれば当然だ。知らない番号に出るはずがない。
何と言えば出てもらえるか――考える。
「ウメドの者です。今回のことで伝えたいことがあります。折り返し電話をください」
そう録音に入れた。
切った瞬間、すぐメッセージが来た。
”タクロウです”
短い文だが、胸が跳ねた。
”お会いしたいのですが、病院と病室の番号を教えてもらえませんか”
そう送ると、すぐ返事が来た。
”ウメドの誰です?”
少し考えてから打つ。
”傑とフランソワにも関係していたものです”
しばらく間があって、返事が届いた。
”病室には感染症の関係で入れないから、ロビーでお会いします”
続けて、病院名と時間が記されていた。
トウジョウビョウイン・明日の朝、午前10時。
……
夜はよく眠れた。
ベッドに入った途端、すぐ眠りに落ち、朝7時まで一度も目が覚めなかった。
この部屋でぐっすり眠るのは久しぶりだ。
いつもは寝ても何度も目が覚め、朝はぼんやりしていた。
だが今は違う。
やるべきことがはっきりしていて、気合も入っている。
頭は冴え、すぐに体を起こせた。
食卓には朝食が用意されている。
起きてすぐ着替え、1階へ降りて顔を洗い、席についた。
父はいつものように新聞を開きながら朝食を食べている。
半年ぶりの光景だ。
母は何も言わず、ただニコニコしている。
聞きたいことは山ほどあるだろうが、我慢しているのがわかる。
トーストとベーコン、卵焼き。
ウーロン茶を飲む。
味がはっきりしている。
舌の感覚が鋭くなっているようだ。
父が仕事に出かけ、母が片づけをしている。
「後からちょっと出かけてくる」
俺が言うと、母は「そう。どこに?」と言って、そこで黙った。
「ああ、友達のところへ」
そう答えると、母は「そう」と言って向こうを向いた。
何気ない会話。
だがこれも半年ぶりだ。
母の背中が、ほんの少し震えているように見えた。
第四章 待合室で電話 に続く




