お餅の記憶と、しょっぱい涙
朝の仕込みは、いつも同じ順番で進む。
粉を量り、塩を混ぜ、水を加える。
手のひらに伝わる生地の感触で、その日の湿度がわかる。
窓の外では、まだ人の声はまばらだ。
フォルネアの朝は静かで、森の匂いが残っている。
私は生地をこねながら、ふと呟いた。
「お餅、食べたいな」
記憶のなかのお餅は、白くてやわらかくて、のびる。
きな粉をまぶしてもいいし、あんこもいい。
磯辺も捨てがたい。
もっちり、のびのび。
あの食感は、パンともケーキとも違う。
「この世界で、お米っぽいのは見たことあるけど……」
モチ米、あるのかしら。
そんなことを考えながら、生地を丸める手は休まない。
まさか。
後ろで、その一言に衝撃を受けている存在がいるとは知らずに。
*
――ボクは、たしかに聞いた。
リラが言ったんだ。
「オモチ食べたい」
って。
ボクの耳は間違っていない。
冗談かと思った。
でも、付き合いが長いからわかる。
あれは、マジのやつだ。
ボクは固まった。
胸の奥がざわついて、そのまま後ずさった拍子に、横に置いてあった粉袋にぶつかった。
ばさっと白い粉が床に広がる。
こんなの、普段は絶対にしないのに。
「あっ! オモチ、何してるの!? 大丈夫!?」
リラが振り向く。
慌てた顔。
でも、ボクの頭はさっきの言葉でいっぱいだ。
食べたい。
ボクを?
なんで?
リラはしゃがみ込み、粉をかき集めながらボクの足をさっと確認する。
「怪我してない? 火の近くで暴れちゃだめだよ」
心配してくれている。
それが余計に混乱を深める。
粉を片付けるリラの背中を見ながら、ボクの胸はぐるぐるする。
ボクは、そっと壁際の小窓へ向かった。
ここは、ボク専用の通り道だ。
振り返らない。
振り返ったら、たぶん止められる。
ひょい、と外へ飛び出す。
朝の光がまぶしい。
スネた気持ちと、怒りと、ほんの少しの寂しさ。
――ボクがいなくて困ればいいんだ。
そう思いながら、街の大木へ向かって走り出した。
ふて寝してやる。
ボクは絶対、簡単には食べられない。
……たぶん。
街なかの大木は、朝の光をたっぷり浴びていた。
ボクは枝の上にどすんと座り込むと、腕を組んで鼻を鳴らす。
いなくなってやる。
……でも、そうなると、リラはちょっとは泣くはずだ。
そう思いついてしまうと、胸の奥がもやもやする。
ほんとに、食べるつもりだったのかな。
ボクは枝の上でごろんと寝転がり、空を見上げた。
青い。
風が森の匂いを運んでくる。
その匂いに、ふと昔の記憶が混ざった。
森の奥。
ボクはあのとき、足を怪我して動けなかった。
もうだめだと思っていた。
そこに現れたのが、小さなリラだった。
ひらひらの服は薄汚れていて、腕や足には引っかき傷。
森をさまよっていた。
ボクを見つけて、驚いた顔をして。
それから、なぜか隣に座った。
夜になって。
リラのお腹が、ぐう、と鳴った。
静かな森に、はっきり聞こえるくらい大きな音だった。
そして、ボクを見て言ったんだ。
「猿って、食べられるのかな」
あれは衝撃だった。
つかみ上げられて、ああもう終わりだと覚悟したのに。
なぜか、服の中に入れられた。
「温かい」
そう呟いて、リラはそのまま眠ってしまった。
……なんなんだ、この人。
そう思いながら、ボクもいつの間にか寝ていた。
目を覚ますと、ひっくひっくと泣く声。
鼻をすする音。
顔を上げると、ぐしゃぐしゃのリラがいた。
目が合うと、息を止めたみたいに固まって。
それから、小さく笑った。
「良かった」
ボクはまだ足が痛くて、ろくに動けなかった。
それでも手を伸ばして、リラの頬に触れた。
涙に口を寄せる。
久しぶりに飲んだ水は、とても、しょっぱかった。
――あのときも。
リラはお腹が空いていた。
だから言ったんだ。
猿って、食べられるのかな、って。
枝の上で、ボクはがばっと起き上がる。
そうだ。
リラはお腹が空いてるんだ。
昨日は忙しかった。
晩ごはんも、あまり食べていなかったし。
だから今朝も、まだお腹が減ってたんだ。
オモチ食べたい、ってつい言っちゃったんだ。
つまり。
ボクを食べたいわけじゃなくて。
お腹が空いてるってことだ。
……たぶん。
でも、空腹は危険だ。
あのときみたいに森で倒れられたら困る。
ボクは立ち上がる。
ボクがなんとかしなきゃ。
リラはボクがいなくちゃだめなんだから。
お腹いっぱいにしてやればいいんだ。
そうすれば、もう“オモチ食べたい”なんて言わないはずだ。
ボクは枝から飛び降り、森へ向かって走り出した。
森へと駆け込む。
枝から枝へ、幹から幹へ。
ボクは速い。
速いのだけが取り柄だ。
そのとき、茂みの向こうで草が揺れた。
ぴくり、と耳が動く。
スネルラビットだ。
尻尾が蛇になっている、ちょっと厄介な魔獣。
でも、あれの肉は美味しい。
旅の途中で、リラが嬉しそうに食べていた。
あれなら喜ぶ。
ボクは粘糸を放つ。
びゅっ。
ぐるぐるぐる。
一発で見事に絡まる。
スネルラビットはもがくが、もう遅い。
ふふん。
完璧だ。
さすがボク。
地面に降り立ち、獲物を持ち帰ろうと押す。
……動かない。
押し方が悪かったのかな。
次は引いてみる。
……動かない。
押しても、引いても、びくともしない。
そういえば。
いつもはリラが運んでいた。
ボクは速いだけだ。
力は、そんなに……ない。
ガーン……!
いや、まだ諦めない。
運べないなら、分解すればいいんだ。
そう思って、じっとスネルラビットを見た。
どうやって?
ボクは速いのと粘糸が得意なだけだ。
切る技も、解体の知識もない。
うーん、と唸っていると。
するり。
粘糸の隙間から、蛇の尻尾部分が抜け出し、しゅるりとこちらに伸びてくる。
えっ。
慌ててひゅん、と横に跳ぶ。
ボクがいた場所に、ばちんと蛇のしっぽが叩きつけられる。
地面がへこんでいた。
むり!
ボクは即座に撤退した。
命あっての養いだ。
獲物は、また今度にしよう。
作戦変更。
リラはフルーツも好きだ。
なら、フルーツを山ほど持って帰ればいい。
森の奥で、赤い実を見つけた。
野イチゴだ。
ひょい、ひょい、と美味しそうなのを選びながら摘むが、
……二個で両手がいっぱいになった。
あれ?
ボクの手はリラの手より、うんと小さい。
どうする。
どうする、ボク。
そのとき、ふとリラの姿が浮かぶ。
布で荷物をきゅっと包んでいた。
あれだ。
ボクは大きめの葉っぱを引きちぎり、野イチゴをのせる。
そのまま、くるんと包んだ。
完璧だ。
ボクは葉っぱ包みを抱え、街へと戻った。
店の前に来ると、ちょうど忙しそうな時間帯だった。
人の声。
パンの匂い。
リラの声。
……よし。
正面からは入れない。
ボクはいつもの二階の小窓から、こっそり侵入する。
窓辺に着地し、そっと葉っぱを広げると。
……。
中には、野イチゴが二つ。
だけ。
葉っぱには、小さな穴があいていた。
たぶん途中で落ちたんだ。
ガーン……!
これでは足りない。
全然、足りない。
これではリラのお腹は満たされない。
ボクは葉っぱをぎゅっと握りしめる。
まだ大丈夫。
もう一回行けば、暗くなる前に帰ってこれる。
ボクは再び窓から飛び出した。
日は、少しだけ傾きはじめていた。
それに押されるようにして、ボクは森へとひた走った。
*
朝の仕込みがひと段落して、窯の火を落とす。
手についた粉を払いながら、ふと視線を上げた。
……あれ。
オモチがいない。
さっきまで、そこにいたはずなのに。
「まあ、大丈夫だよね」
忙しいときは散歩に出ることもある。
窓からひょいっと出て、街のどこかで昼寝しているのだろう。
街の人たちから、オモチの目撃情報を聞くことも少なくない。
「お昼には戻るよね」
誰に言うでもなく、つぶやく。
それでも、胸の奥にほんの少しだけ空白ができた。
昼前。
窓販売の列が落ち着いて、店内で午後の仕込みに入る。
オモチは、まだ戻らない。
粉を計量しながら、ふと思い出す。
今朝、粉をぶちまけてたよね。
あんなこと、普段はしないのに。
もしかして、どこか怪我でもした?
……いや。
でも、怪我をしていたら外には出ないはずだ。
オモチは、過去に何度か狙われたことがある。
粘糸目当て。
そして、その存在自体の珍しさ。
理由はいくつもあった。
普通なら、そもそも姿を見つけることすら難しい魔獣だ。
でも、私と一緒にいることで、人目に触れる機会が増える。
そのせいで、何度か面倒なことに巻き込まれたこともあった。
だから私とオモチは、冒険者ギルドで身を守る方法を模索した。
一緒にいるために。
そして、自由を得るために。
依頼を受け、戦い方を覚え、逃げ方も覚えた。
それでも――
一度、大きな怪我をしたことがある。
その後を狙われた。
弱っていると踏んだのだろう。
その経験があってから、私たちは決めた。
怪我をしているときは、外に出ない。
それが、今まで生き残ってきたやり方だった。
怪我をしていないのなら、戻って来るだろう。
……たぶん。
商会にいたころは、旅先で何日も顔を合わせないことだってあった。
……考えすぎだよね。
魔獣を連れ込めない場所もあったし、オモチだって自分の都合で動いていた。
それなのに。
いつのまにか、ここでの生活が当たり前になっていた。
窓の向こうに、あの白い影があるのが当然になっていた。
昼を過ぎても、姿は見えない。
まだ大丈夫。
そう思いながらも、胸の奥に小さなざわめきが残った。




