冒険者は、剣よりパンが気になる様子
フォルネアに来て、二週間。
冒険者のユリウスは、まだこの街に腰を落ち着けると決めきれずにいた。
人の出入りは多いが、騒がしすぎない。
仕事もある。森も近い。ダンジョンもある。
冒険者にとっては、暮らしやすい街だった。
それでも、長く住むと決めるには、もう少し時間がほしかった。
もっと危険で、もっと稼げる土地はある。
珍しい魔物が出る場所なら、報酬は大きい。
腕を磨くなら、そういう街へ行く方が早い。
そう思いながらも、次の行き先を決める気にはなれなかった。
決めて、また離れるのを繰り返すことに、少しだけ疲れていたのかもしれない。
今日も朝から潜っていたダンジョンで、最後の一体を斬り伏せる。
剣を払うと、黒い液が石床に散った。
短くした銀の髪が、額にかかる。
騎士だった頃は、もう少し長かった。
今は手入れに手間をかける必要もない。
休憩用の壁際に腰を下ろし、革袋を開く。
中に入っていたのは、干し肉と、硬いパンだった。
塩気は強い。
腹は満たされる。
それで困ることもない。
そういう食事に、ずいぶん長く慣れていた。
一口かじったところで、ふと顔を上げる。
甘い匂いがした。
香ばしくて、少しこってりしていて、空腹をまっすぐに刺激する匂いだった。
隣では、見覚えのある男が包みを開いている。
三人組で動くことの多い冒険者だ。
保温袋から取り出されたそれには、うっすら湯気が残っていた。
丸いパンに、焼かれた肉。
照りのあるソースに、白っぽいなめらかなものがかかっている。
最近、この街でよく見るものだった。
ダンジョンでも、街道でも、依頼帰りの広場でも。
妙においしそうなパンを持ち歩いている冒険者が増えていた。
気がつくと、腹が鳴った。
「悪いな」
男が笑う。
「保温袋に入れといたから、匂いがたっちまったな」
「いや」
短く返し、ユリウスは干し肉を袋に戻した。
「前から気になっていたんだ。それ、有名なのか」
「ああ。最近かなりな」
男はうれしそうにパンを持ち上げる。
「木陰のベーカリーって店だ。南門のほうにある」
「木陰のベーカリー」
「そう。朝から開いてて、腹にたまるやつが多いんだよ。冒険者にはありがたい」
言いながら、男は一口かじった。
噛んだ途端、顔がゆるむ。
「真似する店も出てきたけど、やっぱり違うんだよな。パンもうまいけど、具のまとめ方がいい」
「どのあたりにある?」
「南門側。ベルン通りの角だ」
南門、と聞いて、頭の中で街の地図をなぞる。
今借りている部屋は北門寄りだ。
鍛冶屋と武具屋、それに冒険者向けの安宿が多い場所で、生活の匂いはあまりしない。
だから見かけなかったのかと、納得する。
「行ってみるよ」
「今日と明日は十三時までだぞ」
「そうなのか」
「朝にいくなら、早いほうが品数多い。行くなら開店直後を狙うのがお勧めだ」
「ありがとう。助かる」
礼を言うと、男は片手を上げた。
「俺はダルクだ。次に会った時は、そっちも何買ったか教えろよ」
「ユリウスだ」
名前だけ返して立ち上がる。
胸の奥に、さっきの匂いが残っていた。
たぶん、パンのせいだけではない。
こういう小さな話題が、自然に交わされる街なのだと思った。
そのことが、少しだけ気にかかった。
翌朝。
依頼の前に、南門へ向かった。
ベルン通りは、北門側より静かだった。
荷車の音も、人の足音も、どこかゆるやかだ。
通りの角に、小さな店が見えた。
木の看板。
開いた扉。
窓の向こうに並ぶ焼きたてのパン。
近づいただけで、香りがした。
焼けた小麦の匂い。
甘い香り。
肉の香ばしさ。
玉ねぎを炒めたような、やわらかな匂いも混ざっている。
店の前には、すでに数人並んでいた。
冒険者だけではない。買い物帰りらしい女性や、仕事前の男もいる。
少し待って窓へと近づく。
目の前に並ぶ籠を見て、足が止まった。
照り焼きマヨパン。
たまごサンド。
ホットドッグ。
マヨコーンパン。
クリームパン。
それから、細長い焼き菓子。
どれも、飾りすぎてはいない。
けれど、ちゃんとおいしそうだった。
腹を満たすためのものとして、きちんと考えられている。
それが、すぐに分かる。
気づけば、次々と籠に入れていた。
少し取りすぎたかと思ったのは、会計の直前だった。
まわりの客は二つか三つ。
自分の籠だけ、明らかに重い。
そのとき、店の奥から声がした。
「ありがとうございます」
顔を上げる。
立っていたのは、若い女性だった。
派手ではない。
けれど、目を引いた。
赤茶の髪を後ろでまとめ、白いエプロンをつけている。
表情はやわらかいのに、目だけが落ち着いていた。
客に慣れている店主の顔だと思った。
それだけではない、とも思った。
一瞬だけ、相手もこちらを見る。
じろじろ見るわけではない。
けれど、きちんと見ている。
何を買う客か。
どんな様子か。
そういうことを、静かに見ている目だった。
その視線に、妙な圧はない。
なのに、ほんのわずかに気が引き締まる。
そう感じた直後、籠がわずかに重くなる。
視線を落とすと、白い小さな獣が、いつの間にか縁に乗っていた。
「……」
猿に見える。
だが、ただの猿ではないと、すぐに分かった。
気配がなかった。
白地に淡い模様。
丸い目。
肩に乗れそうなほど小さいのに、体の軸が妙にぶれない。
その小獣は、ユリウスを見上げると、親指を立てた。
「オモチ」
女性が慌てたように呼ぶ。
この子の名前だろうか。
小獣はひらりと籠を降り、そのまま女性の肩へ移った。
軽い動きだった。
軽いのに、隙がない。
「すみません」
「いや」
短く返しながら、もう一度、小獣を見る。
何とも言えず、ふかふかで可愛い。
それなのに、妙に印象に残った。
店主は手早く会計を済ませ、紙袋を差し出した。
指先の動きがきれいだった。
慣れているからだけではなく、無駄がない。
そういうところも、少し印象に残る。
金額を聞いて、思っていたより安いと感じた。
王都なら、白パン一つでもこれに近い値がつく。
だが、ここでは具も多く、どれもまだ温かい。
「またお越しください」
そう言われて、ユリウスは小さくうなずいた。
店を出ると、紙袋から熱が伝わってくる。
そのぬくもりが、妙に心地よかった。
昼になってから、壁際に腰を下ろして袋を開く。
最初に手を伸ばしたのは、照り焼きマヨパンだった。
一口かじる。
甘辛いソースが先に広がり、そのあとから肉の旨味がくる。
パンの表面は軽く焼かれていて、歯を立てた瞬間だけ薄く音がした。
だが、中はやわらかい。
噛むたびに味がなじんでいく。
重いのに、重すぎない。
食べたぶんだけ、体の奥に力が落ちていく感覚がある。
もう一口。
次も、自然に続いた。
腹が減っていたからではない。
ちゃんとおいしいものを食べるのが、思っていたより久しぶりだった。
次に、細長い焼き菓子を取る。
硬い。
だが、嫌な硬さではなかった。
噛むと、穀物の香りがじわりと広がる。
甘さは控えめで、粉の味がきちんと残っている。
水を含んで、またかじる。
飽きない味だった。
腹が満ちただけではない。
肩のあたりに入っていた力が、少し抜けている。
剣を握るための緊張とは別のものが、ずっと残っていたのかもしれない。
ユリウスは、手の中のパンを見る。
あの店は、ただ便利なだけではなかった。
朝に腹を満たすための店。
それだけなら、この街にも他にある。
けれど、あの店には少しだけ、足を止めたくなるものがあった。
焼きたての匂い。
小さな魔獣。
静かな目をした店主。
どれか一つではなく、たぶん全部だ。
フォルネアは、暮らしやすい街だ。
仕事がある。
人も多い。
それでいて、必要以上に踏み込んでこない。
そういう場所を探していたのだと、今さら少し分かった。
もう少し、この街にいてもいいかもしれない。
危険で稼ぎのいい土地は、探せばいくらでもある。
だが、朝に焼きたてのパンが並び、小さな魔獣が肩に乗っていて、店主が静かな目で客を見ているような場所は、そう多くない。
次に部屋を借りるなら、南門側がいい。
そう思いながら、ユリウスは剣を取った。
あの店に通うようになれば、顔も覚えられるだろう。
それが良いことなのかどうかは、まだ分からない。
ただ、焼きたての匂いは、朝の空気によくなじんでいた。
そして、その匂いのする場所を、もう一度思い出している自分に、少しだけ気づいていた。




