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冒険者の街で、今日もパンを焼いています 〜小さな魔獣との静かな暮らし〜  作者: 白波 いつき


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朝のスープと、窓の外の喧騒

 まだ通りに人影がほとんどない時間帯に、裏口が小さくノックされた。


 リラは手を止め、布巾で指先を拭く。

 この時間に裏口を叩く相手は、だいたい決まっている。


 扉を開けると、ミレイが立っていた。


「……おはよう」


「おはよう」


 裏口から入ってきた彼女は、いつもより少し眠そうだ。

 金のウェーブが灯りを受けて、やわらかく揺れる。

 菫色の瞳が、静かに店内を見渡した。


 化粧はしていない。

 それでも目を引く顔立ちをしている。


 指先まで整っている人だと、リラは思う。


 朝ここへ来るときの彼女は、控えめな服を選ぶ。

 夜の姿を知る人が見ても、たぶん気づかない。


 けれど、リラにはもう見慣れた姿だった。


「いつも通りでいい?」


「うん。代わりに、拭くね」


 そう言って、ミレイは勝手知ったる様子で店内へ入り、壁際に立てかけてある布を手に取った。


 窓際の机と椅子を、慣れた手つきで拭いていく。


 この時間に店内に入れるのはミレイだけ。

 早く来る代わりに、簡単な掃除を手伝う。


 それが、いつの間にか出来上がった暗黙の約束だった。


 最初は、朝食を包んで渡すだけだった。


 持って帰るあいだに冷めてしまう、と彼女がこぼして。

 それなら中で食べればいい、と返してから、こうなった。


「今日は、根菜のスープにしたよ」


 ミレイは小さくうなずき、いつもの席に座る。

 窓から見えない、店の奥寄りの場所だ。


 鍋からすくったスープを器に注ぐ。

 湯気と一緒に、やわらかな香りが立ちのぼった。


 人参と玉ねぎに、ほくほくの冬瓜。

 甘みの出る野菜を、少し多めに使っている。


「……いい匂い」


 ミレイがそう言って、スプーンを口に運ぶ。


 やわらかく煮えた根菜が、口の中でほどける。

 控えめな塩気の奥から、じんわりと甘みが広がった。


 ひと口ごとに、体の奥が少しずつあたたまっていく。


 匙を置くまでのあいだ、ミレイはほとんど喋らなかった。


 その横顔を見ていると、ふと、あの朝のことを思い出す。


 まだ空が暗い時間。

 路地裏で、ほんの少しだけ困った顔をしていた彼女を。


 ――あのときは、こんなふうに話すようになるとは思わなかった。


 今は、黙って食べて、ゆっくり飲み込んで。

 それから、わずかに息をつく。


 それだけで、ここへ来た意味がなんとなく伝わってくる。


 誰かの視線を気にしなくていい席。

 朝のこの静けさは、スープと同じくらい大事なものだ。


 オモチは、いつの間にかミレイの隣にちょこんと座っていた。

 撫でられるたびに、目を細めている。


「きゅ」


「ふふっ、相変わらず君はかわいいね」


 ミレイが背中を撫でると、オモチはすっかりご満悦だ。


 こうしているのを見ると、ずいぶん懐いたなと思う。

 ミレイも、たぶん同じくらい懐いている。


 八時半。


 表の窓を開けると、冒険者たちが並び始めた。


「俺、昨日タバーンの前でミレイ見かけたんだよ」


「あ、俺も見た。本当にきれいだよな」


 鼻息荒く語る男たち。

 声は大きいが、悪意はない。


 この街では、こういう噂話は朝の挨拶みたいなものだ。


「一回一緒に飲んでみたいよな」


「俺たちごときの席に来てくれるかよ」


「でかい依頼でも成功したら、もしかしたらさ」


「その前に死ぬなよ」


 ……ここに、ご本人がいるんだけど。


 思わず心の中で突っ込みつつ、リラは手を動かす。


 ミレイは聞こえているのか、いないのか。

 こういう会話には、もう慣れているのだろう。


 涼しい顔で紅茶を飲んでいる。

 こういう時の強さは、少しすごい。


 ざわめきはやがて、通りの向こうへ流れていった。


 九時を少し回ったころ。


 客足が途切れたのを見計らって、ミレイが立ち上がる。


「そろそろ帰るね」


「うん。また来て」


 ミレイは小さく笑い、財布を取り出した。


「ちゃんと、食べてる?」


「……うん」


「来ない日も、ちゃんとだよ」


 少し言いすぎかもしれない。

 それでも、つい口に出る。


 ミレイは肩を揺らして笑った。


「ほんと、お母さんみたい」


「ママは、ミレイちゃんが心配なだけです」


 わざと胸を張ると、ミレイの笑みが少し深くなる。

 こうやって言葉を返し合うのが、まだ少しだけ不思議だった。


「ありがとう。今日もおいしかったわ。ママ大好きよ」


 ……ああ、これだ。


 こんなふうに笑われたら、みんな弱いんだろうなと思う。

 あれこれ貢ぎたくなる気持ちが、少しだけ分かる。


 悔しいけど、分かる。


 ミレイは裏口へ向かう。


「またね」


「うん、また」


 扉が閉まり、店内はいつもの朝に戻った。


 オモチが少し名残惜しそうに鳴く。


「きゅ」


「またすぐだよ」


 そう言いながら、リラは空いた器を下げる。


 まだ少し残っているのは、根菜のやさしい匂いと、紅茶の香り。


 木陰のベーカリーの朝は、

 今日も静かに、やさしく進んでいく。

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