森の夜と、あの日へ続く道
ベルンハルトの城壁が見えてきたのは、三日目の昼前だった。
遠くからでも分かる大きな石造りの門。高く積み上げられた城壁は陽の光を受けて白く輝き、その手前にはすでに長い列ができている。
荷馬車や旅人、商人たちが行き交い、門の周辺は絶え間ないざわめきに満ちていた。
「やっぱり人が多いですね」
窓の外を眺めながらそう言うと、セオドアが肩をすくめて笑う。
「ルミナールでも指折りの商業都市だからな。毎日これくらいはいる」
ゆっくりと列が進み、やがて馬車は門をくぐった。
その瞬間、空気が変わる。
人の気配が一段と濃くなり、音が増える。視界に入るものすべてが忙しなく動き、通りの奥へと流れていくようだった。
広い石畳の道には絶えず荷馬車が行き交い、両脇には店が隙間なく並ぶ。
商業都市らしい、活気のある空気だった。
リラは思わずあたりを見回す。
久しぶりだな、と小さく思う。
フォルネアも賑やかではあるけれど、ここはまた違う。人の流れも、扱われている品の量も、まるで別のもののように感じられた。
そして何より。
商売の気配が、濃い。
値踏みする視線。品を選ぶ手つき。交わされる短い言葉の裏にある計算。通りを満たす空気そのものが、売り買いでできているようだった。
懐かしさと、少しの距離感。
その両方を、リラは静かに受け止めていた。
やがて馬車は、大きな建物の前でゆっくりと止まる。石造りの堂々とした外観。入り口の上には、見慣れた紋章が掲げられていた。
ウィルクス商会。
馬車から降りると、懐かしい景色が広がる。出入りする商人たち。荷を運ぶ従業員。短く交わされる指示と、途切れない足音。忙しさの中に、確かな秩序が息づいている場所だった。
胸の奥に、かすかな感覚がよぎる。
ここで過ごした時間。
けれど、それはもう遠いものだった。
リラはセオドアとマーガレットへ向き直り、軽く頭を下げる。
「ここまでありがとうございました」
そう告げると、マーガレットがすっと袋を差し出した。
受け取った瞬間、ずしりとした重みが手に残る。
「これは……?」
「保存食です」
袋の中には、干し肉や保存パン、乾燥スープに薬草茶が隙間なく詰められていた。ひとつひとつ丁寧に包まれていて、用意した時間がそのまま伝わってくる。
「野営があるでしょう? それに、あなたの旅菓子もいただいてしまったし」
困ったように笑いながらも、マーガレットは落ち着いた声で続ける。
「少し多めに用意しました」
その言葉と重みが、静かに胸へ落ちる。
リラは袋を抱え直し、小さく息を吐いた。
あたたかい。
そう思う。
セオドアも腕を組んだまま口を開く。
「護衛つけるか? 街道なら問題ないが、森に入るなら――」
言葉は以前と同じだ。
けれど、その響きはどこか違っていた。
リラは笑って首を振る。
「大丈夫です。森には慣れているので」
足元でオモチがぴょんと跳ねる。
「きゅ」
その言葉に、セオドアは一瞬だけ目を見開き、それから困ったように笑った。
無理に続けることも、押し通すこともしない。
彼の変化が、はっきりと伝わってきた。
その姿を見ていたマーガレットが、わずかに微笑んだ。
「では、フォルネアに戻ったら、今度はゆっくり食事でもしましょう。またお邪魔するわね」
「はい。楽しみにしています」
穏やかなやり取りの余韻が、まだその場に残っていた。
そのときだった。
商会の扉が開き、ひとりの男性が外へ出てくる。
背の高い、落ち着いた雰囲気の男。整えられた装いに、無駄のない所作。その姿には、この場所を取り仕切る者の空気が自然と滲んでいた。
そして。
どこかセオドアによく似た顔立ち。
ウィルクス商会の会長。
セオドアの父だった。
「リラか」
低い声が、わずかに柔らぐ。
「久しぶりだな」
「お久しぶりです」
自然と背筋が伸びる。
視線を受け止めながら、リラは静かに頭を下げた。
あの頃と変わらない距離感。
けれど、もう同じ立場ではない。
そう思った瞬間。
商会長の視線が、ふっと横へ流れる。
その先にいたのは――オモチ。
「おお!」
声の調子が、一気に変わった。
次の瞬間には、ひょいと抱き上げられている。
「きゅっ!?」
見慣れた相手に油断していたのだろう。
もぞもぞと逃げようとするオモチを、商会長は楽しそうに撫でる。
先ほどまでの落ち着いた空気が、あっさりと崩れた。
「やっぱり可愛いなぁ。久しぶりだな」
その表情は、先ほどまでの落ち着いた商人の顔とはまるで違っていた。目元がやわらぎ、声音もどこか弾んでいる。
昔から、この人はオモチを気に入っている。
――譲ってくれないか。
そう言われたことも、一度や二度ではない。そのたびに、粘糸の価値や希少な魔獣だからだと思っていた。
けれど。
今の様子を見ていると、どうも違う。
ただ、好きなのだ。
腕の中のオモチは、なんとも言えない顔をしている。
「きゅぅ……」
明らかに不満そうに身をよじるが、逃げきれない。その様子に、リラは思わず小さく笑った。
近くにいると、見えなくなることもある。
そんなことを、ふと思う。
リラは一歩下がり、改めてセオドアとマーガレットへ向き直った。
「本当に、ありがとうございました」
深く頭を下げると、マーガレットはやわらかく微笑み、そっと手を振った。
「気をつけてね」
「また来てくれ」
セオドアも短く言葉を添える。
その隣で、商会長はオモチを抱えたまま満足そうに頷いていた。
オモチは、なんとも言えない顔のまま小さく鳴く。
「きゅ……」
リラは思わず笑い、そっと手を差し出す。
「行こうか」
その一言で、オモチはひょいと肩へ戻ってきた。
軽い重みが、いつもの場所に落ち着く。
リラは荷物を背負い直し、肩の位置を整えてから歩き出した。
視線を前へ向けると、ベルンハルトの通りは少しずつ距離を取り、背後へと遠ざかっていく。
振り返らなくても分かる。
さっきまで満ちていた喧騒は、ゆっくりと薄れていた。
商人の呼び声や荷馬車の軋む音が重なり合い、それらが次第にほどけて、やがて風の中へ溶けていく。
街道をしばらく進むと、やがて森の入口が見えてきた。背の高い木々が連なり、陽の光をやわらかく遮っている。
一歩、街道を外れる。
細い獣道へ足を踏み入れた、その瞬間。
空気が変わった。
湿った土の匂いが鼻をかすめ、葉のこすれる音が耳の奥に残る。遠くでは鳥の声が短く響き、それがまたすぐに静けさへと溶けていった。
リラは足を止め、ゆっくりと周囲へ視線を巡らせる。
地面に残る踏み跡。
水の流れの向き。
風の抜け方。
わずかな変化が、自然と頭に入ってくる。
七歳の頃とは違う。
あのときは、ただ逃げることしかできなかった。
けれど今は。
森の歩き方を、知っている。
リラは小さく笑い、足を踏み出した。
「成長したなぁ」
「きゅ!」
見上げると、オモチが枝の上で尻尾を振っている。枝から枝へ軽やかに飛び移り、葉を揺らしながら駆けていく。
虫を見つけては追いかけ、また別の枝へ。
完全に、野生の動きだった。
時々こちらを振り返っては、楽しそうに鳴く。
「きゅ!」
その様子に、リラは苦笑する。
「そんなにはしゃぐと、落ちるよ」
もちろん、オモチは聞いていない。
森の中を進むうちに、日がゆっくりと傾いていった。木々の影が長く伸び、葉の隙間から差し込む光がやわらかく揺れる。空の色も、気づけば少しずつ深まっていた。
足元の感触が、わずかに変わる。
踏みしめる土が乾きすぎず、湿りすぎてもいない。風の抜け方も穏やかで、周囲に動く気配は少ない。
リラは足を止め、静かに周囲を見回した。
少し開けた場所だった。風通しがよく、獣道からも外れている。
リラは足を止め、周囲を見渡してから小さく頷いた。
「ここでいいかな」
荷物を下ろし、手際よく火の準備を始める。枯れ枝を集め、小さく組んで火を入れると、やがて炎が安定し、あたたかな光が静かに広がっていった。
火のはぜる音が、森の静けさに溶けていく。
リラは袋から保存食を取り出す。干し肉と保存パン、それから小さな鍋。干し肉を刻んで水に入れ、火にかけると、やがて湯気が立ち上り、ゆっくりと香りが広がっていった。
その間に、小川で捕まえた小魚を串に刺し、火にかざす。
じゅ、と小さな音を立てて皮が焼けていく。脂が落ちるたびに火がぱちぱちと弾け、香ばしい匂いがあたりに広がった。
その匂いに、オモチがすぐ戻ってくる。
「きゅきゅ」
焚き火の前にちょこんと座り、じっと火を見つめながら尻尾を揺らしていた。落ち着かない様子で、少しずつ距離を詰めてくる。
「まだ熱いよ」
リラは苦笑まじりに言い、串を少しだけ持ち上げて距離を取った。
そのときだった。
森の奥で、枝が折れる音がした。
重たい足音が、ゆっくりと近づいてくる。空気がわずかに張り詰め、火のはぜる音だけがやけに大きく響いた。
リラの視線が、すっと鋭くなる。
「……来た」
気配は隠していない。むしろ、踏みしめるように近づいてくる。
木々の間から現れたのは、大きな影だった。
アースベア。
土色の毛皮に覆われた巨体が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。低く唸る声が腹の奥に響き、足を運ぶたびに地面がわずかに震えた。
リラは静かに立ち上がる。
焚き火の光が揺れ、その影が足元に落ちる。
剣を抜く。
その動きに、迷いはなかった。
短い戦いだった。
振り下ろされた爪を半歩でかわし、そのまま懐へ潜り込む。重心を崩さず踏み込み、迷いのない剣筋を振り抜いた。
鈍い音とともに、巨体が地面へ崩れ落ちる。
森は何事もなかったかのように静けさを取り戻し、火のはぜる音だけがゆっくりと戻ってくる。
枝の上では、オモチが身を乗り出していた。
「きゅ!」
どうやら応援してくれていたらしい。
リラは小さく肩をすくめる。
「ありがとう」
軽く息を整え、剣の血を払ってから鞘へ収める。倒した魔獣は、冒険者ギルドで用意している収納魔法付きの袋へ放り込んだ。
ひと通り片付けを終えると、そのまま焚き火の前へ戻る。焼けた魚を手に取り、何事もなかったかのように食事を続けた。
さっきまでの緊張が、ゆっくりとほどけていく。
夕食を終えるころには、空はすっかり暗くなっていた。焚き火の光が周囲をやわらかく照らし、木々の影が静かに揺れている。
リラは木を見上げる。
「今日は上で寝ようか」
その一言に、オモチが嬉しそうに鳴いた。
「きゅ」
すぐに枝へ駆け上がり、寝場所を探すように葉の間を行き来する。その様子を見上げながら、リラは小さく笑った。
リラも後に続き、オモチが粘糸を張る。丈夫な糸が幾重にも重なり、手慣れた動きでハンモックの形が整っていく。
その上に体を預けると、枝がゆっくりと揺れた。
虫の声と、風に揺れる葉の音が静かに重なり、森の夜がゆるやかに広がっていく。
オモチが隣に丸くなった。
「きゅ……」
小さく鳴き、眠たそうに目をこする。
そのぬくもりが、すぐ隣にある。
リラはゆっくりと空を見上げた。枝の隙間から、星がいくつも瞬いている。
静かな夜だった。
そして、ふと思う。
本当に、親に会いに行く必要はあるのだろうか。
今さら、そんなことを考える。
自分の生活は、もうフォルネアにある。木陰のベーカリーに、トヨの店。ミレイとの何気ないやり取り。
朝、パンを焼いて店を開ける。
誰かが来て、誰かが笑う。
それだけで、十分だった。
なのに。
どうして、ここまで来てしまったのだろう。
考え込むように視線を落とした、そのとき、隣の枝が、小さく揺れる。
オモチが体を寄せてきた。
ふわりとした温もりが、すぐそばにある。
リラは思わず、力の抜けた笑みをこぼした。
「……どう思う?」
「きゅ?」
首を傾げる仕草に、肩がわずかに揺れる。
答えは返ってこないけれど、それでいいと思えた。
夜の森に、静かな笑いが溶けていく。
やがて朝。
森を抜けると、見慣れた景色が広がった。
栗の街、ラトリア。
通りには甘い香りが満ちている。焼き栗や栗菓子の匂いに、川魚を焼く香ばしさが重なり、朝の空気にやわらかく溶け込んでいた。
市場は、いつも通り賑やかだった。
呼び込みの声が重なり、行き交う人の流れが途切れない。明るく、活気に満ちた空気が通りを満たしている。
けれど、今日は少し違って見えた。
リラは足を止めることなく、そのまま市場の奥へ進む。必要なものだけを、順に手に取る。
干し栗に、薬草。保存食と、塩。
それだけで十分だった。
荷物はすぐに整う。
「あれ? もう出るのか?」
顔なじみの商人が、不思議そうに声をかけてきた。
「また来ますから」
短く答える。それ以上は、続けなかった。
本当は、少しだけ名残惜しい。焼き栗の匂いも、いつものやり取りも、この街の空気も。
けれど、立ち止まるわけにはいかなかった。
ここまで来たのだ。逃げるわけにはいかない。
市場を抜け、門へ向かう途中で、リラは一度だけ足を止めた。
深く息を吸い込む。甘い香りと、人の気配が胸の奥に満ちる。
そして、それをゆっくりと吐き出した。
ここまで来た。
なら――腹をくくろう。
そのとき、肩に小さな重みが乗る。オモチだった。
「きゅ」
尻尾を揺らしながら、当たり前のようにそこにいる。
リラは思わず、やわらかく笑った。
「行こうか」
ラトリアの門を抜ける。石畳が途切れ、土の道へと変わる。
背後の賑わいは、少しずつ遠ざかっていった。
道は、まっすぐ北へと続いている。
その先にあるのは――アルヴェイン王国。
九歳まで、暮らしていた国。
リラは振り返らない。
ただ前を向いて、歩き出す。
ふたりの影が、静かに街道へと伸びていった。




