戻らないものと、帰る場所
翌日。
もう一度、倉庫街へ足を運んだ。
今日が最後。
朝の空気は冷たい。吐く息が白く、かすかに揺れる。
けれど倉庫の中は、すでに人の熱気で満ちていた。
荷馬車が次々と到着し、木箱が降ろされていく。
帳簿をめくる音。木箱を置く鈍い音。作業員たちの短い指示。
忙しい朝の光景だった。
昨日と同じ場所に、同じ人たちがいる。
そして――母も、父も、そこにいた。
母は検品台の前に立ち、箱を開け、中身を確認し、帳簿に印をつける。終わると次の箱へ手を伸ばし、また同じ作業を繰り返す。
動きは正確で、無駄がない。誰ともほとんど言葉を交わさず、ただ必要な動きだけを続けている。
相変わらず、無表情だった。
一方、父は少し離れた場所で荷物を運んでいる。苛立った顔。荒い動き。
重たい箱を肩に担ぎながら何かを言っているが、周囲の人間はほとんど相手にしていない。
しばらくその様子を見ていた。
胸の奥は、驚くほど静かだった。
不安も怒りも浮かばない。ただ確認するように二人を見つめ、やがて、ゆっくりと歩き出す。
人の間を抜け、検品台へ向かい、母の前まで来ると、足を止めた。
「すみません」
思っていたよりも落ち着いた声が出た。
袋の口を開き、中から木の実を取り出す。
フォルネアの山で採れたもので、ごくありふれた品だ。指先で整えながら、検品台の上にそっと並べる。
「持ち込み品なんですが、ここで確認してもらえますか?」
母は一度だけ顔を上げ、視線がこちらに触れる。
少しの間こちらの顔を眺め、ほんの少し、首を傾げた。けれど、それだけだった。
すぐに帳簿へ目を落とし、何事もなかったかのように手続きを始める。品をひとつずつ確かめ、指先で動かし、印をつける。その手つきに迷いはない。
仕事として。
ただ、それだけの対応だった。
そのとき、背後で足音が止まる。重たい靴音が近くまで来て、ぴたりと止まった。
父だった。
「……おい」
低い声が落ちる。
振り向かなくても分かる距離だった。
ゆっくりと顔を上げると、父がこちらを見下ろしている。にやりと、口元が歪んだ。
「この街には一人で来たのか?」
値踏みするような視線だった。
「なぜですか?」
短く返すと、父は肩をすくめる。
「綺麗な顔してるじゃないか。一人歩きは危ないぞ」
口元を歪めたまま続ける。
「よかったら、俺が面倒見てやろうか?」
その言葉には、はっきりとした下卑た響きがあった。
母はすぐ隣にいる。それでも何も言わない。顔も上げず、帳簿に目を落としたまま、手だけを動かしている。まるで、この会話が届いていないかのように。
リラは、二人を静かに見た。
父の顔。母の横顔。
そして――胸の奥で、何かが静かに落ちた。
怒りは、ほとんど湧かなかった。ただ、理解しただけだった。
目の前にいるこの二人は、自分の知っている両親ではない。
いや――もしかしたら、最初からそうだったのかもしれない。
暖炉の前で過ごした夜。母が髪を結んでくれた朝。優しかった記憶は、確かにある。
それでも今、ここにいる人たちは、まるで別の誰かのようだった。
ふと、あの男の顔がよぎる。かつて自分に触れたときのあの笑みと、父のそれが重なる。
リラは、静かに目を伏せた。
所詮――同じ穴の狢だったのだ。あの家に、娘を失い悲しむ親はいなかった。
――私の選択は、間違いじゃなかった。
そう思った瞬間、不思議と胸が軽くなった。
視線を上げ、真正面から父だった男を見つめた。
「結構です」
父が眉を上げる。
「……あ?」
低く間の抜けた声が落ちるが、気にならない。
その目を見据えつつ、静かに続ける。
「待っていてくれる人たちがいるので」
それだけを告げる。
検品は終わっている。袋の口を閉じ、紐をきつく結ぶ。その指先の動きが、自分の中の区切りをなぞるようだった。
もう、この場所に用はない。
「行こう、オモチ」
「きゅ」
小さな返事を合図に、歩き出した。
背後では変わらず作業が続いている。木箱の音、帳簿の音、短い指示の声。何も変わらない日常の音だった。その中に、自分の居場所はもうない。
振り返らないまま、倉庫を後にする。
少し歩いた先で、人通りの少ない路地に入る。古い木箱が積まれ、その横に小さなゴミ箱が置かれていた。
ゆっくりとポケットへ手を入れる。
取り出したのは、あの髪飾りだった。
色あせた布。擦り切れた端。九歳の頃、母がくれたもの。
指先で軽くつまみ、ほんの一瞬だけ見つめる。
それから――迷うことなく、ゴミ箱へ落とした。
コトリ、と軽い音がした。
「行こうか」
そう言って歩き出そうとした、そのときだった。
オモチがふいに動く。
「きゅ?」
首を傾げたかと思えば、次の瞬間にはひょいと肩から飛び降りていた。
「オモチ?」
呼び止める間もない。
小さな体は一直線にゴミ箱へ向かい、髪飾りを掴むとくるりと振り返る。そのまま全力で駆け出した。
向かう先は――倉庫。
「オモチ!?」
声は届かない。
小さな白い影は石畳を蹴ったかと思うと、一瞬で視界の外へ消えた。
あまりにも速くて、追うことすらできない。
リラが思わず足を止めた、その頃。
倉庫の入口では、オモチが軽やかに跳び上がっていた。
「きゅっ!!」
父母を目にしたオモチは大きく腕を振り被り、振り抜かれた腕からは髪飾りが放たれる。
弧を描いたそれは、まっすぐに飛んで――父の頭に直撃した。
「いでっ!?」
弾かれた髪飾りは床に落ち、ころりと転がって、母の足元で止まる。
オモチは満足そうにくるりと一回転すると、そのまま何事もなかったように倉庫を飛び出した。
倉庫の中では、父が怒鳴っている。
「誰だ今の!」
だが、誰も答えない。
その横で、母はゆっくりとしゃがみ込んでいた。
足元の髪飾りを拾い上げる。
指先が、わずかに震えている。
「……この髪飾りは……」
かすれた声が漏れる。
次の瞬間、母の表情が変わった。
「さっきの子……」
ゆっくりと顔を上げる。
「リルだったのよ!」
立ち上がり、外へ出ようとする。
だが、その腕を父が掴んだ。
「どこ行くつもりだ!」
「離して!」
声が崩れる。
「リルなのよ……!」
その場で膝が折れ、母は崩れるように泣き出した。
前に出た兵士が、低く制止する。
「勝手に外へ出るな」
父は呆然と立ち尽くし、母は髪飾りを握りしめたまま動けなかった。
その少しあと。
石畳の道に立ち尽くしたまま、リラは周囲を見回していた。
どこへ行ったのかと目をこらす間もなく、白い影がふいに視界の端へ戻ってくる。
そして、勢いよく肩に飛び乗った。
「きゅ!」
誇らしげな顔だった。
リラは思わず苦笑する。
「どこ行ってたの、オモチ」
「きゅ!」
胸を張るような返事が返ってきて、思わず、小さく笑った。
「……もういいよね」
ぽつりと落ちた言葉は、驚くほど静かだった。
胸の奥に残っていたものが、ゆっくりほどけていく。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、終わったのだと。そう思うことができた。
知りたいことは知った。確かめたいことも、確かめた。
ずっと胸のどこかで抱いていた希望は、あくまで夢だったのだと痛感した。
リラはわずかに足を速める。
この街を出よう。
そして――帰る。
待ってくれている場所へ。
「帰ろうか」
「きゅ」
その言葉は、思っていたよりも軽かった。
足取りは迷いなく、国境へと続く道を進んでいく。
振り返ることは、もうなかった。




