第21話 あの日の出来事
辺りが暮れ始め、スノウはハンドルを握りながら車のライトを付けた。
昼間、視察の移動に使っていた軍用車の中。助手席は昼間と同じく司令官が合成皮のシートにちょこんと座っているが、運転席はドライバーのトーマではなくスノウが座った。
オリーブドラブ色の四輪駆動車は多少は人の目を引くが、あんな機関銃を装備した物々しい車よりはずっとマシだろう。
研究所の場所は、サンダースに写真と一緒に渡された資料に住所があったのを覚えていたので、だいたい分かった。ナビゲーションを使うまでもなくたどり着けるだろう。
演習場を出発してから、司令官は途端に無口になった。ずっと思いにふけるかの様に窓の外を見つめている。
スノウもスノウで無言のまま車を走らせた。こちらはもともとの性分もあるのだが、正直なところ何を話したらいいのか分からなかった。
まさか世間話をする訳にもいかず、エンジン音と進路を変える度にするウインカーの音が妙に大きく聞こえた。
「……どこまで知ってるの? あたしのこと……」
不意に、司令官が呟くように言った。顔は相変わらず窓の外を見つめたままだ。
スノウも正面を向いたまま、少し答えに時間をかけてから口を開いた。
「……あなたがハインロット氏の養子であること……。本当の両親は日本の科学者であること……。それから、その両親が勤めていた研究所は、遺伝子の研究をしていたこと……」
だいたいこんなところだろう。
それを聞いても少女は驚く様子もなく「ふーん……」と頷いて、自嘲気味に笑う。
「本当の両親なんて、会ったこともないけどね……」
窓に映る自分の姿を嘲笑するかのように。
「それだけじゃない。あたし、自分が何者なのか、良く知らないの……」
そう言うと少女はゆっくりと視線を足元に落とし、悲しむでもなく懐かしむでもなく、淡々と語り始めた……。
◇◆◇
私の世界のすべては、その部屋の中だった。
白い天井と白い壁の、病室のような室内。あるのは白いパイプベッドとスチール製の四角いテーブル。
時間や月日を示すものは何もなく、鉄格子の窓から射し込む陽光だけが、昼と夜の訪れを告げる。
一体いつからそこにいるのか、はっきりとは思い出せない。自分の中の一番古い記憶を掘り起こしてみても、ただこの部屋の真ん中にぽつんと座っているのが思い出されるだけだった。
部屋には毎日白衣を着た数人の大人がやって来て、無言のまま私の身体に機器を取り付け、何かを計測して帰っていく。
一体それが何の為なのか、聞いても答えてくれなかった。
よくわからない液体を腕に注射されたり、採血されたりすることもある。
痛いと抵抗すると酷く怒られた。それにいくら抵抗しても結局押さえ付けられてされるだけなので、何回目かには抵抗するのをやめた。そうやってじっとしていた方が早く終わる。
何も無いときは、白い壁をスクリーンにして何かの映像が写し出され、それをベッドの上に膝を抱えて座りながらぼーっと眺めている。
それが、私の日常だった。
たまにやって来る大人達は、私と会話らしい会話はしなかった。ここがどういう所なのか訊いても、教えてくれる大人はいない。
それでも毎日のように尋ねていたら、根負けした一人の女の人が一度だけ「病院のような所だ」と教えてくれた。
あなたは病気だから、治るまでここに入院しているんだと──。
幼い私は、始めのうちはその言葉を信じていた。病気が治ったら、あんな痛い思いもしなくて済む。
でもしばらくして、それが嘘だと言うことが何となく分かった。
私は大人達が思っている以上に大人達の会話を理解していた。その会話から、ここが病院ではなく何かの研究所なんだと分かった。
何故大人達はその事実を隠すのだろう。私に嘘をついて、何を研究しているのだろう。その疑問は、ずっと私の中に残っていた。
体が少し大きくなると、別の広い部屋に連れていかれる日が増えた。
初めてその部屋に入った時、私は一瞬たじろいだ。
部屋の真ん中に置かれたベッドには、皮のバンドが四つ付いていたのだ。ちょうど手足を縛り付けるような位置に。
何をされるんだろう。怖くなって逃げようとしたが、結局は無理矢理ベッドに縛り付けられた。
それからのことはあまりよく覚えていない。腕にいつもの様に注射をされたあと、すごく苦しくなって涙が止まらなくなった。身体中が痛くて、ベッドの上に縛り付けられたままもがいた。大人達は誰も助けてはくれない。ただ私の様子を黙って観察しながら記録を付けているだけだった。
その日から何回かすごく苦しい思いをする日があった。そういう日は決まって朝から男の人が数人で部屋にやって来る。
逃げ出したいほど怖かったけど、我慢して言われた通りにした。我慢すれば、その日の夕食が少し豪華になることに気付いたからだ。
苦しくて、泣き叫びながら、これが終われば美味しいものが食べられる。甘いお菓子もあるかもしれない。
そう思って、必死に歯をくいしばった。
ある時、怪我をした覚えもないのにお腹に傷が付いているのを見付けた。
いつの間にこんな傷が付いたのだろう。良く見るとそれは、一度切って開き、糸で縫い合わせた様な傷だった。
思わず背筋が凍った。その傷を見付けた日の夜は、怖くて眠れなかった。怖くて怖くて、何をされたのかを尋ねることすら出来なかった。
もしかしたら、私はいつか殺されるのではないか。寝ている間にどこかへ運ばれて、バラバラにされてしまうのではないか。そんな恐怖が私の中をぐるぐると渦巻いた。
それからしばらくは不安で夜も眠れず、悪夢にうなされる日が続いた。しかしいくら身構えていても何事も起きずに時間だけが過ぎていき、いつしか私は考えるのをやめた。
無理にでも何も考えないようにした。そうでもしなければ、おかしくなってしまいそうだった。自分の中で必死に心を麻痺させて、やっと眠れるようになった。
それなのに、何の前触れもなくその日はやって来た──。
「今日ですべての実験が終了した」
いつものよう席について食事を待っていると、夕食を運んできた白衣の女性が言った。
「……どういう、ことですか?」
私はその女性の言っていることを何一つ理解することができなくて、困惑しながら聞き返した。
その女性のことは知っていた。いつも私の食事や着替えを持ってくる女性だった。
名前は知らない。ただまわりの大人が主任と呼ぶので、自分も真似をして主任と呼んでいた。
主任は夕食がのったトレーを持ったまま、目をぱちくりさせてもう一度言う。
「聞こえなかった? 必要な実験はすべて終ったの。とても意義のある時間だった。集まったデータを元に、さらにこの研究を進めることができる」
いったい何を言っているのだろう。私は主任の表情も目も、一つも見逃さないようにじっと見つめた。
「ご苦労さま。あなたの役目はもう終わり……」
おわり……。
──終わり?
何が、終わったの?
終わったらどうなるの?
──やっぱり私、殺されるの?
麻痺させていたはずの感情がまたかき乱される。心臓が急に早鐘のように打ちだした。
考えないなんて出来ない。冷静になんてしていられない。
主任は赤い唇を弓形にする。その赤が、いつも以上に鮮明に見える。
「これが、最後の食事ね」
──これが最後。
明日、私は──
廃棄される。
「うわあああああああ!!」
私は椅子から転がるように立ち上がると、主任の腰辺りに突進した。
自分の中の何かが叫ぶ。
逃げろ。逃げなければ殺される!
今まで押し込めてきた感情が、一気に爆発したみたいだった。
「きゃあ!!」
主任は持っていたトレーを床に落とし、のっていたお皿や中のご飯などが床に散らばった。その上に、身長で勝る主任に押し返された私は転がった。
「いきなり何するの! 落としてしまったじゃない! この──!」
主任はかがんで私に掴みかかろうと腕を伸ばしてくる。その姿が、私の目には恐ろしい化け物のように見えた。
捕まったら殺される。
私は咄嗟に床に散らばった食器の中からフォークを掴むと、主任の顔めがけて腕を振り払った。
「ぎゃあああ!!」
フォークの先が主任の目の辺りをなぎ、衣を裂くような悲鳴が部屋に響く。
主任は両手で顔を覆いながら身体をくの字にして床に突っ伏した。
もう無我夢中だった。
私は震える足を懸命に動かしてドアから部屋の外に出た。いつもは誰かが部屋に入って来ても別の誰かが外側から鍵を掛かるが、今日は鍵が掛かっていなかった。しかし廊下に出ると、主任の悲鳴を聞きつけた若い男が曲がり角から顔を出した。
「主任!? どうしました!? あっ!! お前、どうやって外に!?」
私はその質問には答えず、男がいる廊下とは反対の方向に走った。
「その子を捕まえて!!」
背中で主任の叫ぶ声を聞いたが、振り返らずに走った。
おそらく大人たちは、皆油断していたのだろう。普段の私は抵抗らしい抵抗など見せない大人しい子供だったから。
始めこそ抵抗はしたが、諦めてしまってからは、されるがままだった。それに慣れてしまっていた大人たちは、まさか逃げ出すなどとは思っていなかったのだ。でなければ、こんな簡単に部屋の外に出られるわけがない。そう暗い廊下を走り抜けながら私は思った。
途中、分厚いガラス扉を幾つか押し開けて更に走る。
息が苦しい。喉はカラカラ。辺りには異常を報せるサイレンがけたたましく鳴り響いている。それでも私は立ち止まらなかった。
「こっちにいたぞ!」
廊下の先に警備員の男が現れ、近くにいると思われる仲間を呼んでいる。私は急ブレーキで立ち止まった。このまま先には進むことは出来ない。先ほど曲がった角まで戻ろうか。
そう思いきびすを返したが、戻ろうとした先にも追手が迫って来ている。どうしよう。他に逃げ道はないか。
瞬間的にあたりを見回し、私は窓があることに今更ながら気付いた。鉄格子はついていない。ここから外に出れば良かったのだ。
私はガラスの窓を開けると、窓枠をしっかりと掴み、腰の位置まで一気に身体を引き上げた。足を引っ掛けて下を見ると、かなりの高さがある。しまった、ここは三階だったのだ。だが躊躇してなどいられない。骨の一、二本折れるぐらいは覚悟しよう。殺されるよりはマシだ。
私は意を決して外に飛び出した。
バキバキッ!
ドサッ!
「いっ──!」
幸いなことに落下した地面は芝生で柔らかく、衝撃は思ったほどはない。植木の上に落ちたので枝葉が身体のいたるところを引っ掻きはしたが、大したことはなさそうだ。何とか走れる。私は痛みを堪えて直ぐに起き上がると、辺りを見回した。
出口はどこだろう。
辺りは芝の地面にぽつぽつと広葉樹が生えた広い庭の様な所で、その木々の向こうに金網のフェンスが見える。
きっとあれを越えれば外に出られる。そう直感した私は、フェンスに向かって走った。
「おい! 待てっ! 止まれ!」
警備員の男が私が飛び降りた窓から顔を出して叫んでいる。そんなことを言われたって止まるもんか。私は男を一瞥すると、後は前だけを見て走る。
金網フェンスまでたどり着き、飛び付くようにしてよじ登った。身の丈よりもかなり高いが、金網なので足場はある。登れないことはない。
フェンスの上端には蛇腹の鉄条網が横たわっていて、所々鋭い牙がこちらを向いているが、身体の小さい自分なら、何とか抜けられそうだ。
私は器用に身体を捻りながら、鉄条網をくぐり抜け、フェンスの反対側に足を掛けた。あとは地面に降りるだけだ。
するすると、登る時とは逆再生の動きで下に降りる。
やった! 外だ! そう思った瞬間。
バンッと乾いた音がして腹部に焼けるような激痛が走った。
「かっ、はっ──!?」
あまりの痛みに息が出来ない。一体何が起こったのだろう。
「馬鹿やろうっ! 誰が発砲しろと言った!!」
三階の窓から下に向かって警備員の男が怒鳴り声を上げている。
私はその男の視線をたどった。見ると、木の影に隠れるようにもう一人の警備員が拳銃を構えたまま立ち尽くしていた。
そうだ、警備員は一人だけではなかった。そう思いながら、私はその場に倒れ込んだ。




