工房の午後と、にぎやかな来訪者
太陽の日の午後、リラはグリムの工房を訪れていた。
通りから一歩入ったその場所は、外の光が少しだけやわらぎ、代わりに鉄と油の匂いが濃くなる。
扉の隙間からは、金属を叩く乾いた音と、何かが焼けるような微かな熱の気配が漏れていた。
「こんにちはー」
声をかけながら中へ入ると、大きな魔道具の陰からグリムがひょこりと顔を出す。手にはまだ工具が握られていた。
「おう、リラか」
「こんにちは。この間は栗パンを買いに来てくれて、ありがとうございました。ゆっくりお話もできなくて……」
あのときの賑わいを思い出しながら言うと、グリムは肩を揺らして笑う。
「大盛況だったな。栗なんて昔食った記憶はあるが、あんなにうまかったかって驚いたわ」
がははと笑うその声に、張っていたものがすっとほどける。
甘いものが苦手なグリムがこう言うなら、出来は悪くなかったのだろう。お世辞を言わない人だからこそ、その言葉には妙な安心感があった。
「気に入ってもらえたならよかったです。これ、お土産のお酒です」
包みを差し出す。
「お、酒か! ありがとな、わざわざ」
グリムは嬉しそうに受け取り、瓶をくるりと回して眺める。
差し込む光が、琥珀色の液体をやわらかく透かしていた。
「スパイスのきいたお酒だそうです。オモチの腕輪も作っていただいたので」
「きゅきっ」
肩の上のオモチが、腕輪を誇らしげに掲げる。小さくきらめくそれは、見慣れているはずなのにどこか頼もしく見えた。
「おう。そういや問題なかったか?」
「特にはぐれることもなかったんですが、安心感が桁違いでした」
「ははっ、まあお守りみたいなもんか」
軽く言われ、思わず頷く。
実際、それ以上のものだった。
「むしろ、帰ってきてからオモチの帰りが遅い日に役立ってます」
「子を心配する母ちゃんみてぇだな」
呆れた声に、オモチがむっとした顔で鼻を鳴らす。その小さな仕草に、くすりと笑いがこぼれた。
工房の中は変わらず雑然としている。机の上には部品や設計図が広がり、奥ではまだ熱がくすぶっている気配があった。
けれど、その中でグリムはいつも通りそこにいる。
それだけで、少し落ち着く。
そして――その落ち着きがあるからこそ、次の言葉が少し言いづらくなる。
「それで、その……」
わずかに間を置き、ポーチに手を入れる。指先に触れた紙の感触に、ほんの一瞬だけ胸の奥がざわついた。
「この腕輪を、商会をしている友人に見られて……グリムを紹介してほしいって言われて」
手紙を差し出す。
グリムは何気なく受け取り、ひっくり返して――ぴたりと動きを止めた。
目が見開かれる。
「おまっ、これ……ウィルクス商会の紋章じゃねーか!」
「そうなんですよね……」
視線を泳がせながら、小さく頷く。
「てか、これいつ受け取ったんだ? 旅行中に会ったんだろ?」
その問いに、思わず目を逸らす。
肩の上で、オモチがこちらを見ている気配が。黙っていると、ぺち、と頬を叩かれた。
「……旅行中の、二、三日目くらいです」
「は?」
間の抜けた声。
グリムの視線がカレンダーへ向き、指で日付をなぞる。ひとつ、ふたつと数えていく様子に、背中へじわりと汗が滲んだ。
「……おい」
低い声。
振り返った顔には、呆れと苛立ちがはっきり浮かんでいる。
「もう一か月近く前じゃねーか!!」
「ごめんなさい!」
反射で頭を下げる。
「完璧に忘れてました!」
言い切ると、オモチが呆れたように「きゅ」と鳴いた。
帰ってきてからは栗パン、そのあとは秋祭りで頭がいっぱいで――セオドアのことはすっかり抜け落ちていた。
「くそっ……大商会の手紙を忘れんじゃねーよ! 急いで返事を書かねぇと――」
グリムは机をあさり、紙とインクを引っ張り出す。動きはやけに早く、焦りがそのまま伝わってきた。
その姿に、もう一度、深く頭を下げる。
「ごめんなさい! 実は――」
言いかけた、そのとき。
「ははっ! もう来てしまったよ!」
工房の入口から、明るい声が響く。
迷いのない足取りで入ってきたのは――セオドアだった。
整った服装が、この場所の空気の中でわずかに浮く。それでも本人は気にした様子もなく、まっすぐグリムへ向かう。
「どうも、初めまして。ウィルクス商会のセオドア・ウィルクスと申します」
軽やかに一礼し、そのまま言葉を重ねる。
「あなたがオモチの腕輪を作った魔道具技師のグリムさんですね。お会いできて光栄です」
距離を詰める勢いは止まらない。
「いやぁ、あの腕輪を見たとき、その技術に一目ぼれしてしまいまして」
そのまま手を差し出す。
グリムは一瞬固まり、それでも反射的にその手を握った。
「あ、ああ……」
「ぜひ、工房を見せていただけないでしょうか!」
押し切るかのような勢いに、グリムが一歩後ろへと下がる。
その様子を見ながら、リラはそっと距離を取った。
グリムの視線が一瞬こちらへ飛ぶ。
――お前、何連れてきてんだ。
その顔が、はっきりそう言っていた。
ごめん。
心の中で静かに謝る。
今朝、店の前に商会の馬車が来てやっと思い出したのだ。そして、ああなったセオドアはもう止まらない。
「あ、ああ……まぁ、見てもいいが……」
「ありがとうございます!」
ぱっと顔を明るくし、まるでエスコートをするかのように、そのまま奥へ進んでいく。
グリムも何も言えず、そのままついていった。
工房の奥へ、二人の姿が消える。
残された空間が、ふっと静かになる。
そのとき、肩にそっと手が触れる。
振り返ると、美しい赤い髪が目に入った。
マーガレットだった。
「ああなったら長いですから、私たちはお茶でもいかがですか?」
穏やかな声。困ったように笑いながらも、慣れた響きがある。
「セオドアに任せておけば大丈夫ですよ。きっと」
「きゅき」
オモチが同意するように鳴き、リラは思わず小さく笑う。
「そうだね。行こうか」
工房を後にする。
外の空気は少しだけ涼しく、工房の熱をやさしく洗い流してくれるようだった。
木陰のベーカリーに戻ると、扉を開けた瞬間、甘やかな匂いが迎えてくれる。小麦のやわらかな香りと、焼き上がったパンのぬくもり。
「以前来たときは中に入る余裕がなかったけれど……中もとても素敵ね」
店内を見回しながら、マーガレットが言う。
「ありがとう。本当に、運よくいい場所を見つけられたの」
「きゅきっ」
オモチは窓辺へ移動し、日の当たる場所にちょこんと座る。やわらかな光の中で、満足そうに目を細めていた。
お茶を淹れ、私たちも向かい合って腰を下ろす。
焼き上げておいたシナモンロールを皿に乗せて差し出すと、マーガレットは興味深そうにそれを眺め、そっと一口かじった。
「美味しい……」
小さくこぼれたその声に、自然と笑みが浮かぶ。
「この前教えていただいたレシピ、ベルンハルトでも作って販売してみたのだけれど、とても好評でした。いいレシピを、ありがとうございます」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
湯気の立つお茶をひと口飲む。温かさが、体の奥にゆっくり広がる。
そのとき、裏口がノックされた。
「おや、ごめん。来客中だったかい」
顔を出したのは、トヨだった。
「いえ、大丈夫ですよ。どうしました?」
「旦那が湖水ガニをたくさん捕まえてきてね。娘やマイルスも来るんだけど、リラたちもどうかと思って」
「へぇ、カニ……」
「まぁ、湖水ガニ!」
私たちの会話を聞いたマーガレットの声が、ぱっと弾んだ。
その貴族令嬢らしい整った所作に、トヨが一瞬だけ目を丸くする。けれどすぐに、いつもの気安い笑顔に戻った。
「気になるなら、あんたも食べるかい?」
「よろしいんですか?」
その瞳の輝きに、止める間もなかった。
「ああ、構わないよ。分けるつもりだったくらいだからね」
「じゃあ、ぜひお邪魔します」
「あぁ、もちろん。リラが何か差し入れを持ってきてくれたら、もっと嬉しいけどね」
そう言って、トヨは笑いながら軽くウィンクする。
その気安い仕草に、ふっと肩の力が抜けた。
「分かりました。用意していきます」
「ああ、夜にね」
トヨは去っていった。
扉が閉まる音が、やわらかく溶ける。
「ごめんなさい、リラ。湖水ガニ、食べたことがなくて……」
つい……、頬を染めるマーガレットに、思わず笑う。
「大丈夫。私も食べたいし」
そう答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。
「手伝えることがあれば、言ってくださいね」
静かな店内に、やわらかな空気が流れる。
窓の外では、午後の光がゆっくり傾き始めていた。




