オモチと行く、金曜日の森
金曜日。
パン屋の営業は十三時まで。
常連たちはみんな、それを知っている。
十二時を過ぎると、店内は少し落ち着いた空気になった。
食べ終えた人たちが、ゆっくりと腰を上げる。
「ごちそうさま」
そう声をかけ、次々に店をあとにした。
最後のお客さんを見送って、リラは静かに扉を閉めた。
「……よし」
深く息を吐く。
すると、梁の上からオモチがひょいと降りてきて、肩に乗った。
頬をふくらませて、得意げに鳴く。
「きゅ」
「今日は南の森に行こうか。もしかしたら、ブラックベリーが実ってるかも」
そう言うと、オモチは分かっている、という顔をする。
目がきらきらしていた。
片付けを終え、戸締まりを確認する。
防犯の魔道具が静かに反応した。
裏口から外へ出ると、南門側の空気は少し湿っていた。
森が近いせいだ。
ベルン通りを抜けると、街の音が少しずつ遠ざかる。
代わりに、緑が増えていく。
畑を過ぎ、踏み慣れた小道へ。
足元の土はやわらかく、歩くたびに軽い音がした。
何度も通っている道だ。
それでも外へ出る日は、気持ちが少し浮き立つ。
オモチは地面に降りると、待ちきれない様子で走り出した。
粘糸を伸ばし、木から木へと跳ぶ。
一瞬。
白い影が弾むように移動して、もう次の枝だ。
速すぎて、視線では追いきれない。
「ちょっと待って。先に行きすぎないでね」
声をかけると、オモチは枝の上で振り返り、楽しそうに鳴いた。
――まあ、そんなことを言っても、あまり意味はないんだけど。
少し先で止まって、こちらを確認する。
それからまた、糸を伸ばしてすいすいと進んでいく。
ちゃんと見ている、という意思表示はするものの、
楽しい気持ちのほうが勝っているのだろう。
こうして外へ出るときは、決まってこんな調子だ。
リラも歩調を少し早め、胸いっぱいに森の空気を吸い込んだ。
森の中は静かだ。
それなりに魔獣も出るが、この街に来るまでに、冒険者としての経験も積んできた。
リラは両手剣に軽く指を這わせ、その存在を確かめる。
足元を意識しながら、慎重に進む。
道は、情報の塊だ。
草の倒れ方。
動物の足跡。
木の根の匂い。
そうしたものから状況を読み取りながら、オモチの後を追う。
しばらくすると、オモチが短く鳴いた。
「きゅ、きゅ」
視線を落とすと、低木に実がなっている。
甘みが強く、保存も利く木の実だ。
「これ、いいね」
籠に入れると、オモチは満足そうに頷いた。
次は、川沿いだ。
水は澄んでいて、指を入れるとひんやりと冷たい。
このあたりには、粉に混ぜると香りが立つ草が生えている。
オモチは少し先で止まり、また短く鳴いた。
どうやら、猿同士の何かしらのネットワークがあるらしい。
この街に来る前も、
初めて入ったはずの森で、何がどこにあるのか分かっていることがあった。
そういう時、決まってオモチは木の上へ跳び、
私の目では追えない速さで、誰かとやり取りをしている。
オモチは、「ヴェロス」と呼ばれる魔獣だ。
この種類はとにかく速い。
魔獣の中でも一、二を争うほどで、
本気で動かれると、こちらに見えるのは残像だけだ。
「ほんと、オモチは優秀だよね」
思わずそう告げると、オモチは得意げに胸を張った。
ひと通り集め終えたところで、切り株に腰を下ろす。
水筒の蓋を開け、一口飲む。
リラは、朝の残りのパンを取り出した。
1つ目は豆パン。
それから、フランスパンにガーリックチキンと、溶かしたグリュイエールチーズを挟んだバケットサンドだ。
豆パンは半分に割って、オモチにも渡す。
「食べすぎないようにね」
「きゅ」
分かっている、という顔で、神妙にうなずく。
一度、太って痛い目を見たからだ。
「いただきます」
「きゅうぅー」
森の音を聞きながら、大きく口を開けてバケットサンドにかぶりつく。
まず広がるのは、にんにくの香ばしさ。
焼き目のついたチキンから、じゅわっと旨味が滲み出る。
溶けたチーズがパンに絡み、塩気とコクをまとめてくれる。
――保温袋に入れてきてよかった。
フランスパンは外が軽く、中はしっとり。
噛むたびに、小麦の甘みがじわじわと顔を出す。
風に揺れる葉の音。
遠くで水が流れる気配。
それらと一緒に、口の中の味がほどけていく。
「ああ……おいしい」
しみじみと呟いて、もう一口。
そのまま、ふと思った。
商会を離れてから、二年。
冒険者として各地を回り、住む場所を探してきた。
危険な場所も、
稼げる場所も、
刺激に満ちた街も、たくさん見た。
それでも、ここを選んだのは――
「……いい場所だよね、ここ」
街と森が、きちんと距離を保っている。
便利だけど、せかせかしすぎない。
仕事はあるけれど、息をつく余白もある。
人が多すぎず、少なすぎない。
顔なじみが増えていくのが、ちゃんと分かる。
暮らす、という言葉が似合う街だ。
独り言に、オモチが小さく鳴いた。
「きゅ」
その声に、リラは少し笑った。
「さぁて、ブラックベリーを探しますか」
お腹が満たされると、体も自然と軽くなる。
籠を手に周囲を見回した。
日当たりのいい斜面。
低木がまとまっているあたり。
「あ、あった」
指先で枝を分けると、黒く艶のある実が連なっている。
完熟だ。
ひとつ、またひとつ。
指を汚さないように丁寧に摘み取り、籠へ入れていく。
オモチは近くの枝にぶら下がり、
時々「きゅ」と鳴いては、別の場所を示した。
気づけば、籠はほどよく重くなっていた。
街へ戻る頃には、日が傾き始めている。
南門側は、もう夕方の支度に入っていた。
通りには、煮込みの匂いが漂う。
どこかの家から、鍋をかき混ぜる音が聞こえた。
家に入る前、リラは少しだけ空を見上げた。
明日は土曜日。
その次は、太陽の日。
ほとんどの店が閉まり、
自分の店も、休みになる。
きっと明日は、朝から忙しい。
「帰って、仕込みしよっか」
オモチは、肩の上で小さく跳ねた。
金曜日の午後は、
こうして、静かに過ぎていく。




