冒険者の街に、パンの匂いが流れる朝
森の端で、羽ばたきが荒れた音を立てた。
葉が震え、土が跳ねる。
黒褐色の羽を広げた鳥型の魔獣――“コエル・トプス”。C級冒険者が二、三人で討伐することを想定された魔獣だ。
低く唸る声が、空気を震わせる。
その正面で、リラは一歩だけ踏み込んだ。
「オモチ」
「きゅ」
白い影が高く跳ねる。
粘糸が弧を描き、魔獣の翼の付け根へと絡みつく。
巨体がもがき、軸がわずかに崩れた。
一瞬。
リラは距離を詰める。
踏み込みは浅く、迷いがない。
刃は短く振り抜かれる。
その間合いは、本来なら届かないはずだった。
次の瞬間。
魔獣の首元に線が走り、巨体が崩れ落ちた。
羽が、ぱさりと地面に広がる。
森はすぐに静けさを取り戻した。
まるで、何もなかったかのように。
「……タイミングばっちりだね」
「きゅっ」
オモチが胸を張る。
リラは刃についた血を払い、小さく息を吐いた。
「明日のパンは、ちょっと豪華にしようか」
「うきゅ!」
それだけ確認して、リラは街へと戻った。
フォルネアの朝は、森の匂いがする。
夜のあいだに湿った葉と土が息を吐き、石畳をやわらかく包むように広がっていく。
その匂いの中で、リラは今日も窯の前に立っていた。
ぱち、ぱち、と薪がはぜる。
火の熱で、頬がほんのりと温まる。
手の粉を払うと、赤茶の髪が肩に落ちた。
仕事中は邪魔にならないよう、後ろでひとつにまとめている。
窓の光を受けて、空色の瞳がわずかに揺れる。
焼き加減を確かめ、窯の扉を開けると、香ばしい匂いがふわっと広がった。
甘さより先に、焼けた小麦の香ばしさが立ち上がる。
それから、やさしい甘い香りが追いかけてきた。
「うん。いい感じ」
食パンの山。
フランスパンの艶。
サンドイッチ用のパンは、切り口がきれいに出る焼き上がりだ。
そのとき、背中に軽い重みが乗った。
「おはよう、オモチ」
「きゅ」
猿型の魔獣オモチが、当たり前みたいに肩に座る。
白地に茶の模様。
少し眠そうな顔なのに、目だけはきらきらしている。
オモチは開店前に毛づくろいをする習慣があり、それを終えてからリラの肩に乗ってくる。
ただ整えるだけではない。
手から伸ばす粘液を糸のように使って、毛並みをまとめるのだ。
そうしておくと、夜に風呂へ入るまで毛が抜けにくい。
店をやる身としては、とてもありがたい能力だった。
「今日もえらいね」
「きゅっ」
褒め言葉には敏感だ。
オモチは頬をふくらませ、得意そうに鳴いた。
開店の準備を整える。
朝は窓販売だけだ。
道に面した横長の窓を開けて、持ち帰り用のパンとスープを並べる。
籠の中身は絞ってある。
玉子、ハム、照り焼きのサンド。
ホットドッグ、コロッケパン、クリームパン、ビスコッティ。
食パンやフランスパンを仕入れに来る客もいる。
それから、日替わりのスープを瓶に詰める。
量り売りもできるので、容器の持ち込みも歓迎だ。
最近は、保温の魔石がついた容れ物を持ってくる人が増えてきた。
窓を開けると、冷たい空気が流れ込み、代わりにパンの匂いが街へと流れていく。
それは合図みたいなものだった。
通りの足音が、少しずつ増えていく。
「腹減る匂い!」
「今日も焼けてるな」
冒険者たちが、装備の音を鳴らしながら集まってくる。
森にはダンジョンがあり、この街には冒険者が多い。
それでも、どこか穏やかだ。
「おはようございます」
リラが挨拶すると、何人かが片手を上げた。
返事は短いけれど、それはいつものことだった。
「今日のスープは?」
「豆と野菜とチキンのスープです」
「助かる。二つもらえる?」
瓶を布で包み、紙袋にパンを入れて差し出す。
受け取った手が、温度を確かめるように少しだけ止まった。
「アツアツだな」
「焼きたてなので」
「今食べたい!」
「焼きたてが一番美味しいですよ。今食べる用にもう一ついかがですか」
笑いが小さく広がり、すぐに落ち着く。
「そういやさ」
パンを受け取った冒険者が、ふと思い出したように言った。
「森でスレイグ・ラプトルが一匹やられてたって聞いたか?」
「あれってC級三人は要るやつだよな」
「それがよ、一人でやったらしい」
「嘘だろ」
「しかも女だって話だ」
「はぁ、お前あんまり噂に踊らされるなよ」
呆れた声が混じる。
オモチは窓の上の梁へ移り、興味深そうに覗き込んでいた。
小さな猿が顔を出すだけで、通りの空気が少し和らぐ。
「噂の猿だ」
「触っていい?」
「あら、ラプトルみたいに倒されちゃいますよ」
真顔で返すと、笑いが起きた。
オモチも「きゅ」と鳴いて、わざとらしく頬を膨らませる。
窓販売は十時まで。
客足が落ち着くころには籠が軽くなり、通りの足音も遠のく。
窓を閉めると、店の中に静けさが戻った。
「よし、仕込み第二弾だね」
「きゅ」
オモチが再び肩へ戻ってくる。
小さな重みが、首のあたりをあたためた。
十時から十一時までは追加の仕込みだ。
朝から発酵させていた生地を成形し、焼き上がりの段取りを整えていく。
粉が舞い、指先が少し白くなる。
生地に触れると、今日の湿度が分かる。
森が近い街は、パンにも影響が出やすい。
その途中、控えめな音がした。
コンコン。
窓をノックする音だった。
リラは、音のした窓を少しだけ開ける。
「ごめん、今仕込み中だよね」
「ええ。どうしました?」
「いつもの、二つだけ購入できるかな」
「分かりました。少々お待ちください」
常連だった。
こういうことも、ままある。
パンを渡すと、常連はほっとした顔をした。
「助かる。また後でちゃんと来るね」
「大丈夫です。いってらっしゃい」
窓を閉め、仕込みの続きを再開する。
すぐに指先から伝わる感触へ、意識が戻っていった。
十一時になり、店に備え付けの時計が鳴る。
焼き上がったパンをカウンターに並べ、今度は正面の扉を開けた。
鈴が鳴り、店内に日差しが満ちる。
四人がけのテーブルが三つ。
木目の天板が、あたたかい色をしている。
店はセルフ式だ。
パンは自分で取り、レジで支払う。
スープやドリンクはカウンターで受け取り、自分で席へ運ぶ。
食べ終わったら返却口へ。
一人で回すには、ちょうどいい形だった。
夕方。
閉店の札を下げると、店は静かになる。
窓から差し込む光が斜めに伸び、床に細い影を作る。
残ったパンの匂いが、まだふんわりと空気に残っていた。
一年前、リラとオモチはこの街に移ってきて、店を出した。
その選択が正しかったかどうかなんて、たぶん一生分からない。
でも。
今日もパンが焼けて、
誰かが買っていって、
無事に一日が終わった。
それだけで十分だと思える日が、この街に来てから何度もあった。
「……今日も、いい日だったね」
「きゅ」
オモチが短く鳴く。
フォルネアの朝は、明日もきっと、パンの匂いから始まる。
――この街の人たちは、まだ知らない。
この小さなパン屋の店主が、冒険者でも手を焼く魔物を、ひとりで倒してしまうことを。




