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冒険者の街で、今日もパンを焼いています 〜小さな魔獣との静かな暮らし〜  作者: 白波 いつき


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森の夜と、小さなぬくもり

屋敷を抜け出した。


 窓枠に足をかけ、そっと体を外へ出す。夜の空気がひやりと頬に触れた。

 いつもは侍女と一緒にしか出ない庭も、夜に一人で立つと、まるで別の場所のように感じる。


 芝生に降りた瞬間、膝が小さく震えた。


 怖い。

 でも、止まれない。


 私はそのまま裏庭へ向かって走り出した。


 月明かりの下、白い砂利道がぼんやりと浮かんでいる。昼間は何度も歩いたはずなのに、今はどこか見慣れない。

 胸がどくどくと鳴っていたが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。


 問題は、そこからだった。


 屋敷の敷地を出ても、どこへ行けばいいのか分からない。

 街へ向かえばすぐに見つかる。門番もいるし、顔も知られている。


 では、どこへ。


 そのとき、ふと父の言葉を思い出した。

 屋敷の裏の森は、隣の領地の街道につながっている

 ――あのときは何気ない世間話だったが、今はそれしか頼るものがない。


 まずは森へ。


 そう決める。


 しかし屋敷の周囲には高い鉄柵が巡らされていた。門は閉じている。

 私は柵に沿って歩き始める。夜露を含んだ草が足首に触れ、靴の先がじわりと湿っていく。


 息を潜めながら進み、やがて柵の一部がわずかに歪んでいる場所を見つけた。下の方が少しだけ広がっている。


 大人は無理でも、子供なら。


 私はしゃがみ込み、体を押し込んだ。鉄がぎしりと鳴り、服が引っかかる。腕が擦れて土がつく。それでも止まらず、体をねじ込むようにして前へ進む。


 次の瞬間、柵の向こうへ転がり落ちた。


 しばらく動けなかったが、やがてゆっくり体を起こす。振り返ると、屋敷の灯りが遠くに見えた。


 大きくて、明るくて、さっきまで自分がいた場所。


 でも――もう戻らない。戻れない。


 しばらく見つめていると、胸の奥がほんの少し軽くなった。抜け出せた。それだけで奇跡のようだった。


 けれど。


 そこからが、本当の恐怖だった。


 森は暗く、木々が重なって月明かりはほとんど届かない。枝が揺れるたび影がゆらりと動き、どちらへ進めばいいのかも分からない。


 それでもひとつだけ決める。


 屋敷の明かりから離れる。


 それだけを頼りに、私は森へ足を踏み入れた。


 森の中を、ただ歩いた。


 方向も分からない。ただ、止まれば捕まる気がして、歩き続ける。

 思っていたよりずっと暗く、足元さえおぼつかない。枝の揺れに胸が跳ねるたび、それでも前へ進んだ。


 こんなに歩いたのは初めてだった。


 足が痛い。靴の中でじんじんと痛みが広がる。脱いでしまいたいと思うが、裸足では進めない。


 だから歩く。


 歩いて、疲れて座り込む。

 少し休んで、また立ち上がる。


 ほんの少しずつ、森の奥へ。


 時間の感覚は、もう曖昧だった。


 ――このまま、死ぬのかな。


 ぼんやりとした声が、頭の奥に浮かぶ。怖いというより、どこか遠くから聞こえてくるような感覚だった。

 けれど、すぐに別の考えがよぎる。


 ――あのおやじに捕まるくらいなら、その方がいいのかもしれない。


 小さく息を吐く。

 否定もできず、そのまま受け入れるように、また足を前に出した。


 幸い、この領地には危険な魔獣は少ない。

 森はただ広く、冷たく、どこまでも続いているように感じられた。


 やがて空が白み始める。朝だった。

 それでも安心できる場所はない。私はまた歩き出す。


 ふと、考える。


 戻ればいいのかもしれない。昨日のことは、ただの夢だったのかもしれない。

 父も母も怒っていなくて、心配したのだと、強く抱きしめてくれるかもしれない。


 そんな淡い期待が、胸の奥に浮かぶ。


 けれど、その瞬間。


 頬が、じんと痛んだ。


 父の顔。

 母の声。


 私は、小さく首を振った。


 違う。戻ったら終わりだ。


 太陽が昇り、また沈み、夜が来る。


 クッキーは少しずつ食べ、やがてなくなった。水も尽きる。

 私は水の魔石を握り、ぽたりと落ちるわずかな水を舐めた。


 それでも足りない。


 喉が痛い。体が震える。


 それでも涙は出なかった。怖すぎて、泣くこともできなかった。


 どれくらい歩いただろう。

 そのとき、茂みの奥でかさりと音がした。


 恐る恐る近づくと、小さな猿がいた。足から血が滲み、動けないらしい。

 私はしばらく、その姿を見つめた。


「猿って、食べられるのかな」


 ぽつりと漏れた言葉に、自分でもはっとする。


「きゅぃ」


 慌てたような声が返ってきて、ああ、生きているのだと実感した。

 私はそっと手を伸ばし、その体を抱き上げる。


 寂しかった。


 あまりにも。


 触れた体は、驚くほど冷たかった。

 服を開き、中に入れてそっと抱きしめる。


「……温かい」


 そう呟いたところで、ふっと力が抜けた。

 そのまま座り込み、背を木にもたれさせる。


 ぐう、と腹が鳴る。


 猿は、じっとこちらを見ていた。


 小さな鼓動に、瞼が落ちる。

 寝たくない。寝たら、また怖い夢を見る。


 そう思うのに、抗えない。

 意識がゆっくりと沈んでいく。


 ――目を覚ますのが、怖い。


 もし、この猿が冷たくなっていたら。


 また、一人になる。


 それが、怖かった。


 やがて、木々の隙間から柔らかな光が差し込む。

 私は、そっと目を開けた。


 どくどくと鳴る自分の鼓動。その奥で、もうひとつ、小さな鼓動がかすかに伝わってくる。


 猿は、まだ生きていた。


 その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 涙がこぼれる。


 森に入ってから、初めての涙だった。


 止めようとしても、止まらない。


 そのとき、猿が目を覚ました。

 青く澄んだ瞳が、まっすぐに私を見上げる。


 顔が近づき、ぺろり、と。頬に触れる、小さな舌。


 私は思わず、息を漏らした。


「……おはよう」


 その声は、自分でも驚くほど柔らかかった。


 それからしばらく、私たちは森の中をさまよった。

 相変わらず恐怖はあったけれど、猿が指し示す方へ進むと、不思議と木の実や水辺が見つかった。


 歩けない猿の代わりに、私が枝から実をもぎ取り、手渡す。

 猿は口いっぱいに頬張り、頬をぷくりと膨らませる。


 その様子に、思わず笑みがこぼれた。


「……オモチみたいだね」


「きゅい」


 足は相変わらず痛く、どこへ向かっているのかも分からない。

 それでも、不安はほんの少しだけ、小さくなっていた。


 やがて。


 森が、ふいに途切れた。

 目の前に街道が現れ、馬車の一行が見える。


 私は木陰に身を潜め、様子をうかがった。


 善人か、悪人か――分からない。


 でも、もう歩きたくなかった。


 私は猿に囁く。


「……あっち」


 猿は木へ駆け上がり、枝を揺らす。

 ばさり、と音を立てて木の実がいくつも落ちた。


 その隙に、私は荷馬車の後ろへ回り込み、布を持ち上げて中へ滑り込む。


 乾いた布と木の匂い。

 息を潜め、体を小さく丸めた。


 やがて馬車が動き出し、ぎしり、と車輪が軋む。

 揺れに身を任せながらも、疲れているはずなのに眠ることができなかった。


 どれくらい経ったのかも分からない。

 ふいに、馬車が止まる。


 外から、人の声がした。


 ばさり、と布がめくられる気配。


 私は、息を止めた。


 ――見つかる。


 そう思った、その瞬間。意識が、ふっと浮かび上がる。


 あれは、まだ九つの頃の話だ。


 ――今よりずっと小さくて、ずっと必死だったころ。




 朝の光が、窓からやわらかく差し込む。


 オモチが顔のそばで丸くなり、小さな寝息を立てていた。


 窓の外からは、南門の通りのざわめきが聞こえる。

 人の声と、遠くで軋む荷車の音。


 私は小さく息を吐き、手紙のことを思い出す。


 キャンベル家は、もう貴族ではない。

 ふと、考える。


 行ってみようか、と。


 ずっとどこかで期待している自分がいた。

 父や母は、あの時のことを後悔しているのではないかと。


 確かめる術はなかったけれど。


 そのとき。


 オモチが、じっとこちらを見ていた。


「……ついでだよ」


 そう言うと、オモチはぴょんと肩に飛び乗る。


「きゅ」


 前足で、ぽん、と頭を叩かれた。


 思わず、笑みがこぼれる。


「……うん。行こうか」


 あの森を抜けた日から。


 私たちは、ずっと一緒だ。

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