表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冒険者の街で、今日もパンを焼いています 〜小さな魔獣との静かな暮らし〜  作者: 白波 いつき


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/43

木陰のある場所で、店を始めるまで

ここにしようかな、と考えながらこの日も物件へ行くと、窓から中を覗き込んでいる人がいた。


 自分と、同じことをしている。


 その瞬間、胸の奥で、何かが静かに決まった。

 慌てて踵を返し、商業ギルドへと走り出す。


 ――あの物件は、逃したくない。


 この街で、一度、腰を落ち着けてみたい。

 そんな気持ちに背中を押されるようにして、慌てて商業ギルドに走り、内見を申し込んだ。

 その日のうちに案内され、鍵を開けてもらう。


 扉を押すと、少しだけ古い木の匂いがした。

 長く使われていなかった建物特有の、静かな空気だ。


 一歩踏み入れる。


 床が、きしりと小さく鳴った。


 この音すら、悪くないと思った。


 一階には、かつて店だった名残が残っている。


 壁際の棚跡。

 作業台が置かれていたであろう場所。


 ホールには机や椅子がそのまま残っていた。

 シミや汚れはあるが、表面を削って整えれば、まだ使えそうだ。

 クロスをかけるのもいい。


 ここにパンを並べて、

 あそこに人が座って。


 ぼんやりと、そんな光景が浮かぶ。


 奥に目を向けると、立派なオーブンが残っていた。


 大きい。


 このまま使えるかはわからないが、外側はしっかりしている。

 補修すれば、どうにかなりそうな気がした。


 そのほかにも調理台が残っている。


 冷蔵魔道具はさすがになかったが、水場を整え、冷蔵魔道具を置き、オーブンを調整してもらえれば、すぐにでも店を始められそうだ。


 想像が、少しだけ現実に寄る。


 二階へ上がると、そこは住居になっていた。


 部屋のひとつを覗き、窓を開けてみる。


 風が抜ける。

 やわらかい光が、部屋の奥まで届いた。


 反対側の窓も開ける。


 裏の庭が見えた。


 大きな一本の木。

 枝が広がり、葉が揺れている。


 光が、葉の隙間で細かく動いていた。


 この部屋は寝室だろうか。


 朝、この光で目が覚めて。

 窓を開けて、空気を入れて。


 そんなことを考えて、意味もなく窓を何度も開け閉めしてしまう。


 気持ちいい。


 足元で、オモチが小さく鳴いた。


「んきゅ」


「気持ちいいね」


 そう声をかけると、オモチは満足そうに尻尾を揺らした。


 お風呂場も見せてもらい、思わず声が出そうになる。


 小さいけれど、可愛らしい造りで、きちんと手入れされている。

 何より、浴槽があった。


 脚のついた猫足型で、深さもある。

 ゆっくり浸かれそうだ。


 その瞬間、胸の奥が、きゅっと掴まれた。


 ――ここで、暮らせる。


 もう一度一階に戻る。


 ここでパンを焼く。


 朝の匂い。

 焼き上がる音。

 扉の鈴。


 人が入ってきて、パンを選んで。


 ――これなら、パン屋ができる。


 そう思った瞬間には、もう気持ちは決まっていた。


 結局は勢いだったけれど、

 この場所でやりたい、という気持ちのほうが強かった。


 購入の手続きを終えたその日から、時間が足りなくなった。


 まずは、防犯。


 いろいろな街を旅してきた。

 その中で、見てきたものは少なくない。


 夜のうちに荒らされた商店。

 金庫だけを狙われ、朝には何も残っていなかった食堂。

 犯人が見つからないまま、店を畳んだ話。


 安心が金で買えるなら、安いものだ。


 そう割り切って、初期投資を惜しまなかった。


 それから掃除。


 住居スペースも、カフェスペースも、思っていた以上に埃が舞った。


「うわ……」


 思わず声が出る。


 オモチが、棚の上でくるりと回った。


「きゅ」


「うん、やるしかないね」


 悪戦苦闘しながら掃除を進めていると、トヨと旦那さんが手伝いに来てくれた。


「あんた、お隣さんになるのかい」


 トヨは、豪快に笑った。


「こんな広いの、一人でやる気だったのか?」


「そのつもりでした」


「無茶だな!」


 笑いながらも、二人はすぐに動き始める。


 文句を言い合い、言い争いをしながらも、手は止まらない。


「そこ違うだろ!」


「うるさいねぇ、あんたこそ!」


 気づけば、床も壁も、すっかり見違えていた。


 笑い声があるだけで、作業はずいぶん楽になる。


 オモチも率先して、高いところの掃除を手伝ってくれた。


 パンの試作も始める。


 オーブンは立派だったが、火加減が思った以上に難しい。


 焦げる。

 膨らまない。

 焼き色が揃わない。


「むずかしい……」


「きゅ」


 防犯魔道具を取り付けに来てくれたエリンに相談すると、温度を安定させる魔道具を組み込めるかもしれないと言われた。


 その後、コーヒーメーカーを作ってくれたグリムも加わる。


「火、強すぎるな」


「いや弱いだろこれは」


「間だよ間」


 ああでもない、こうでもないと調整が続く。


 そのころには、冷蔵魔道具も届いていた。


 少しずつ。

 本当に少しずつ。


 何もなかった場所が、店の形になっていく。


 思い描いていたものが、手の届くところに近づいてくる。


 そんな日々は、あっという間に過ぎていった。


 気づけば、開店の日が来ていた。


 朝。


 店の前に立ち、オモチと並ぶ。


 いつもより、背筋が伸びる。


 扉に手をかける。


 少しだけ、指先に力が入る。


 きい、と音を立てて、扉が開いた。


 焼きたてのパンの匂いが、外へ流れていく。


 深く息を吸う。


「いらっしゃいませ」


 声は、少しだけ震えた。


 でも、確かに。


 この場所で、この言葉を言えた。


 そのことが、思っていたよりもずっと嬉しくて。


 思わず、ふふっと笑ってしまう。


 オモチが不思議そうに見上げてくるので、何でもないと首を振った。


 扉の鈴が、チリンと鳴る。


「いらっしゃいませ」


「うきゅぅー」


 私たちは今日も、この場所で、


 この言葉で、お客様を迎えている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
更新ありがとうございました いつも穏やかな気持ちになる、この読了感がたまりません 楽しみにしています
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ