持ち帰った味と、小さな違和感
翌日の早朝。
木陰のベーカリーの裏口の扉が、静かに開いた。
「おはよ」
聞き慣れた声だった。
リラは手を止め、顔を上げる。
「ミレイ」
入口に立っていたのは、少しだけ疲れた顔をしたミレイだった。けれど、その表情はどこか軽い。
「帰ってきたって聞いて、顔見に来た」
そう言ってから、じっとリラの顔を見る。
値踏みするようでも、探るようでもない。ただ、確かめるような視線だった。
その目が、ふっと細まる。
「……なんか」
少しだけ間を置いて、
「スッキリした顔してるね」
思いがけない言葉に、リラは一瞬きょとんとする。そんなふうに見えるのかと、わずかに考えて――それから、ふっと笑った。
「うん」
短く答えてから、言葉を探す。
「行ってよかった」
それだけだった。
それ以上は、まだうまく言葉にならない。けれど、その一言の中に、確かに何かが収まっている気がした。
ミレイは首を傾げる。
「そうなんだ。よかったね」
軽い調子で言ってから、少しだけ目を細めて笑う。
「ミレイのおかげだよ。ありがとう」
「ん? 私、何もしてないけど」
リラはゆるく首を振る。
「背中、押してくれたよ」
あのときの言葉を思い出す。
迷っていた自分の背中を、ほんの少しだけ前へ進ませてくれたこと。
「ありがとうね」
ミレイは一瞬だけ目を瞬かせて、それから、少しだけ照れたように笑った。
「なんか、変な感じ」
そう言いながら、いつもの席に腰を下ろす。その動きは何も変わっていないはずなのに、どこか妙にしっくりと馴染んで見えた。
静かにスープをよそい、温めたサンドイッチを皿に並べる。
湯気がふわりと立ちのぼり、そのままミレイの前へ置いた。
木の皿がテーブルに触れる、小さな音。その音すら、どこか懐かしい。
ああ、戻ってきたんだな、と改めて思う。
ミレイはパンをひとつ手に取り、小さく口に運ぶ。それから、ふと顔を上げた。
「で、どうだったの? 旅」
何気ない調子だった。けれど、その奥にはほんの少しだけ踏み込んだ色が混じっている。
リラは棚に並べたパンの位置を整えながら答える。
「いろいろあったよ」
簡単な言葉だったけれど、その中には思いのほか多くの時間が詰まっている。森のこと。ラトリアのこと。両親のこと。
全てを話すことはできないけれど、旅の思い出を言葉にして紡いでいく。
言葉の合間に、火の音が小さく鳴る。スープの湯気がやわらかく揺れる。
その中で、ミレイは時々頷きながら、静かに耳を傾けていた。急かすことも、深く問いただすこともなく、ただそこにいる。
「いいなあ」
ぽつりとミレイがこぼす。その声は、ほんの少しだけ遠くを見るような響きだった。
「ちょっと憧れるかも」
その言葉に、リラは手を止める。パンに触れていた指先がわずかに止まり、少しだけ考えた。
ふと、思いついたように口を開く。
「じゃあさ」
ミレイが顔を上げる。その視線を受け止めながら、リラは続けた。
「今度、ピクニック行かない?」
「ピクニック?」
「うん」
リラは軽く頷く。
「この街の外、ちょっと見てみようよ」
ミレイの動きが止まる。パンを持ったまま、視線がわずかに揺れた。
「街の外……?」
その言葉には、ほんの少しだけためらいが混じっている。
無理もない。この街で暮らしている人にとって、外は近いようで、案外遠い場所だ。見えてはいるのに、踏み出す理由がなければ、なかなか行くことのない場所。
リラはやわらかく続ける。
「大丈夫。魔獣の少ない場所、知ってるし」
ほんの少し肩をすくめて、
「私達が護衛するから。ね?」
「きゅいっ」
オモチを見れば、任せろとでも言うように胸を張っていた。
ミレイはすぐには答えなかった。パンを持ったまま視線を落とし、指先がわずかに止まる。
外に出ること。知らない場所へ行くこと。それはきっと、簡単なことじゃない。
けれど――
ゆっくりと顔を上げた。
「……なんか」
小さく笑う。
「ワクワクする」
その言葉は、迷いを抱えたまま、それでも一歩踏み出そうとする響きを持っていた。
リラは、それにつられるように笑う。
「でしょ?」
ミレイは、少しだけ強く頷いた。
「うん。行ってみたい」
その声には、さっきまでなかった明るさが混じっている。
「じゃあ、いつにする?」
自然と、話は日取りへ移る。ミレイが指折り数えながら、都合のいい日を考えていく。
朝の光が、店の奥までゆっくりと差し込んでいた。
「この日なら大丈夫かも」
「じゃあ、その日に合わせて準備しておくね」
リラは軽く頷く。話が決まると、胸の奥に小さな灯がともる。まだ形も曖昧なものだけれど、確かにそこにある楽しみだった。
ふと、思い出したように付け足した。
「モンブラン、あとで届けるね。ラトリアの栗、たっぷり使ったの」
「え?」
ミレイが目を丸くする。
「いいの?」
「うん」
リラは少しだけ笑った。
「ミレイに背中押してもらったから。特別に」
悪戯なえみをうかべれば、ミレイは一瞬だけ黙り込み、それから照れたように視線を逸らす。
「……それ、ずるくない?」
そう言いながらも、口元はしっかり緩んでいる。その表情を見て、リラもまた小さく笑った。
店の中に、やわらかな空気が広がる。朝の光と、焼き上がる前の生地の匂いと、ほんの少しの甘い期待。それらが静かに混ざり合っていた。
ミレイは軽く手を振り、店を出ていく。扉が閉まり、鈴の音がひとつ、小さく鳴った。
ひとりになると、店の中は少しだけ静かになる。けれど、それは寂しさではなく、落ち着いた朝の音だった。
リラはそのまま仕込みに戻る。
栗を刻む。包丁の刃がやわらかな実に入るたび、ほのかな甘い香りが立ち上る。指先で質を確かめ、火の入りを見ながら、ひとつずつ形にしていく。
手は止まらない。考えるより先に、次にやることが分かる。その感覚が、どこか心地よかった。
ふと、ラトリアで見た景色を思い出す。
市場の賑わい。甘い匂いが幾重にも重なり合う空気。人が行き交い、絶えずどこかで笑い声が弾んでいた通り。
あの場所で見たもの。あの場所で感じたもの。
それを、ただ思い出にしてしまうのではなく――ここで、形にしたいと思った。
だから、手は自然と動く。ひとつひとつ、確かめるように。焼き上がりを思い描きながら、丁寧に重ねていく。
やがて、窯からパンを取り出す。
焼き上がったばかりのパンの匂いが、店の中にふわりと広がった。そこに、やわらかな栗の香りが重なり、ほんのりと甘い空気を作る。
ほんの少しだけ、いつもと違う朝。
けれどそれは違和感ではなく、この街に静かに馴染んでいく新しい気配だった。
棚には、見慣れないパンが並んでいる。
丸く焼かれた栗パン。艶のある生地にクリームを挟んだマロンデニッシュ。そして――小さな台の上に並べられた、いくつものモンブラン。
細く絞られた栗のクリームが、やわらかな山の形を作っていた。
扉の鈴が鳴る。
「お、いい匂いだな」
常連の男が入ってきて、すぐに棚へ目を向ける。
「……なんだこれ」
見慣れない並びに、思わず足を止めた。
別の客も顔を出す。
「リラ、これ新作か?」
リラは少しだけ笑う。
「ラトリアの栗を使ってみたんです。よかったら試食もありますよ」
その一言で、店の空気がほんの少し変わる。
「へえ」
「栗か?」
「そんなに違うのか?」
興味を引かれたように、自然と人が棚の前に集まってくる。
試食用のかごから一つ手に取る。指先で確かめるように持ち上げて――そのまま、ひとくち。
わずかな間があった。
「……うまいな」
ぽつりと落ちたその一言が、合図のようだった。
空気が、一気に動く。
「甘さがちょうどいい」
「これ、中どうなってるんだ?」
「デニッシュはさくさくで、でもクリームはトロトロで癖になるな」
「パンの中にも入ってるぞ」
声が重なり、笑い声が混じる。気がつけば、棚の前にはいつもより人が集まっていた。
リラはその様子を見ながら、少しだけ息をつく。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ラトリアで見た景色。市場の賑わい。重なり合っていた甘い香り。
それを、こうして持ち帰ることができた。この街で、形にできた。
「いいね、こういうの。この街ではなかなか楽しめない」
常連の一人が、モンブランを眺めながら言う。
「旅してきたって感じする」
その言葉に、リラは小さく頷いた。
ただ行って、帰ってきただけじゃない。ちゃんと、持って帰ってきたものがある。
それを誰かが喜んでくれる。そのことが、胸の奥にやさしく残った。
カウンターの向こうで、オモチが誇らしげに鳴く。
「きゅ」
自分の手柄だと言いたげだ。
リラは思わず笑った。
「そうだね」
そのまま次の客に声をかける。
「こちら、モンブランです。よかったらどうぞ」
店の中は、いつもより少しだけ甘くて、少しだけ賑やかだった。
旅の味が、フォルネアの朝に広がっていく。
――そのときだった。
ふと、扉の外に立ち止まる気配があった。
客かと思って顔を上げる。けれど、その人影は店の中へは入ってこない。
通りの向こう。少し離れた場所から、ただこちらを見ているだけだった。
背の高い影。
朝の光を背にしていて、顔まではよく見えない。
ほんの一瞬、視線が合った気がした。
けれど次の瞬間には、その影は人混みに紛れて消えていた。
「……?」
リラは小さく首を傾げる。
「どうした?」
常連に声をかけられて、はっとする。
「いえ、なんでも」
そう答えて、もう一度だけ外を見る。
そこにはもう、誰もいなかった。
それでもなぜか、胸の奥に、小さな棘のような違和感だけが残った。




