栗の香りと、帰ってきた人
栗を使ったメニューは、思った以上に街の人たちに喜んでもらえた。
朝のうちに焼き上げたパンは、昼を待たずにいくつも棚から消えていく。
カウンターに立つ客の手から栗特有の甘い香りがふわりと広がり、店の空気まで少しだけやわらいでいくようだった。
栗クリームパンが今日の主役だ。
三角形に整えた生地の底に黒ごまをまぶし、焼き色も少し濃く仕上げてある。
並べてみると、ころりとした栗そのもののような形で、中にはラトリアで手に入れた栗を甘く煮て丁寧に裏ごししたペーストを、クリームと合わせたものをたっぷりと詰めた。
ひと口かじれば、やわらかな生地の中から、ほくりとした甘みがほどけてくる。
昼を少し過ぎた頃には、その栗クリームパンも残り三つになっていた。
棚の上にぽつりと並ぶそれを見て、リラは小さく息をつく。
――きっと夕方までは持たないよね。
窓の外では人の流れが絶えない。少し肌寒くなってきた季節のせいか、温かいものを求めて立ち寄る客も多い。店の奥では仕込みの火がまだ落ち着かず、小さくぱちぱちと音を立てていた。
その音を聞きながら、ふと考える。
――これ、ユリウスさんにも食べてもらえたらよかったのに。
ラトリアで一緒に栗を拾ったときのことを思い出すと、自然と少しだけ口元がゆるんだ。
けれど同時に気づく。彼がどこに住んでいるのか、知らない。もし売れ残ったとしても届けようがない。
「……どうしよう」
わざわざ探すほどでもない。けれど、もし会えたら渡したいな。そんなことを考えていると、扉の鈴が鳴った。
顔を上げると、そこに立っていたのは、まさに今思い浮かべていた相手だった。
旅の名残を少しだけ残しながらも、いつも通りの落ち着いた空気をまとっている。リラは一瞬だけ言葉を失い、それから慌てて口を開いた。
「いらっしゃいませ」
わずかに固い声だった。ラトリアでの言葉がふいに頭をよぎり、胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
その空気を壊すように、白い影が跳ねた。
「きゅ!」
オモチが迷いなくユリウスの肩へ飛び乗る。
「こんにちは。オモチも久しぶり」
軽く笑いながら、その頭を指先でつつく。その様子を見て、リラの肩の力がわずかに抜けた。
よかった。いつも通りだ。
「こんにちは。お久しぶりです。無事に戻られたんですね」
「うん。今日着いたよ。途中で仕入れもあったから少し時間がかかってね。リラの方が早かったな」
ユリウスの指先がオモチの頬を少し撫でてから、視線がこちらへと戻る。
「そっちは? 怪我とかしてない?」
その言い方に、リラは一瞬だけ目を瞬かせる。――またラトリアで会った時と同じことを言われていることに気づき、思わず小さく笑った。
「大丈夫です。ユリウスさんは?」
「怪我はないけど、途中でちょっと面倒なのがいて時間がかかったよ」
「面倒、ですか?」
ほんの少し、空気が変わる。ユリウスは言葉を選ぶように間を置いた。
「密猟崩れかな。魔獣の貴重部位を取るとかじゃなく、魔物に無理やり従属の首輪をつけようとしていたんだ」
リラの指先がわずかに止まる。
「……魔物を」
胸の奥が、静かに軋む。思い出すのは、オモチが狙われたときのこと。
「許せないですね」
低く、短い言葉だった。
ユリウスはちらりと視線を向ける。
「だよね。今回はたまたま発見できて、防げてよかったよ」
空気を切り替えるように、ユリウスが軽く息をつく。
「この街に帰ってくると、やっぱりほっとするよ」
その言葉に、リラは自然と頷いていた。
「わかります」
「この辺り通るとパンの匂いがしてくるだろ。それでつい入ってきた」
「え、今帰って来たばっかりですか?」
「いや、一回戻って着替えてから来た。さすがに埃とかが旅帰りだとひどいし」
意味を理解して、リラは固まる。護衛帰りに、わざわざ。
胸の奥が、また落ち着かなくなる。その感覚をごまかすように、棚へ手を伸ばした。
「これ、ラトリアの栗で作ったパンです。拾うの手伝ってもらったので、よかったら」
ひとつ取り袋に入れる。
「帰ってきたばかりならご飯もまだですよね。これもどうぞ」
何だか落ち着かなくて、手が止まらない。
「スープも――」
言葉が少し早くなる。
それに気づいたのか、ユリウスが小さく笑った。
「ありがとう。森にいるときからパン食べたいなって思ってたんだ」
その一言に、リラの手が止まる。
「……そう思っていただけるなら、良かったです」
視線を落とし、袋にパンを詰める。少し多めに。
「多くない?」
「帰りたてですし、体力も使ってると思うので。サービスです。ラトリアではお世話になりましたし」
自分でもよくわからない言い訳だった。
「スープもどうぞ。ちゃんと食べて、休んでください」
「ありがとう。助かる」
袋を受け取り、オモチもリラの肩へと戻ってきた。
「また来るよ」
「ありがとうございました」
扉が閉まり、鈴の音がひとつ鳴った。その音がやけに大きく感じる。
リラはその場でしばらく動かず、やがてカウンターに手をついた。
「……はぁ」
オモチがどこか呆れたように見上げてきた。
「きゅ」
「……なに」
視線を逸らしながら、小さくこぼす。
「最近のユリウスさん、心臓に悪い」
言葉にすると、少しだけ落ち着く。
オモチは呆れたように首を振り、窓辺へ戻って丸くなった。
外は変わらず賑やかで、パンの匂いもまだ残っている。リラはゆっくり顔を上げる。
さっきのやり取りを思い返す。ぎこちない言葉。多すぎたパン。それでも、最後に見せた笑顔だけがやけに鮮明に残っていた。
胸に残るのは、嫌な感覚ではない。むしろ、少しだけあたたかい。
小さく息を吐き、体を起こす。
扉の鈴が鳴り、お客様が店内に入って来た。
残っていた栗クリームパンは、いつの間にかひとつ減っていた。
「これ、もう一個いいか?」
「どうぞ」
自然に手が動く。包み、渡し、受け取る。
日常が戻ってくる。
パンを選ぶ音。硬貨の触れる音。短い会話。その中で、リラはいつも通りに動いていた。忙しさは、少しだけ心地いい。考えすぎなくていいから。
ふと窓の外を見る。午後の光が石畳にやわらかく落ちていた。
見慣れた街。
ここが、自分の場所だと改めて思う。
リラは小さく息を吐き、手を戻した。
「いらっしゃいませ」
その声は、もういつも通りだった。




