木陰のある場所で、店を始めるまで
ここにしようかな、と考えながらこの日も物件へ行くと、窓から中を覗き込んでいる人がいた。
自分と、同じことをしている。
その瞬間、胸の奥で、何かが静かに決まった。
慌てて踵を返し、商業ギルドへと走り出す。
――あの物件は、逃したくない。
この街で、一度、腰を落ち着けてみたい。
そんな気持ちに背中を押されるようにして、慌てて商業ギルドに走り、内見を申し込んだ。
その日のうちに案内され、鍵を開けてもらう。
扉を押すと、少しだけ古い木の匂いがした。
長く使われていなかった建物特有の、静かな空気だ。
一歩踏み入れる。
床が、きしりと小さく鳴った。
この音すら、悪くないと思った。
一階には、かつて店だった名残が残っている。
壁際の棚跡。
作業台が置かれていたであろう場所。
ホールには机や椅子がそのまま残っていた。
シミや汚れはあるが、表面を削って整えれば、まだ使えそうだ。
クロスをかけるのもいい。
ここにパンを並べて、
あそこに人が座って。
ぼんやりと、そんな光景が浮かぶ。
奥に目を向けると、立派なオーブンが残っていた。
大きい。
このまま使えるかはわからないが、外側はしっかりしている。
補修すれば、どうにかなりそうな気がした。
そのほかにも調理台が残っている。
冷蔵魔道具はさすがになかったが、水場を整え、冷蔵魔道具を置き、オーブンを調整してもらえれば、すぐにでも店を始められそうだ。
想像が、少しだけ現実に寄る。
二階へ上がると、そこは住居になっていた。
部屋のひとつを覗き、窓を開けてみる。
風が抜ける。
やわらかい光が、部屋の奥まで届いた。
反対側の窓も開ける。
裏の庭が見えた。
大きな一本の木。
枝が広がり、葉が揺れている。
光が、葉の隙間で細かく動いていた。
この部屋は寝室だろうか。
朝、この光で目が覚めて。
窓を開けて、空気を入れて。
そんなことを考えて、意味もなく窓を何度も開け閉めしてしまう。
気持ちいい。
足元で、オモチが小さく鳴いた。
「んきゅ」
「気持ちいいね」
そう声をかけると、オモチは満足そうに尻尾を揺らした。
お風呂場も見せてもらい、思わず声が出そうになる。
小さいけれど、可愛らしい造りで、きちんと手入れされている。
何より、浴槽があった。
脚のついた猫足型で、深さもある。
ゆっくり浸かれそうだ。
その瞬間、胸の奥が、きゅっと掴まれた。
――ここで、暮らせる。
もう一度一階に戻る。
ここでパンを焼く。
朝の匂い。
焼き上がる音。
扉の鈴。
人が入ってきて、パンを選んで。
――これなら、パン屋ができる。
そう思った瞬間には、もう気持ちは決まっていた。
結局は勢いだったけれど、
この場所でやりたい、という気持ちのほうが強かった。
購入の手続きを終えたその日から、時間が足りなくなった。
まずは、防犯。
いろいろな街を旅してきた。
その中で、見てきたものは少なくない。
夜のうちに荒らされた商店。
金庫だけを狙われ、朝には何も残っていなかった食堂。
犯人が見つからないまま、店を畳んだ話。
安心が金で買えるなら、安いものだ。
そう割り切って、初期投資を惜しまなかった。
それから掃除。
住居スペースも、カフェスペースも、思っていた以上に埃が舞った。
「うわ……」
思わず声が出る。
オモチが、棚の上でくるりと回った。
「きゅ」
「うん、やるしかないね」
悪戦苦闘しながら掃除を進めていると、トヨと旦那さんが手伝いに来てくれた。
「あんた、お隣さんになるのかい」
トヨは、豪快に笑った。
「こんな広いの、一人でやる気だったのか?」
「そのつもりでした」
「無茶だな!」
笑いながらも、二人はすぐに動き始める。
文句を言い合い、言い争いをしながらも、手は止まらない。
「そこ違うだろ!」
「うるさいねぇ、あんたこそ!」
気づけば、床も壁も、すっかり見違えていた。
笑い声があるだけで、作業はずいぶん楽になる。
オモチも率先して、高いところの掃除を手伝ってくれた。
パンの試作も始める。
オーブンは立派だったが、火加減が思った以上に難しい。
焦げる。
膨らまない。
焼き色が揃わない。
「むずかしい……」
「きゅ」
防犯魔道具を取り付けに来てくれたエリンに相談すると、温度を安定させる魔道具を組み込めるかもしれないと言われた。
その後、コーヒーメーカーを作ってくれたグリムも加わる。
「火、強すぎるな」
「いや弱いだろこれは」
「間だよ間」
ああでもない、こうでもないと調整が続く。
そのころには、冷蔵魔道具も届いていた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
何もなかった場所が、店の形になっていく。
思い描いていたものが、手の届くところに近づいてくる。
そんな日々は、あっという間に過ぎていった。
気づけば、開店の日が来ていた。
朝。
店の前に立ち、オモチと並ぶ。
いつもより、背筋が伸びる。
扉に手をかける。
少しだけ、指先に力が入る。
きい、と音を立てて、扉が開いた。
焼きたてのパンの匂いが、外へ流れていく。
深く息を吸う。
「いらっしゃいませ」
声は、少しだけ震えた。
でも、確かに。
この場所で、この言葉を言えた。
そのことが、思っていたよりもずっと嬉しくて。
思わず、ふふっと笑ってしまう。
オモチが不思議そうに見上げてくるので、何でもないと首を振った。
扉の鈴が、チリンと鳴る。
「いらっしゃいませ」
「うきゅぅー」
私たちは今日も、この場所で、
この言葉で、お客様を迎えている。




