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冒険者の街で、今日もパンを焼いています 〜小さな魔獣との静かな暮らし〜  作者: 白波 いつき


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門の外の違和感と、名前を呼ぶ時

 また新しい週が始まる。


 今週も頑張ろう――そう思いながら、リラは窯の前に立っていた。

 焼き上がったパンを取り出せば、ふわりと小麦の香ばしい匂いが広がる。朝の光に照らされて、表面がやわらかく艶を帯びていた。


 いつもと変わらない朝。

 いつもと変わらない手の動き。


 朝の販売を終え、昼からの分のパンを焼き終えたところで、ふと手が止まる。


 静かな店内に入り込んできた、ざわめき。


 外から流れ込んできたそれに、リラは顔を上げた。

 南門側が、やけに騒がしい。


 いつもの賑わいとは違う。

 笑い声ではなく、どこか落ち着かない、人の声が重なっている。


 扉へと歩み寄り、開ける。

 外の空気が流れ込むのと同時に、肩に軽い重みが乗った。


 オモチだ。

 いつの間にか飛び乗り、同じように周囲を見回している。


「なんだろうね」


「ききゅい」


 短く鳴く声も、少しだけ硬い。


 視線を通りの先へ向けると、門のあたりに、人だかりができていた。

 集まっているというより、押し寄せているような気配。

 ざわめきは大きいのに、どこか息を潜めているような、不穏な空気。


 その瞬間、耳に届いた。


 悲鳴。


 リラの表情が引き締まる。

 念のため、と言い訳するように、店の奥へ戻る。

 壁に立てかけてあった双剣を手に取ると、その重みが意識を一段引き上げた。


 もう一度外へ出て、店の鍵を確かめるように閉めると、そのまま門の方へと向かう。

 足取りは、気づけば少しだけ速くなっていた。


 その途中、門の方からこちらへ向かって、何人もの人が走ってくる。

 顔色を変え、振り返りもせずに通り過ぎていく様子は、明らかにただ事ではない。


 その流れをすり抜けるようにして、リラは門へと辿り着いた。

 視線を、その先へ向ける。


 ――森の縁。


 そこで、何かが動いていた。

 馬車を囲むように、数体の魔物。


 土色の巨体。

 厚く覆う毛皮。

 地面を掴む鋭い爪。


 岩狼の群れだ。


 思わず息を呑む。


 ――近い。


 魔物除けがあるはずなのに、門の内側からはっきりと見える距離まで来ている。

 視線をずらせば、魔物のすぐそばに馬車があった。


 荷を積んでいるのか、覆いがかけられている。

 御者が必死に鞭を振り回し、岩狼を威嚇していた。


 ぱしん、と乾いた音が響く。


 馬車からは細い煙が上がっている。

 魔物除けの香を焚いているのだろう。


 けれど。


 興奮した岩狼たちは、それをまったく意に介していない。

 むしろ、焦りのように動きを荒げている。


 門兵たちが前に出ようと、門の中の住人を制しながら、じりじりと距離を詰めていく。

 けれど、その動きはどこか浮ついていた。


 普段は人の出入りを見張るのが役目。

 魔物と正面からやり合うことには慣れていないのだろう。

 構えが定まらない。

 そのわずかな隙を、魔物は逃さない。


 門兵に気づいた一体が、ぐっと体を沈め――

 次の瞬間、こちらへ向かって駆け出した。


 土を蹴る音。


 低い唸り。


 一直線に距離を詰めてくる。


 ……危ない


 リラは短く息を吐いた。

 視線を落とすと、足元でオモチがすでに構えている。


 小さな体が、わずかに低く沈んでいた。


「オモチ、いける?」


「きゅい」


 迷いのない返事。

 その声に、リラの中の迷いも消える。


「行こう」


 手前にいた門兵が、リラに気づき手を伸ばす。


「待て――」


 その言葉を、リラは振り返らずに遮った。

 剣をわずかに見せる。


 それだけで、門兵の動きが止まる。

 説明する時間はない。


 一歩、踏み出す。


 門の外へ。


 土の匂いが、濃くなる。

 魔物の気配が、肌に触れる。


 リラはそのまま、まっすぐ前へと進んだ。

 地面を蹴り、一気に魔物との間合いを詰める。

 岩狼が低く唸り、振り下ろされた爪を身を捻ってかわすと、そのまま懐へと滑り込んだ。


 横目に映る門兵は、武器に手をかけたまま、まだ驚いたようにこちらを見ている。


「住人の安全確保をお願いします!」


 振り向かずに叫べば、ようやく我に返ったように頷く気配がした。少し遅れて、もう一人が慌てて煙球を空へと打ち上げる。


 ――判断が遅い。


 そう内心で吐き捨てながら、間合いの中で剣を振るった。

 確かに手応えはあった。だが、刃は深く入らない。


(硬い)


 岩狼の毛皮は、その名の通り岩のように固く、斬り込んでも浅く滑る。踏み込みを強めようと身体強化をかけかけたところで、スカートの裾が足に絡みつき、わずかに動きが鈍った。


 ――動きづらい。


 躊躇わず、刃を下ろす。

 ざ、と布を裂く音とともに裾からスカートを切り裂くと、足が一気に軽くなった。


 その瞬間を逃さず、オモチが横から飛び込む。


「きゅ!」


 粘糸が伸び、岩狼の足へと絡みついた。

 わずかに動きが鈍る。

 その一瞬に踏み込み、今度は剣に電撃をまとわせて振り下ろした。


 ばち、と空気が弾ける音。


 刃が食い込み、確かな手応えが伝わる。

 岩狼の体がぐらりと揺れ、重心が崩れた。


 倒れる――


 そう思った、次の瞬間。

 びくりと体を震わせ、足が地面を踏みしめる。


 来る。


 最後の力を振り絞るように、振り下ろされた爪が、視界いっぱいに迫った。

 振り下ろされる爪の軌道を読み、体をひねって避ける――はずだった。


 そのとき、視界の端にもう一体の影が入り込む。


 ――あっ。


 いつの間にか、すぐ近くまで迫っていた。


 オモチが咄嗟に粘糸を飛ばすが、わずかに間に合わない。避けきれないと悟り、最小限――腕で受けると判断した、その瞬間。


 ぐっと腕を引かれ、体ごと後ろへ引き寄せられた。

 温かい。


「――っ」


 揺れる視界の端に、ユリウスの姿。さらにその前へ、ダルクが一歩踏み出し、盾を構えて割り込む。

 鈍い衝撃音が響き、重たい一撃を正面から受け止めた。


 横合いから風が唸る。

 セインが踏み込み、大剣を振り抜いた。


 一閃。


 ずしん、と重い音とともに魔物の首が落ち、もう一体がわずかに後ずさる。

 その隙を逃さず、ロイの剣が滑り込み、迷いのない一撃で岩狼の動きが止まった。

 周囲の空気が一瞬だけ静まり、遅れてもう一体も地面へと伏す。


 リラは小さく息を吐き、ユリウスたちへと視線を向けた。


「……ありがとう。助かりました」


 言葉を紡ぎながら、崩れかけていた体勢を整える。

 足を踏みしめる。


 ――前へ。


 まだ終わっていない。

 戦う側へと、意識を戻す。


 ユリウスは一瞬だけ目を細め、小さく頷いた。

 合流した皆が、それぞれに周囲を見回す。

 状況を、確かめるように。


 なぜか、こちらに向かってきた二体を除いて、他の岩狼はすべて馬車を取り囲んでいた。しかも一心不乱に。


「群れだな」


 ロイが低く言い、ユリウスが短く頷く。

 その横で、ダルクが盾を構えたまま、ぽつりと言葉を落とした。


「……おかしくねえか?」


 その視線は、まっすぐ馬車へ向いている。

 リラも同じことを思っていた。


 本来、岩狼は群れの一体が襲われれば、そこへ一斉に向かう。報復のために、敵へと食らいつく。それが当たり前の動きだ。


 なのに、今は違う。

 必死に鞭を振り回す御者の男には目もくれず、荷台にかじりつくようにして馬車へと群がっている。


 まるで――


 止めようとしているように見えた。

 群れの動きが、あまりにも徹底している。

 誰を攻撃するかではなく、どこへ向かうか。


 馬車を囲むように位置取り、そこへと集まり続けるその様子は、守るでもなく、ただ襲うでもない――どこか奪い返そうとしているようにすら見えた。


 自然と、視線が馬車へと引き寄せられる。


 御者の男。


 リラには見覚えはない。


「ロイ、あの男……」


 ユリウスが問いかける。

 ロイは一瞬だけ目を細め、すぐに頷いた。


「ああ。あのとき会った魔物研究員の男だな」


「魔物研究員は魔物のプロだ。それが、あんなざまか」


 ダルクが吐き捨てるように言う。

 その言葉に、胸の奥がざわついた。


 ――何かがおかしい。


 違和感が、はっきりと形になりかけている。リラは視線を落とし、足元へと声をかけた。


「オモチ、いける?」


「きゅい」


 迷いのない返事。


 その一声で、次の行動が決まった。


 オモチが粘糸を飛ばし、するりと荷台へと飛び乗る。幌の隙間から中を覗き込み、素早く確認するが、御者の男はまだ気づいていない。


 リラたちは視線を交わし、魔物の意識を逸らさないよう慎重に間合いを詰めていく。


「きゅいきゅいきゅい!」


 次の瞬間、オモチが鋭く鳴いた。

 普段のものとは違う、はっきりとした異常を告げる声。


 リラの体が、反射のように動く。


「なっ! お前!」


 御者の男がようやくオモチに気づき、声を上げる。

 だが、それに構う余裕はない。


 地面を蹴る。


 身体強化をかけて一気に間合いを詰め、手前にいた岩狼の背を踏み台にそのまま荷台へと飛び乗る。

 幌に刃を入れると、ばさりと布が裂け、露わになった中身に思わず息を呑んだ。


 そこにあったのは檻。


 その中に押し込められていたのは――岩狼の子供たちだった。


 小さな体が身を寄せ合うように震えている。


「きゅうきっ!」


 オモチが檻に近づき、粘糸で鍵や格子を引きながら、必死に開けようとする。


「……この子たちを、助けようとしていたのか」


 状況が、一気に繋がる。

 檻を壊そうとするが、造りがしっかりしていて簡単にはいかない。


 となると――止めるべきは。


 リラはすぐに判断を切り替え、御者台へと飛び移る。

 振り返った男の剣が、迷いのない軌道で振るわれた。


 対人の間合い。


 ためらいがない。


 慣れてる……


 双剣で受け止め、衝撃をいなしながら、視線だけでオモチに合図を送る。

 次の瞬間、粘糸が男へと伸び、体勢がわずかに崩れた。


 その隙を逃さず踏み込み――一気に蹴り落とす。


 男の体が御者台から弾かれ、地面へと転がった。

 リラはすぐに手綱を取り、暴れかけていた馬を落ち着かせる。


 その間に、状況は一気に動いていた。


 荷台にはロイが上がり込み、器用な手つきで檻の鍵の開錠を試みている。


 後方では、ダルクとセインが岩狼の接近を食い止めるように立ち回り、ユリウスは落ちた男を完全に押さえ込んでいた。


 連携が、自然に繋がっている。


「早くしろ、ロイ!」


 ダルクの怒鳴り声。


「できた!」


 間髪入れず、ロイの声が返る。

 檻が開く。


 ロイが器用に鍵を外し、扉が開いた。

 開いた扉から、子狼たちを一頭ずつ抱え上げ、馬車の外へと下ろしていく。


 地面に足がついた瞬間。


 待ちかねていたように、親と思しき岩狼たちが駆け寄った。

 口で優しくくわえ、子を抱えたまま――迷いなく、森の方へと駆け出していく。

 砂を蹴る音だけが、あたりへ響く。


 残った数頭の岩狼が、こちらへ低く唸り声を向ける。


 威嚇。


 だが、踏み込んではこない。

 こちらが動かないことを確かめるように、じりじりと距離を取り――


 やがて、背を向け、そのまま一斉に駆け出す。

 森の影へと、吸い込まれるように消えていった。


 その場に残ったのは、リラたちと――魔物研究員を名乗っていた男。

 ユリウスの手で、すでに拘束は終わっていた。


 手際よく巻かれた縄に包まれ、男はまるでミノムシのような格好で地面に転がされている。


「こいつは騎士団へ連れていくか」


 セインが短く言う。


「一般人も巻き込みかけたんだ。極刑だろうな」


 ダルクが吐き捨てるように続けた。


「おっ、騎士団が来たぞ」


 ロイの声に視線を向ける。

 南門の向こうから、騎士団の一団が馬で駆けてくるのが見えた。

 蹄の音が、次第に大きくなる。


 ようやく終わる。そう思い、リラは小さく息を吐いた。


「それにしても、タイミングよく来てくれて助かりました」


 そう言ってダルクたちを見上げた、その瞬間。


 ごつん、と鈍い衝撃が頭に落ちた。


「いっっったぁー……」


 思わず声が漏れ、頭を押さえる。


「お前は先走りすぎだ!」


 ダルクの怒声が落ちてくる。

 予期せぬ衝撃に顔をしかめていると、すぐそばに影が差した。


 ユリウスだった。

 何も言わず近づき、腰元へと大きな布を巻きつけられる。


 その手つきで、ようやく気づく。切り裂いたスカートが、かなりきわどいことになっていた。

 思わず視線を逸らすと、ユリウスは小さくため息をつき、さっきダルクに叩かれた場所へと手を伸ばした。


 指先が、そっと触れる。

 撫でるように、やわらかく。


「ダルクの言うとおりだ」


 いつもよりも低く、落ち着いた声。


「俺たちが、ちょうど店に寄ってからダンジョンに向かおうとしていたからよかったものの、一人で突っ込んで何かあったらどうするんだ」


 一度言葉を切る。

 その視線が、まっすぐこちらを捉える。


「リラとオモチが強いことは分かっている。でも、無茶はダメだ」


 真剣な眼差し。

 その重さに、思わず瞳が揺れた。

 肩の上で、オモチも小さく身を縮める。さっきまでの勢いが嘘のように、大人しくなっていた。


「馬車に飛び乗ったときもだ」


 ダルクが続ける。


「オモチの鳴き声だけじゃ、俺たちは分かんねえんだ。ちゃんと説明してから動け」


 返す言葉がない。

 肩が、自然と落ちる。


「……ごもっともです。申し訳ない」


 素直に頭を下げる。


「きゅきー……」


 オモチも、しょんぼりと小さく鳴いた。

 今まで、誰かと連携して何かをすることがなかった。

 誰かに頼る、ということにも慣れていなかった。


 それじゃ、だめだ。

 ちゃんと、言わなきゃ。


「まーまー。連携したことないなら、しょうがないじゃん?」


 ロイが軽く笑いながら、顔を覗き込んでくる。

 その言葉に、小さく頷いた。


 すると、ふいに大きな手が頭に触れる。

 顔を上げると、セインだった。


「飴、食べるか?」


 差し出されたのは、小さなキャンディー。


 ……子どもだと、思われてる?


 少しだけ首を傾げながら手を伸ばすと――

 その前に、ひょいと横から奪われた。


 オモチだ。


 ためらいもなく、そのまま口へと放り込む。

 思わずじとっと睨むが、当の本人はどこ吹く風で、もぐもぐと満足そうにしている。


 それを見ていたセインが、もう一つキャンディーを差し出してくれた。

 今度こそ受け取り、口に入れる。

 甘さがじんわりと広がり、張りつめていたものが、少しだけほどけた。


 美味しい。


 ほっとする。


 改めて顔を上げ、ひとりずつを見る。

 ダルク、ロイ、セイン――そして、ユリウスも。


「本当にありがとうございました。次からは気をつけます」


 そう言って、頭を下げた。


 ユリウスが一歩、近づいてくる。

 そっと手を伸ばし、さっき爪がかすめた腕に触れた。

 指先で、軽くなぞるように確かめる。


「無事でよかった」


 静かな声。

 その言葉に、胸の奥がゆるむ。


「心配かけて、ごめんなさい」


 顔を上げると、視線が、重なる。


 ほんの少し遅れて、ユリウスの表情がやわらいだ。

 ようやく浮かんだその笑みに、リラは静かに息を吐いた。


 ――よかった。


 心の底から、そう思えた。


「まぁ、一番の問題は門兵だろ!」


 ロイの声が、場の空気を少しだけ崩すように響く。

 その言葉が聞こえたのか、門兵の肩がびくりと揺れた。


「パン屋に守ってもらってんじゃねーよ」


 容赦のない一言に、門兵たちは顔を伏せる。


「申し訳ない」


「ですが……今回はイレギュラーで……」


 言い訳のような言葉が、途切れ途切れにこぼれる。


 そのとき。


 重い足音が近づいてきた。

 規則正しく、揃った音。

 騎士団だ。


 目の前でぴたりと止まり、その中から一人が前へ出る。


「イレギュラーに対応し、市民を守るのが門兵の仕事だ」


 低く、よく通る声。

 一言で、空気が引き締まる。


 門兵たちは一斉に背筋を伸ばした。

 その視線が、今度はこちらへ向く。


「リラ、だったかな。助かったよ。市民を守ってくれてありがとう」


 まっすぐな言葉。


 けれど――


「いえ……」


 さっき叱られたばかりで、素直に受け取れない。

 視線が少しだけ下がる。

 上官だろうその兵士は、それ以上深くは触れず、静かに頷いた。


「ダルク、セイン、ロイ、ユリウスも感謝する。おそらくこの男は、他領地で報告の上がっている魔物密猟の一味だろう。生きたまま捕縛してくれて助かった」


 拘束された男へと視線を向ける。


 その言葉で、今回の出来事がただの騒ぎではなかったことが、はっきりと形になる。

 いくつかの確認と言葉を交わしたあと、騎士たちは男を連れて去っていった。


 蹄の音と足音が、少しずつ遠ざかっていく。

 残った空気が、ふっと軽くなった。


「じゃあ、俺たちは今からでもダンジョン行くか」


 ダルクがいつもの調子で言うと、


「先に行っててくれ。俺はリラを送ってから行く」


 ユリウスが続ける。


「はぁ?」


 ダルクがあからさまに眉をひそめる。


「え? すぐそこですよ」


 リラが指さすと、ロイがくすりと笑った。


「まぁまぁ、送られてやんなよ。じゃあ俺たちは行っとくな」


 そう言ってダルクの背中を押し、半ば引きずるようにして門の外へと歩いていく。

 振り返ることもなく手をひらりと振るロイに、ダルクの文句が混じった声が遠ざかっていった。


「行こうか」


「……あ、はい」


 短いやり取りのあと、並んで歩き出す。

 本当に、店はすぐそこだった。


 見慣れた扉の前に立ち、ユリウスが先に手をかける。

 軽く押し開けられた扉の先へ、自然に促されるように中へ入ると、後ろでぱたんと扉が閉まった。


 外のざわめきが、すっと遠のく。


「あの、送ってくれて――」


 礼を言おうと振り返った、その瞬間。

 ぐっと、引き寄せられた。


 ごつごつとした防具越しの腕に包まれる。


 固いはずなのに、どこか温かい。

 胸元に押し当てられた頬の向こうで、心臓の音が近くなる。


「心配した……」


 吐き出すような、低い声。

 その一言に、胸の奥がきゅっと締まる。


 少し迷った後、リラも腕を回す。

 広い背中に触れた手に、確かな体温があった。


「心配かけてすみません。本当に、ありがとうございました。ユリウスさんたちが来てくれて、よかったです」


 言い終えたところで、少しだけ体が離れる。

 視線が近い。

 覗き込まれる。


「ユリウス」


「へ?」


「ユリウス。そう呼んでくれるなら、許すよ」


 ほんの少し、悪戯めいた表情。

 思わず息が止まる。


 それから、遅れて頬が熱くなるのが分かった。


「……ユリウス」


 名前を、口にする。

 思っていたよりも、ずっと近くに響いた。


「ユリウスたちに助けてもらえてよかったです。今度からは気をつけます」


 言い直すように続けると、彼の目元がやわらかく緩んだ。


「うん。次がないことを願うけど……まぁ、難しいだろうし」


 そう言って、オモチへと視線を向け、ユリウスは小さく苦笑した。


「頼れるときは、ちゃんと頼ってね」


「はい」


 素直に頷く。


「じゃあ、俺は行くね」


 扉へ向かう背中。

 そのまま出ていこうとするのを見て、はっと声が出た。


「あっ、ちょっと待って!」


 慌てて棚へ向かい、焼き上げてあったパンを人数分袋へ詰める。

 少しだけ手が急く。

 それを持って戻り、差し出した。


「はい。行ってらっしゃい。頑張ってきてくださいね」


「ありがとう。行ってきます」


 受け取った袋を軽く持ち上げ、ユリウスは扉を開ける。

 外の空気が、ひと筋だけ流れ込んだ。


 そのまま、振り返らずに出ていき、ぱたん、と扉が閉まる。


 店の中に、静けさが戻る。

 ついさっきまであった気配が、少しだけ遠くなったような気がした。


 ふと、自分の胸に手を当てる。

 さっきまでよりも、少しだけ早い鼓動。


 窓の外では、いつもの街の音が続いていた。

 誰かの話し声と、遠くで鳴る足音。


 変わらない日常の中に、ほんの少しだけ違うものが混ざっている。

 リラはゆっくりと息を吐き、棚へと向き直る。


 まだやることは、いくらでもある。


 けれど。


 さっきよりも、少しだけ。

 世界がやわらかく見えた。

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