行ってきますの、その前に
朝の空気は、まだ少しひんやりしていた。
南門の通りは、店が開き始める前の静かな時間だ。
荷車を押す音と、遠くで鳥が鳴く声だけが聞こえている。
私は店の扉の前に立ち、小さな紙を掲げた。
書いたばかりの張り紙。
――来月、2週間お休みします
――仕入れのためラトリアへ行ってきます
文字が曲がっていないか、もう一度だけ確かめる。
それから、そっと扉に貼り付けた。
紙が、ぴたりと木に張りつく。
少しだけ、胸が落ち着かない。
旅行ではない。仕入れと言えばそうだけれど、この街に来てから初めての長距離移動だ。
ラトリア。
栗の街。
川魚の街。
スパイスの街。
考えれば楽しみなはずなのに、胸の奥にわずかな緊張が混ざっていた。
そのとき。
「おはよう、リラ」
聞き慣れた声が通りから届く。
振り返ると、トヨがこちらへ歩いてきていた。
いつものように大股で近づきながら、扉の張り紙をちらりと見る。
そして、ぴたりと足を止めた。
「……ラトリア?」
目を丸くする。
私は少し肩をすくめた。
「はい。ちょっと栗拾いに」
「栗拾い?」
「それと、川魚も食べてみたくて。あと、スパイスも見てみたいなって」
そう言うと、トヨはしばらく私の顔を見つめていた。
やがて、くるりと踵を返す。
「ちょっと待ってな」
そう言って自分の店へ戻り、すぐに小走りで戻ってくる。
手には紙が一枚。顔いっぱいの笑みだった。
「ほら」
差し出された紙には、びっしりと文字が書き込まれている。
スパイス。乾燥ハーブ。川魚の干物。栗菓子。保存食。
まだ続いている。
思わず目を丸くして尋ねた。
「これ、どうしたんですか?」
「もしリラが行くなら頼もうと思ってね。この間、行きたそうにしてただろ」
トヨは豪快に笑う。
「ダルクたちに頼もうかとも思ったんだけどさ。不安だろ?粗悪品買ってきたり、そもそも物が違ったりしそうじゃないか」
その言葉に、私とオモチは顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
「確かに」
「きゅ」
オモチも肩の上で頷くように鳴く。
トヨは満足そうに腕を組んだ。
「荷物になるだろうから、帰りは馬借りな。その金くらいは出すよ。もちろんお駄賃も」
私はメモを見ながら、少し笑う。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
それから、ふと申し訳なさが浮かぶ。
「でも、しばらくお店閉めちゃうので……ご迷惑おかけします」
そう言うと、トヨは大きく手を振った。
「そんなこと気にしなくていいよ」
そして、少しだけ真面目な顔で言う。
「行けるうちに行っとかないと、後悔するよ」
その言葉に、思わず笑う。
ミレイと、同じことを言っている。
トヨは気づいていないのだろうけれど、不思議と胸の奥が温かくなった。
私は張り紙を見上げる。
ラトリア。
そこへ、本当に行くのだ。
そう思うと、胸の奥が少し軽くなった。
店の扉を開けると、朝の空気がふわりと流れ込んだ。
まだ少し冷たい風が、焼き上がったばかりのパンの香りと混ざり合う。
木陰のベーカリーの一日は、いつもと同じように始まった。
棚に並ぶパンは、ほんのりと湯気を残している。
窓から差し込む光が、その表面をやわらかく照らしていた。
開店してすぐ。
最初に入ってきた常連の男性が、いつものように棚を眺めながら足を止める。
「おや?」
振り返り、扉の張り紙を見る。
「しばらく閉めるのかい?」
「はい。ラトリアへ行こうと思って」
「ラトリア?」
「栗の街の」
そう言うと、男は少し驚いた顔をした。
「へえ。遠いじゃないか」
「栗拾いもしてみたくて。川魚も有名みたいなので」
そう話していると、奥でパンを選んでいた別の客が口を挟む。
「ラトリアだって?」
いつの間にか、しっかり話を聞いていたらしい。
「じゃあ、しばらくパン食べられないのか」
「そうなりますね。すみません」
そう言うと、その客は軽く手を振った。
「いいさ。若いうちに楽しめることは楽しんどかないとな」
その言葉に、また、少しだけ肩の力が抜ける。
すると次の瞬間。
「おい、それじゃ買いだめしないと」
別の客が声を上げた。
店内が、ふっと賑やかになる。
「そうだな」
「多めに買っとくか」
「ラスクある?」
「干しパンも欲しいな」
次々と声が飛び交う。
いつもの朝より、少しだけ熱のある空気。
私は思わず笑った。
「ふふっ、まだ出発までには時間がありますよ。行く前に日持ちするパンを多めに用意しておきますね」
そう言うと、客たちは満足そうに頷いた。
店の中に、いつもと同じ香りと、少しだけ特別なざわめきが満ちていく。
店を閉めてから、私はトヨの店へ向かった。
夕方の通りは、昼の賑わいが少しだけ引いて、ゆるやかな空気が流れている。
店の前に立つと、扉の隙間から香ばしい匂いが漏れてきた。
肉と野菜を煮込んだ、深くて温かい匂い。
扉を押す。
からん、と軽い音が鳴った。
「いらっしゃ……お、リラか」
厨房から顔を出したトヨが、手を振る。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「ラトリアのことだろ? 香辛料とか、その辺聞きに来たのかい?」
すぐに言い当てられて、思わず小さく笑う。
頷きながら席に腰を下ろすと、トヨは棚から小瓶をいくつか取り出し、テーブルに並べた。
蓋を開けるたびに、ふわりと香りが広がる。
「これは乾燥ナツメ。肉に合うやつだな」
「こっちは川魚用の香辛料」
ひとつひとつ、指で示しながら説明していく。
産地、香り、見分け方。
私は思わず身を乗り出して聞いた。
知らないことばかりで、楽しい。
そのとき。
「晩飯食ったか?」
不意にそう聞かれて、顔を上げる。
「まだです」
「だろうと思った」
トヨはそう言って、鍋のほうへ戻った。
ぐつぐつと煮える音が、店の中に静かに広がる。
しばらくして、湯気を立てた皿が運ばれてきた。
ビーフシチューだった。
深い色のソースの中で、柔らかく煮込まれた肉と野菜が静かに揺れている。
湯気がゆらりと立ちのぼり、甘くて濃い香りが鼻先をくすぐった。
「お使いの前払いだ」
そう言って、トヨが笑う。
思わず、顔がほころぶ。
「ありがとうございます」
パンをちぎり、シチューに浸す。
ふかふかの生地が、ゆっくりとソースを吸い込んでいく。
口に運ぶと、とろりとした味が舌に広がった。
少し濃くて、でも優しい味。
じんわりとした温かさが、喉を通って、胸の奥へ落ちていく。
固まっていたものが、ゆっくりとほどけていくようだった。
気づけば、肩の力が抜けていた。
「肩に力入ってるね」
トヨがふと、そんなことを言った。
「旅で緊張してんだろ」
言われて、少しだけ考える。
楽しみな気持ちはある。
でもその奥に、落ち着かないものも確かにあった。
そんな私を見て、トヨは肩をすくめる。
「気楽に行きな」
そして、少しだけ優しい声で続けた。
「帰ってくる場所は、ここにあるんだからさ」
その言葉に、胸の奥が静かに温まった。
――帰ってくる場所。
あの森を抜けた日。
そんなものは、どこにもなかった。
どこへ行くのかも分からず、ただ前に進むしかなかったあの頃。
でも今は違う。
この街がある。
この店がある。
待ってくれる人がいる。
それだけで、胸の奥がじんわりと満たされていく。
「きゅ」
足元から、小さな声。
オモチがシチューをじっと見つめていた。
トヨがその様子に吹き出す。
「オモチも食べたいのかい。ちょっと待ってな」
「きゅきゅ」
嬉しそうに鳴く。
私は思わず笑った。
店の中には、ゆったりとした夕方の空気が流れている。
ラトリアへの旅は、もうすぐだ。




