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冒険者の街で、今日もパンを焼いています 〜小さな魔獣との静かな暮らし〜  作者: 白波 いつき


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静かな店内と、帰らない白い影

 気づけば、空の色が変わっていた。

 西の窓から差し込む光が、朝よりもずっと柔らかい。


 昼の忙しさが過ぎてもオモチは戻らなかった。

 窓の外を何度目か分からないくらい確認して、私は小さく息を吐いた。


 そのうち帰る。

 きっと、どこかで昼寝しているだけだ。


 そう思いながら、指先に力が入らないことに気づく。

 粉の匂いが、いつもより遠く感じ、胸の奥には薄いざわめきが残っている。


 カラン。


 扉の鈴が鳴った。

 反射的に顔を上げる。


「オモチ——」


 喉まで出かかった名前を、飲み込む。


 立っていたのは、背の高い影。

 ユリウスだった。


「いらっしゃいませ」


 いつも通りの声を出したつもりだった。

 でも、喉の奥が少し乾いている。


「ごめん。締めるところだった?」


 困ったように笑いながら、ユリウスは店内を見回す。

 西から差し込む夕方の光が、彼の肩越しに細く伸び、床に長い影を落としていた。


「いえ、まだ大丈夫ですよ」


 私は台の上の籠を揃え、布巾で軽く木目をなぞる。

 指先がわずかに震えていることに、自分だけが気づいていた。


 いつも通り。

 パンの並びも、値札の位置も、窓辺の花も。


 そう思っていたのに。


「……顔色、ずいぶん悪いけど」


 静かに落ちた一言で、手が止まった。

 布巾を握る指に、思いのほか強く力が入る。


「え?」


 無意識に頬へ触れる。

 窯の前に立っていたはずなのに、指先に触れた肌はひやりとしていた。


「あ、大丈夫です。ちょっと疲れただけで。今日はこれで終わりなので、気にせず選んでください」


 口元に笑みをつくる。

 形だけは、きっと問題ない。


 でも、視線が定まらない。


 ユリウスは籠に手を伸ばしながら、ほんの少しだけ目を上げた。


「今日、オモチは?」


 さりげない問いかけだった。


 けれど、その瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。


「散歩に行ってるみたいで」


 軽く言ったつもりなのに、声がわずかに揺れた。


 ユリウスは何も言わず、ほんの少しだけ距離を詰める。

 失礼にならない、ぎりぎりの位置で立ち止まった。


「しつこくて悪いんだけど」


 まっすぐな視線。


「困ってること、ない?」


 言葉が喉に引っかかる。

 笑えば済むはずなのに、うまく息が通らない。


「えっと……珍しく、帰ってこなくて」


 自分でも驚くほど、素直な言葉がこぼれた。


「捕まえたくても捕まえられない魔獣相手に、過保護すぎますよね」


 はは、と乾いた笑いを足す。


「そのうち帰ってきますよ」


 まるで自分に言い聞かせるみたいに、言葉が零れる。


 視線が定まらない。

 揺れているのが、自分でもわかった。


 ユリウスは、ふっと小さく息を吐く。


「それは、過保護じゃなくて」


 声が、少しだけ柔らかくなる。


「大切だからでしょ」


 その一言が、静かに胸へ落ちた。


 きつく結んでいた何かが、ほどける。


 忙しくしていれば、考えなくて済む。

 パンを焼いていれば、気持ちは整う。

 そう思っていた。


 でも。


 オモチがいない。

 それだけで、こんなにも落ち着かない。


「……探してこようか?」


 さらりと落ちた言葉に、私は顔を上げた。


 ユリウスは肩をすくめる。


「俺、前は騎士やってたんだ。お貴族様のペット探しとか、結構あったし。慣れてる方だよ」


 冗談めかした口調。

 けれど、その目はまっすぐだった。


「オモチって、どこが好き?」


 戸惑いが胸をよぎる。


 甘えていいのだろうか。

 相手はお客様だ。


 本当は、こんなことで頼るべきじゃない。

 自分でどうにかするべきだ。


 そう思うのに。


 口が、先に動いた。


「街の大樹と……南の森です」


「分かった」


 迷いのない即答。


 ユリウスは手にしていた籠を、静かに元の位置へ戻す。


「見つけたら、この間のカルツォーネ、また食べさせてもらおうかな」


 いたずらっぽく笑う。

 その軽やかさに、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。


「カルツォーネだけでいいんですか?」


 思わず返すと、ユリウスは目を丸くして、それからやわらかく笑った。


「え、他にもあるの? それは急がないと」


 軽い口調のまま、扉へ向かう。


「任せて」


 カランと鈴が鳴り、扉が閉じる。


 その背中が、通りの光の中へ溶けていく。

 店の中が、急に静かになった。


 さっきまであった人の気配が、すっと引いていく。

 私はしばらくその場に立ち尽くし、頬をぱちんと軽く叩いた。


「何、ぼんやりしてるの」


 自分に言い聞かせるように呟き、手早く片付けを始める。

 金庫を奥へしまい、窓のカーテンを引く。

 外の光が細くなり、店内の色が少し深まった。

 棚をひと通り確かめ、本日売り切れの札をかけ、扉を閉め、鍵を回す。


 かちり、と乾いた音が、やけに大きく響いた。


 オモチがいない。

 ただそれだけのことなのに、心が落ち着かない。


 私は、ゆっくりと息を吐いた。

 そして初めて、はっきりと自覚する。


 怖い。

 心の底から、じわりと不安が浮かび上がる。


 窯の熱は落ち、薪のはぜる音もない。

 聞こえるのは、自分の呼吸だけだった。


 いつもなら、窓辺のどこかで白い影が動く。

 棚の上で、くつろぐ小さな背中がある。


 でも、今日はない。


 オモチがいない。


 その事実が、思った以上に重く胸に沈んだ。

 たった半日。


 それだけなのに。


 喉の奥が、ひりつく。

 私は作業台に手をつき、目を閉じた。


 お店を回さなきゃ。

 お店を守らなきゃ。


 ずっと、そればかり考えていた。


 でも。


 そんなの、オモチがいてこそだ。

 あの子がいないお店なんて、なんの意味があるのだろう。


 初めて会った、あの日。


 父よりも年上の男の、湿った笑み。

 近づいてくる影。


 大好きだった父母に助けを求めて、振り返った。

 飛んできたのは、手のひらだった。


 頬が熱を持つ。

 耳鳴り。

 足元が揺れる。


 見上げた先で、吐き出される言葉。


 大好きなはずの両親の、知らない顔。


 温かいと思っていた世界が、ひび割れていく音がした。


 逃げた。

 ただ、逃げた。


 もうだめだと思ったときにオモチに出会った。


 夜は冷たくて、息が白くて。

 このまま、二人とも冷たくなるのかもしれないと、ぼんやり考えた。


 目を覚ましたとき。

 胸の上に、小さな重みがあった。


 温もり。


 鼓動。


 あなたが、そこにいた。


 けど、目を覚まさなくて。


 また一人になるのが怖くて。


 逃げ出してから初めて、涙がこぼれた。


 そしたら。


 空色の瞳が、まっすぐに私を見上げた。


 あの瞳が、私をこの街まで連れてきた。


 パンを焼く朝も、窯の熱も、笑い声も。


 全部、あの夜の続きだ。

 悩んでいる場合じゃない。


 私は顔を上げ、街へと駆け出した。


 あの子がいなかったら、意味がない。

 また一人になるのは、嫌だ。

 その本音が、胸の奥で形になる。


「悩んでる場合じゃない」


 夕方の光が石畳を照らす。


まずは、大樹。

 街の中心に立つ、あの大きな木。

 夕方の光を受けて、幹は赤みを帯びている。風に揺れる葉の影が石畳にまだらに落ちていた。

 息を切らしながら駆け寄り、見上げるが、枝の上に白い影はない。


 ざわ、と葉擦れの音だけが返ってくる。

 胸が、ひとつ沈む。暗い想像がまた胸を埋め尽くしそうになり、私は小さく首を振った。


 違う。考えない。


 足を踏み出す。


 次は、南の森。

 石畳を抜け、土の道へ入る。靴底に伝わる感触が変わる。乾いた土と、踏みしめられた草の匂い。

 森に近づくほど、空気がひんやりと重くなる。

 気づけば光はさらに傾いていた。木々の隙間から差し込む橙色が、長く影を引く。


 日は、思っていたよりも早く沈みはじめている。


 南の森へ続く道を、息を切らしながら走る。胸が焼けるように熱い。足元の小石を蹴飛ばしそうになり、体勢を立て直す。


 そのとき、向かいから人影が現れた。

 背の高い影。ユリウスだ。


 一人——?


 胸が、ひやりと冷える。血の気が引く感覚。視線が無意識にその肩元を探す。

 ユリウスは私に気づき、軽く手を挙げた。夕焼けを背にして、その輪郭がやわらかく滲む。

 そして、ほんの少しだけ肩を傾けた。


 その動きに合わせて。


 ぴょこっ。


 白い影が、ひょいと顔を出した。

 夕日の中で、毛並みが淡く光る。


「オモチっ!」


 声が、思ったより大きく響く。

 駆け寄り、求めていた姿へと思わず手を伸ばした。


「うきゅきゅっ」


 オモチは勢いよく、私の胸に飛び込んできた。


 その軽くて温かな衝撃に、私はその場にしゃがみ込んだ。胸に飛び込んできた小さな体が、思ったよりも強く抱きついてくる。


「もー……遅いよ、オモチ……」


 声が震えているのが自分でも分かった。でも、そんなことに構っていられない。


「うきゅうー」


 小さな手が、私の頭をぽん、と撫でる。ぎこちない動き。けれど何度も感じてきたその感触に、胸の奥がじわりとほどけた。


 ああ。ここにいる。


 温もりがある。それだけで、世界がちゃんと戻ってくる。


 ユリウスが、くすりと笑った。


「南森の門のあたりで、これ持って困ってたんだよ」


 差し出されたのは、大きな葉っぱに包まれた塊だった。夕暮れの光を受けて、葉の縁が橙色に透けている。

 受け取ると、ずっしりと重い。


 不思議に思いながら葉を開けば、果物がぎっしり詰まっていた。甘い匂いがふわりと立ちのぼる。

 野イチゴに、小ぶりの林檎に、森の木の実たち。見たことのない紫の果実まで混ざっている。

 オモチの体と同じくらいの量があるだろう。


「……これ、全部、運ぼうとしたの?」


 問いかけると、オモチは得意げに胸を張る。


「きゅきゅい!」


 どうやら本気らしい。

 いつもは整えられている毛並みが少し乱れている。葉のかけらが耳の後ろに引っかかっていた。


 必死だったのだ。


 でも。

 どうして急に。


 首を傾げる間もなく、オモチは葉っぱの中からひとつ果物をつかむと、迷いなく私の口元へ押しつけてきた。


「きゅきっ」


「ちょ、まって——」


 口を開けた瞬間、ぽいっと放り込まれる野イチゴ。

 甘酸っぱい果汁が弾けて、夕暮れの空気と混ざる。咀嚼し終える前に、次が来る。


「んぐっ」


「きゅきゅい!」


 もう一つ。

 そして、また一つ。


「ちょ、オモチ……!」


 必死に手で遮るが、オモチは真剣な顔だ。眉間にしわを寄せるような勢いで、どこか使命感に燃えている。

 その様子に、ユリウスが吹き出した。


「ははっ! リラへのプレゼントだったみたいだな」


「プレゼント?」


 目を丸くする私に、オモチは力強く頷く。


「きゅいっ」


 胸を張る姿が、やけに誇らしげだ。

 どうやら本気で、私に食べさせるために採ってきてくれたらしい。


 またひとつ、口に押し込まれる。

 ユリウスはとうとう声を上げて笑い出した。


「はははっ、すごい勢いだな」


 その笑いにつられて、私も吹き出す。

 さっきまで胸を締めつけていた不安が、すっと溶けていくのがわかった。


「ありがとうね、オモチ。嬉しいよ。でも、もう大丈夫」


 そっと頭を撫でる。少し乱れた毛並みが、指先に柔らかく触れる。


「んき?」


 首をかしげる仕草。頬に、ふわりと寄り添ってくる。モチモチで、温かい小さな身体。

 私はゆっくり息を吐いた。さっきまで浅かった呼吸が、ようやく落ち着く。


「助かりました。本当に」


 ユリウスに向き直り、頭を下げると、彼は笑みを浮かべながら肩をすくめた。


「たまたま見つけただけだよ。森の門で、必死に葉っぱ抱えてた」


「……必死に」


 横目で見ると、オモチはそっぽを向いている。知らん顔だ。


「お礼に、お腹はちきれるまでカルツォーネ食べてくださいね」


 わざと明るく言うと、ユリウスは目を細めた。


「それは本気で期待していい?」


「もちろん。スープもつけます」


「それは張りきって食べないとな」


 森の空気が、ゆるやかにほどけていく。


 軽いやり取りのあと。

 ふと、私は彼を見る。


 探そうか、と言ってくれたこと。

 迷わず駆け出してくれたこと。

 私の強がりを、見て見ぬふりをしなかったこと。


 そのひとつひとつが、胸の奥に静かに残る。


 助けてくれる人がいる。

 それだけで、世界は少し広くなる。

 ひとりで抱えなくていいのだと、ようやく気づく。


「帰ろうか」


 ユリウスの声は、いつも通りだった。

 私は小さく頷く。


 歩き出すと、オモチが肩へひょいと移動してきた。頬にふわりと毛が触れる。


 夕焼けが森の上にゆっくりと広がる。橙色の光が石畳をやわらかく染めていく。

 店の窓に灯りを入れると、ガラス越しにあたたかな色がにじんだ。


 見慣れた通り。

 変わらない匂い。


 ここで生きていく。


 パンを焼いて、笑って、誰かと食卓を囲む。


 それを選んだのは、私だ。


 フォルネアの夕暮れは、森の匂いを含んで、やわらかく街を包んでいた。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


もしこのお話が、「ちょっと好きだな」と思っていただけたなら、一言でも感想やレビューを残していただけると嬉しいです。


次の話を書く励みになります。

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