朝の裏口と、揚げすぎたコロッケ
木陰のベーカリーの裏口が控えめに叩かれた。
「おはようございます」
扉を開けるとノアが立っていた。
ノアは牧場主の息子だ。
年は十五になるかならないか。
朝は学校の前に牧場を手伝い、その流れでここへ来る。
子どもだけれど、仕事として毎朝この裏口を叩く。
両手には、いつもの木箱。
少しだけ眠そうで、目をこすりながら立っている。
「おはよう。今日は早いね」
「はい。朝のうちに終わらせたほうが牧場も楽なので」
声は落ち着いている。
子どもらしい眠気はあっても、仕事の声だった。
木箱を受け取り、中を確認する。
牛乳、バター。
それから布に包まれたチーズがいくつか。
「助かります。今日はバター多めで合ってますよね」
「ここ数日、回転が良かったからね。ありがたいことに」
「父さんも母さんも喜んでました」
農場への注文依頼は、前々日に仕事を終えたあとで出している。
欲しい個数を書いた紙をオモチに預けると、驚くような速さで農場のおかみさんのもとへ届けてくれるのだ。
本当に、オモチ様様だ。
そう言いながら作業台に箱を置くと、足元で気配が動いた。
オモチが降りてきて、ノアの靴の周りをくるくる回っている。
「きゅ」
「あ、オモチ。今日も元気だね」
オモチが降りてくると、ノアは年相応の声になる。
「オモチもノアが来るのを楽しみにしてるよね」
「ウキュー」
オモチはノアを見上げ、素早く肩へと昇った。
そのまま頬に、自分の頬をぐりぐりと押し付ける。
ノアとの時間をしばらく堪能すると、仕事の邪魔にならない位置へと移動した。
箱の影に収まり、こちらの様子を見ている。
リラは、箱の中のチーズを一つ取り出した。
「あれ。これ、いつもと違うね」
「……分かります?」
ノアが少し照れたように言う。
「試作中なんです。まだ名前もなくて」
切り口を見て、香りを確かめる。
「香り、強すぎないし……中もなめらかで良いね」
「本当ですか」
「うん。焼き込みに使えそうだし、ホットサンドとかもいいかも」
ノアは小さく息を吐いた。
「父さんが、やってみろって」
「すごく、いいと思う」
大きく頷いてみせる。
余計な言葉はいらない。
試す価値があるかどうか、それだけだ。
ここ一年、チーズやバターの種類が増えたのは、ノアの家族の、こういう積み重ねの結果だった。
オモチが棚の上に移動し、チーズの包みをじっと見下ろしている。
「きゅ」
「気になるの? あとでちょっとだけ食べてみようか」
オモチはチーズも好きだ。
魔獣だから食べられるものの種類が多く、好奇心も旺盛で、いろいろ試している。
今のところ、辛いものと酸っぱいものが苦手だということは分かっている。
仕込みに戻ると、ノアが揚げ場のほうを見て、ぽつりと言った。
「……これ、やっぱり不思議ですよね」
そのつぶやきが気になって振り返る。
「え? 何が?」
「コロッケパンです。コロッケは僕が生まれたころから普通にあったけど、パンに挟むっていう発想はなかったから」
少し揚げ色の濃いそれを指さす。
「この街でも、他の街でも、見たことありませんでした」
「あー……確かにね」
「よく思いつきましたね」
感心したような言い方だった。
リラは一瞬言葉を探してから、肩をすくめる。
「思いついたというか……知ってた、が近いかな」
「知ってた?」
「うん。前から、こういうのあるって」
油の温度を確かめながら答える。
――知っていた。
それだけだ。
パンに揚げ物を挟む。
白くてやわらかいパンに、焼いた肉をはさむ。
細長いパンに、ソーセージをのせる。
それは、どこか別の場所では、ごく普通のものだった気がする。
たくさんの人が、当たり前みたいに食べていた。
朝に、昼に、急いでいる時にも。
なのに、この世界では見かけなかった。
「冒険者さんや建築関係の人たちは、すごく喜んでましたよ。おかげで僕のところのチーズも前より売れるようになってきました」
ノアは小さく笑った。
「結構おなか満たされるもんね。パンとお肉とチーズ。最強の組み合わせだよね」
「はい。持ち歩けて、冷めても食べられて。僕も配達で馬車の運転中に片手で食べられるから、よく食べてます。今までなかったのが不思議なくらいです」
「そんなに褒められちゃうと、照れるなぁ」
ふと、脳裏に浮かぶ光景がある。
硬くて黒い道。
その上を、鉄の箱みたいなものがいくつも走っていた。
もっと大きな塊が、空を飛んでいた気もする。
白い建物。明るすぎる灯り。知らない音。
どれも輪郭がぼやけている。
名前も、仕組みも、ちゃんとは思い出せない。
でも、パンのことだけは妙に残っていた。
揚げたものをはさむパン。
甘い餡の入った丸いパン。
格子みたいな模様のある甘いパン。
細長いパンに、赤いソースや白いソースをかけたもの。
物心がついた頃から、そういうものを食べたいと思っていた。
懐かしい、というのとも少し違う。
食べたことがある気がするのに、いつ、どこでだったのかが分からない。
ただ、この世界のどこを探しても見つからなかった。
だから、自分で作った。
仕込みに戻り、コロッケを油に入れる。
少し火が強かったのか、引き上げてすぐ分かった。
「……揚げすぎた」
色が濃い。
味は悪くないだろうけど、売り物には少し迷う。
そっと脇に寄せた。
オモチが油の匂いに反応して、少しだけ身を乗り出す。
「きゅ」
「これはダメ」
ノアがそれを見て、首をかしげた。
「ダメなんですか」
「うん。ちょっと揚げすぎちゃって。時間がたつと油っぽくなるかな」
少し考えてから言う。
「持っていく?」
「え」
「揚げすぎただけ。焦げてはいないし、味は問題ないよ」
一瞬、ノアは言葉を探した。
「……いいんですか」
「おなかいっぱいなら無理しなくていいからね」
少し間があって、ノアはうなずいた。
「……じゃあ、いただきます」
「ん。パンに挟もうか?」
ノアは悩みつつも、小さくうなずいた。
リラは少し笑って、半分に切ったコッペパンの真ん中に切れ込みを入れる。
仕込んでおいたキャベツの千切りと一緒にコロッケを挟み、特製のソースをかけた。
ソースの匂いが、ふっと立つ。
この匂いも、どこか懐かしい。
甘くて、少し酸っぱくて、揚げ物によく合う味。
でも、どうして知っているのかは、やっぱり分からない。
それを紙に包んでいると、オモチが両手を広げて待機していた。
「きゅっ」
渡せと言わんばかりの態度に片眉を上げつつ、オモチより少し大きいくらいのサイズのそれを手渡す。
オモチは一生懸命、両手に抱えてノアのもとへ運んでいく。
距離は、およそ三十センチほどだ。
「ありがとうございます。オモチもありがとうね」
「きゅうぅ~」
大仕事をやり切ったとばかりに、オモチは満足そうに頬を膨らませた。
「早めに食べてね」
ノアは木箱を抱え直し、裏口へ向かう。
オモチが、ちょこんと前足を上げた。
「きゅ」
「ありがとうございました。またお願いします」
扉が閉まる。
店の中に朝の静けさが戻った。
裏口の音が完全に消えてから、少しだけ間があった。
外に出たノアの足音が、通りの向こうに溶けていく。
作業台の上を一度見渡す。
受け取ったばかりのバター。
布に包まれた、まだ名前のないチーズ。
それから、揚げすぎたコロッケが一つ減った皿。
仕込みを再開しながら、ふと考える。
最近は、バターの消費が早い。
チーズの種類を聞かれることも増えた。
冒険者だけじゃなく、商人や旅人も、この街に立ち寄る。
自分が知っていた味が、この街の暮らしに少しずつ混ざっていく。
それは、少し不思議で、少しうれしい。
オモチが棚の上から小さく鳴いた。
「きゅ」
リラは少しだけ口元を緩める。
「そうだね。今日も頑張ろうか」
次のパンの準備を始める。
バターの匂いと、揚げ油の残り香が、朝の店に静かに混ざっていた。
木陰のベーカリーでの時間は、今日もいつも通り、進んでいく。




