店主と魔獣の、いつもの一日
朝の仕込みが一段落すると、リラは一度奥へ下がった。
石造りの流し台に指先をかざすと、魔導具が静かに反応する。
控えめな音とともに水が流れ、粉と生地の感触を少しずつ洗い落としていく。
指の間に残るぬくもりが消えていくのを、ほんの少しだけ名残惜しく感じながら、リラは丁寧に手を擦り合わせた。
フォルネアの水は冷たい。
森が近いせいか、朝は特にそうだ。
「……よし」
布で手を拭き振り返る。
棚の上では、オモチがこちらを見下ろしていた。
「きゅ」
「さっき、粉踏んでたでしょ」
「きゅっ」
オモチは誤魔化すように、ぷいっと顔を逸らす。
その様子に、リラは小さく笑った。
裏口を少しだけ開けると、朝のひんやりした空気と一緒に、緑の匂いが流れ込んだ。
まだ人通りは少なく、南門側は静かだ。
リラは深く息を吸い、もう一度店内を見回す。
午後用のハーブが、少し足りない。
そう気づいて裏口から庭へ出た。
裏庭は小さい。
でも、ちゃんと土があって、日が当たって、風が通る。
育てているのは数種類のハーブ。
それから、料理に使えそうな葉物野菜。
リラは必要な分だけ、ぷちっと摘み取り、手に持っていた籠へ入れていく。
フォルネアでは、個人の家にもこうした場所が点々とある。
建物と建物の間に、木があり、花があり、蔦が這っている。
森を切り開かずに街が育ってきた。
その名残が、今もあちこちに残っている。
「……今日は、風が気持ちいいね」
「きゅ」
オモチは返事をしながら、裏庭に立つ木へと飛び移った。
一瞬で移動してしまい見えたのは白い影だけだ。
そのまま枝にぶら下がり、実の具合を確かめている。
こういうところは本当に頼りになる。
裏口を閉め、厨房へ戻る。
摘んできたハーブを軽く洗い、指先で香りを確かめてから、作業台の端に置いた。
壁の時計を見る。
――そろそろだ。
リラは表の窓を開け、札を掛け替える。
朝の光が店内へ静かに差し込んだ。
開店。
八時半。
南門側の通りを歩いていた冒険者が、ひとり、またひとりと足を止める。
短いやり取りのあと、慣れた手つきでパンが手渡されていく。
声は多くない。
でも、途切れることもない。
それがこの時間帯らしさだった。
時間は、忙しないながらも穏やかに流れていく。
気づけば午後分の仕込みに取りかかる頃合いだ。
生地を分け、具材を整え、オーブンの様子を確かめる。
一心に手を動かしているうちに、壁の時計は十一時を指していた。
リラは一度手を止め、表の扉を開ける。
鈴の音。
遠くで鳥の声。
通りを歩く人の足音。
空気が、少しだけ変わった。
「おはよう」
最初に顔を出したのは、隣の食堂の女将、トヨだった。
「おはようございます。もう受け取りましたか?」
「ええ。相変わらず助かるわ」
トヨはエプロン姿のまま、店内をぐるりと見回す。
「この店、ほんと明るいわね」
「元がカフェだったみたいで」
「そうだったわね。でも、前より明るい感じがするのよね。窓際、気持ちいいもの」
そう言って、カウンターに並ぶパンへ視線を落とす。
「今日は何がよく出そう?」
「お昼なら、サンドイッチとコロッケパン。あと日替わりのラズベリーチーズタルトですかね」
「タルト!いいわね。じゃあ、私と旦那の分も一つずつ」
リラが頷いたところで、扉の鈴が鳴る。
「お、もう開いてたか」
「おや、トヨさんも。おはよう」
近所の雑貨屋の店主が、軽く手を振る。
「太陽の日の前だからな。棚がすぐ空くんだよ」
「それは大変」
その後ろから、建築現場で働く人たちが続いた。
「今日もいい匂いだな」
「昼まで頑張れそうだ」
そんな声がぽつぽつと上がる。
特別な話があるわけではない。
天気のこと。
通りの噂。
昨日の仕事の具合。
どれも短くて、どうでもいいようなことばかりだ。
でも、そのやり取りが、心地いい。
トヨがパンを受け取りながら、言った。
「ここに来ると、なんだかホッとするわ」
「そう言ってもらえると、すごく嬉しいです」
リラはそう返して、小さく笑った。
この街での暮らしが、自分の身体になじんできた。
そう思える瞬間が少しずつ増えていて、何となく擽ったくも嬉しい。
午後。
この日はいつもより昼どきの客が多く、商品が早めに売り切れたので、少し早めに店を閉めることにした。
閉店の札を下げた頃、通りにはまだ木陰が残っていた。
キッチンで簡単な夕食をとる。
オモチはフルーツとナッツを今日は食べるようだ。
店の片付けと明日の準備を終え、二階の住居へ上がる。
猫足の浴槽にお湯を張る。
この浴槽は、この物件の購入を決めた理由の一つだ。
魔導具に触れると、ほどよい温度のお湯が静かに溜まっていく。
浴槽に身を沈めると、ふわりと湯気が立ち上った。
少しだけ窓を開けると、風呂場に緑の気配が混じる。
「……生き返る」
湯気がゆらゆらと立ちのぼる。
桶で肩に湯をかけると、まっすぐな髪が背中に張りついた。
濡れると、余計に癖のなさがわかる。
派手ではない。
けれど整った顔立ちだと、商会にいた頃はよく言われた。
湯面に映る自分を、少しだけ見る。
肌がきれいだと褒められることもあったが、今はただ、傷が増えていないことのほうがありがたい。
オモチは浴室の棚に座り、じっとこちらを見ていた。
「入らないの?」
「きゅ」
そう問うと、少し思案してから、結局スルスルと降りてきて、湯船に入った。
「きゅうー……」
満足そうな声に、笑みが漏れる。
ふくふくの頬を、指で軽くむにむにすると、呆れたような顔をされた。
湯に浸かりながら、リラは天井を見上げた。
最初は、慣れることで精一杯だった。
でも今はこうして湯に浸かり、外の音を聞きながら、次の仕込みのことを考えている。
贅沢じゃない。
派手でもない。
でも、落ち着く。
「今日は、とくに緑がきれいだね」
「きゅっ」
風呂から上がると、風の魔石がはめ込まれた魔道具で髪を乾かす。
オモチの毛も乾かすと、いつも以上にふかふかの触り心地になる。
思わずお腹に顔をうずめると、また呆れた顔をされた。
「……今日も、いい一日だったね」
「きゅ」
オモチは、自分専用のベッドへ潜り込む。
フォルネアは、緑が多い。
人も多い。
でも、騒がしくはない。
暮らしの音がちゃんと聞こえる街だ。
リラは部屋の灯りを落とし、明日の仕込みを思い浮かべながら、温かい布団に身を沈めた。
「おやすみ、オモチ」
「キュウゥー」




