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冒険者の街で、今日もパンを焼いています 〜小さな魔獣との静かな暮らし〜  作者: 白波 いつき


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甘い匂いと、ほどける夜

国境を越え、街道をしばらく進むと、空気がわずかに変わった。


 鼻先をくすぐる、ほのかな甘い匂い。


 栗だ。


 思わず小さく息を吸い込み、肺の奥までゆっくりと満たす。

 張りつめていたものが少しだけ緩む気がした。


 視線の先に、数日前にくぐり抜けた門が見えてくる。


 栗の街――ラトリア。


 石造りの門は大きくはないが、人の出入りは絶えない。旅人や商人が行き交い、門の内側ではすでに市場の賑わいが広がっていた。屋台の布が風に揺れ、呼び込みの声が通りに重なる。


「焼き栗だよ!」

「甘い栗菓子、できたてだ!」


 門をくぐった瞬間、匂いが一段と濃くなった。


 焼き栗の香ばしさ。砂糖で煮た栗菓子の甘さ。どこかの店から流れてくる焼きたてのパンの香り。それらが混ざり合い、街全体をやさしく包み込んでいる。


 リラはゆっくりと息を吐く。


「……戻ってきた」


 ぽつりと零した言葉に、肩の上でオモチが小さく鳴いた。


「きゅ」


 くんくんと鼻を動かし、周囲の匂いを忙しなく嗅いでいる。栗の香りにすっかり気を取られているらしい。その様子が可笑しくて、リラはわずかに口元を緩めた。


 順調に進んでいれば――ユリウスたちも、もうこの街に着いている頃だろう。


 そんなことを、ふと考える。

 自分でも少し不思議だけれど、何だか無性に、誰かに会いたかった。


 自分を知っている人。あの街での自分を知っている人。


 それだけで、少し安心できる気がした。


 リラはユリウスから聞いていた宿へ向かう。


 街の中心から少し外れた場所にある、石造りの落ち着いた建物だった。古びてはいるが手入れは行き届いており、扉や窓枠の木も丁寧に磨かれている。


 木の扉を押して中へ入ると、外の喧騒とは対照的に静かな空気が流れていた。


 カウンターの向こうで、宿の主人が帳簿をめくっている。夕方前の時間で、ロビーにはまだ人影は少ない。


「すみません」


 声をかけると、主人が顔を上げた。年季の入った目がこちらを一瞥し、静かに頷く。


「何か用かい?」


 リラは一瞬だけ言葉を選ぶ。


「こちらに、ユリウスさんという方が――」


 言いかけて、ふっと笑った。


 宿屋が客の情報を軽々しく明かさないことは知っている。事情を抱えた旅人も多い場所だ。ここでは、それが当たり前の配慮だった。


 軽く肩をすくめる。


「もし泊まっていたら、伝言をお願いできますか?」


 主人は短く頷く。


「内容は?」


「リラです。到着しました」


 それから少しだけ考えて、続けた。


「明日、東の解放されている栗園に栗拾いに行きます」


 主人は帳簿の端にそれを記し、「預かっておく」とだけ言った。


「ありがとうございます」


 軽く頭を下げ、リラは宿を後にする。


 外へ出ると、夕方の光が街をやわらかく照らしていた。屋台から立ち上る煙とともに、甘い匂いがまた風に乗って流れてくる。


 肩の上で、オモチが鼻を動かした。


「きゅ」


 楽しそうに匂いを追っている。


「そんなに好き?」


 問いかけると、もう一度くん、と鼻を鳴らす。

 答えは聞くまでもなさそうだった。


 通りを歩いていると、ふと視界の端に木の看板が入る。湯気を描いた丸い絵。


 大衆浴場だった。


 リラは足を止める。


 理由ははっきりしない。ただ今日は、さっぱりしたかった。


 「ごめんオモチ。少し時間もらって良いかな?」


 「きゅっ」


 そう告げれば、オモチは小さく頷き店の屋根へとスルスルと登っていく。


 「ありがとう」


 オモチを見とどけ、暖簾をくぐる。


 中に入ると、温かな空気が体を包む。湯気が立ちこめ、人の声がやわらかく響いている。桶の触れ合う音、湯の流れる音。どこか落ち着く響きだった。


 体を流してから湯船に足を入れると、じんわりと温かさが広がる。冷えていた足先から、ゆっくりと体の奥へと染み込んでいく。


 そのまま肩まで沈む。


 背中を包む湯の重さに、思わず息が漏れた。


「……はぁ」


 力が抜けていく。


 短いはずなのに、ずいぶんと長く感じた旅だった。

 国境を越え、グラディスへ行き――そして、両親に会った。


 そっと目を閉じる。

 胸の奥に残っていた重さが、湯気とともに少しずつ薄れていく。


 今はただ、温もりの中で静かに落ち着いていく。


 どれくらいそうしていただろうか。

 湯から上がるころには、体も心も軽くなっていた。


 外へ出ると、空は夕暮れに染まり始めている。まだ暗くはなく、街には柔らかな光が残っていた。


 リラは宿へと向かう。

 部屋に入ると、ほっと息がこぼれた。靴を脱ぎ、そのまま布団へ身を預ける。


 ふかふかの寝具が背中を優しく受け止めてくれた。

 目を閉じたあと、いつ眠ったのかは覚えていなかった。


 翌朝。


 リラは、驚くほどすっきりと目を覚ました。


 窓から差し込む朝の光が、部屋をやさしく満たしている。金色の光が床に広がり、静かな空気がゆっくり流れていた。


 しばらくぼんやりと天井を見つめる。


 体が軽い。


 久しぶりに、深く眠れた気がした。


 ふと、顔の横に気配を感じて視線を向けると、オモチが丸くなって眠っていた。小さな体を縮め、尻尾を巻きつけている。


 珍しい。


 普段はもっと離れた場所で寝ることが多いのに、今日はすぐ隣だった。


 小さな寝息が聞こえる。


「……ふふ」


 思わず笑みがこぼれる。

 両腕を伸ばし、ぐっと背筋を伸ばした。


「んー!」


 体の奥まで空気が通る。

 そのまま体を起こし、朝の光をひとつ吸い込んだ。


 ぽん、と膝を叩く。


「よし」


 今日は――


 念願の栗拾いだ。

 そう思った瞬間、自然と笑みが浮かんだ。

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