第17話 遭遇者
「おい小僧、そのままだとお前は死ぬぞ」
そう声を掛けると、膝を抱えうずくまった少年はゆっくりとこちらの方に顔を向けた。
ビルとビルの間のひとけのない通路には、生ごみや段ボール、ビール瓶などが散乱していて、辺りには異臭が漂う。
普通の人間なら、とてもそこに座り込もうなどという気は起こらないだろう。だがその少年は小さな体を折り曲げ、薄汚れたビルの壁にもたれかかったまま、弱々しい目で見上げてくる。
その顔には血の気がなく、蒼白だった。
無理もない。腹部に怪我を負い、多量の血が流れていた。その血は少年の体を伝い、アスファルトの上に黒く広がる。
傷は深い。何もしなければそのうち死ぬだろう。そう思い、声を掛けたのだ。
「浮浪児か。親は?」
スノウは立ったまま、顔を隠すために巻いた布の切れ間から少年を冷たく見下ろして言った。
助けを呼ぼうという気は全くない。そんなことをしても見返りなど望めそうもないし、今は仕事の帰りで、人目につくようなことはしたくない。
先ほどまで自分がいたビルの向こうの大通りの方からは、騒がしげな人の声とサイレンの音が聞こえる。
そろそろまわりも何が起きたのか気づく頃だろう。だが気付いたところでもう遅い。ターゲットは既に絶命しているし、証拠は何も残してはいない。このまま誰にも見られずにこの場を去れば、この仕事も終りだ。
「親は……いません」
少年は虚ろな瞳でそれだけ言った。
「なら、このまま死ぬだけだ」
覚悟しているのか、それとも状況がよくわかっていないのか、スノウがそう言っても、少年は身じろぎもしない。
短く刈り上げられた子猿みたいな頭を、再び体と膝の間に埋め、すすり泣くように言った。
「……殺して……ください。私はもう、必要のない人間なのです」
だから、そのままでもそのうち死ぬぞと言っているだろうに。スノウは小さくフゥと息を漏らした。
少年は見たところ十歳くらいだが、その口調は年の割に大人びているように感じる。
「お前、運がいいな。俺は殺し屋だ。死にたいのなら殺してやってもいいぞ」
そう言うと、少年はゆっくりと顔を上げた。
「……殺し屋?」
「人を殺すのが俺の仕事だ。死にたいのならお前も殺してやる。だが、その前に良く考えるんだな。死んだからって何かが変わるわけじゃない。ただ肉の塊が一つできるだけだ」
それを聞いて少年はびくりと反応し、先ほどまでの虚ろな瞳にやっと感情が宿った様に見えた。
「あなたは、……人を、殺して……? 傷つけて、それなのにどうして生きていられるのですか?」
生きていられる? そんなことをしてよく生きていられるなということか?
なんだこのガキ。俺にケンカを売っているのか。
「それが俺の仕事だからだ。俺は、自分が生きるために殺し屋をしている」
「自分が、生きるため……?」
少年は何かに衝撃を受けたようで目を見開いた。その目は、茶色のような金色のような、不思議な色だった。
「どんな事情があるのかは知らないが、死にたいのなら死ねばいい。別に止めはしないさ。だが死ぬとはどういうことかわかるか?」
遠くに聞こえていたサイレンが大きくなる。あまり長居はしていられない。
「それまでどんな人生を送っていても、死ねばただの肉の塊。そのうち朽ちて無くなるだけ。それを拒むことは誰にもできない。それと同じで、善人だろうと、殺し屋だろうと、生きている人間であることに違いはない。どう生きるかは、生きている人間が決めることだ」
何故、こんな死に損ないの子供にこんな話をしているのか、自分でも良くわからなかった。ただこの少年の姿が、自分の幼い頃の姿と重なって見えて、胸の奥がざわついた。
昔、殺し屋として初めての仕事をした時に考えた。
こんなことをしている自分に、生きる価値はあるのかと──。
だが自分にはその選択肢しか残されていなかったし、汚い大人たちに腕や足を切り取られ、一生物乞いをやらされて生きるよりは、何倍もマシだと思ったのだ。そこには善も、悪もない。あるのはただ、生きることへの執念だけ。
「お前はまだ生きているんだ。だったら選べばいい。どんなことをしても生きるのか、それとも何もせず死ぬのか……」
この、殺し屋なんてろくでもない自分のように、人の命を奪ってまでも生きることを選ぶのか……、それともこの腐った世界に見切りをつけて、死を選ぶのか……。
スノウは顔を覆っていた布を解き、少年の方に丸めて投げた。投げた直後は大人しくまとまっていたその布も、少年の足元に落ちる頃にはふわりと広がる。
「生きたいのだったらそれで止血をしろ。通りに出れば人がいる。死にたいのなら、そのままそこにいればいい。選ぶのはお前だ」
そう言うと、スノウは少年に背を向けた。顔を隠すものが無くなった以上、あまり見られたくはない。それにそのうちここにも人が来るだろう。それまでこの少年の体力が持つかどうかはわからないが、あれだけ喋ることが出来れば何とか大丈夫だろう。
スノウがその場を歩き去ろうとした間際、少年は独り言の様に何かを呟いた。
それはとても小さな声で、良く聞き取れ無かったのだが、微かに『ありがとう』と言っている様に聞こえた。
「──大正解。その時の死にかけの子供があたしだよ」
司令官室の重厚な執務机の前に立って寄り掛かりながら、彼女は静かに言った。もっと跳び跳ねて喜ぶのかと思っていたスノウは、普通過ぎる反応に肩透かしをくらった気分だった。
「今朝ジェイスに会って話したのがきっかけってことは、じゃあ競技会が始まる前には思い出していたんだ」
「ええ、まあ……」
とは言っても、思い出したのは競技会が始まるほんの少し前。それまであの少年と、いま目の前でこちらを見返す、年齢の割りに大人びた美しさを漂わせる女性とが同じ人物であることなど、想像すらできなかった。
何より自分はあの少年を、完全に男だと思い込んでいたのだ。
「……なかなか思い出せなくても無理ないよ。自分でも、あの頃に比べると随分変わったと思う……」
少し寂しげな表情で彼女は言う。出会った時の状況が状況なだけに、本人にとっても良い思い出という訳ではないのだろう。
「あの頃のあたしは、本当に暗い子供だったの。特にあの時は、何にもする気にならなくて、あのまま死んでもいいと思ってた。……でも、変わったんだよ、あたしは。それに……、髪も伸びたしね」
そう言って肩にかかる金糸の様な長い髪をさっと払った時には、いつもの茶目っ気ある笑顔に戻っていた。
スノウは司令官の正面に直立の姿勢で立ちながら、過去を思い出すと同時に生じた疑問を口にした。
「あの時、何故あんなところにあんな怪我をしながら、一人でいたのですか?」
すると司令官は再び寂しげな表情に逆戻りし、うつむきながらしばし黙った。
「……ごめんね。それを話すには、もう少し時間をちょうだい。心の整理が着いたら、ちゃんと話すから……」
どうやら話しづらいことを聞いてしまったらしい。
(別に無理に話そうとしなくてもいいのだけど……)
「それにしても、もう思い出してたんだから競技会に出る必要なんて無かったのに、ちゃんと出場するなんて、ホントあなたって真面目ね!」
急にぱっと顔を上げ、話題をそらすようにわざと明るい調子で司令官は言った。
「しかもちゃっかり優勝しちゃうんだから!」
(ちゃっかりって……俺は何も狙ってないぞ……)
そう、スノウは結局、格闘技競技会で優勝してしまったのだ。
ヤナギとの試合に勝ったものの、奴の仲間の誰かが優勝してしまえば結果的に奴の目論み通りになってしまう。そうなった時の奴の勝ち誇った顔を見るのが我慢ならなくて、スノウは更に勝ち進むことにした。
ヤナギを倒すことから、奴の仲間すべてを倒すことに目的がシフトしたのだ。ただ一つ問題なのは、誰がヤナギの仲間で、誰がそうでないかがわからないということだ。
どうしたものかと思いつつ、順調に勝ち進み、迎えた決勝戦。
なんと決勝戦の相手はトーマだった。
トーマがヤナギの仲間でない事はわかりきっている。つまりヤナギの息のかかった選手は全て排除できたのだ。
これでやっとこのばか騒ぎから解放される。そう思った矢先──、
「──でも不思議だよね。下士官はみんな同じお弁当食べてるのに、トーマスだけ食中毒になるなんて……」
仔犬の様に瞳をくりくりとさせながら司令官は呟いた。琥珀色の瞳がいっそう大粒の宝石の様に見える。
「どうせ、どこかで拾い食いでもしたんじゃないですか?」
呆れ顔でスノウは返した。
とどのつまり、ガンデルク基地最強の男を決する戦いは、相手選手が食中毒を発症させ救急搬送される異例の事態により、不戦勝で優勝者が決定するという何ともぐだぐだな終わり方を迎えたのだった。
(一体何だったんだ、今日という一日は……)
ただただ疲れただけで、何の成果も無かった。
「まあ、最後はちょっとばたばたしちゃったけど、競技会としては大いに盛り上がったんじゃないかな」
両手を後ろ手に組みながら歩み寄ってきて、満足そうに司令官は言った。
「あなたの出てた試合なんか、女の子たちがきゃあきゃあ言って喜んでたもんね!」
ふふふっと楽しそうに少女は笑う。そんなところまで気にしていなかったスノウは「はあ……」といい加減な返事をした。
「ありがとう。大成功だったよ。あなたの協力のお陰ね」
司令官はスノウの目の前まで近付いてきてそう言うと、ちょいちょいと手招きのジェスチャーをした。
「……?」
彼女が何をしたいのかわからず、スノウは訝しげに眉を寄せる。
一瞬、ふわっと花の香りがしたかと思うと、突然少女が首に抱きついてきて、次の瞬間、左頬に柔らかく生温かい感触がした。
(──!?)
しばし呆然とするスノウに抱きついたまま、司令官はにっこりととろけるような微笑みを浮かべた。
「ほらね。案外、嬉しいものでしょ? ほっぺにチューって」
そう言われて、やっとスノウはたった今何が起こったのかを理解した。
(しかし、何でいきなり? ──ああそうか、俺が優勝したからか……)
そう思いながら、スノウは冷静な表情のまま、濃いブルーの瞳で少女を見下ろす。その反応の無さが気に入らなかったのか、少女の態度は一転、膨れっ面をして見せた。
「つまんないの」
そう言ってスノウの首を解放してからくるりと背を向けると、自分の執務机の位置まで戻ってしまった。
(つまんないって言われても、俺だってこんなことしてくれなんて、一言も言ってないんだが……)
優勝者には司令官が自ら何でも望みを叶えてくれるという話だったはずだが、自分には望みを言う権限すら無いらしい。
スノウは軽く息を吐いて、未だ柔らかい感触が残る頬を片手で包むように触れた。
(……まあ、いいか)
何の成果も無いと思っていたが、一つだけ成果があったということにしておこう。
革張りの椅子にどっかりと座って、不機嫌そうに頬杖をつく司令官を見ながら、スノウは小さく笑った。




