九 ファーストコンタクト
「※△☆@÷∀○√……」
まったく聞き取れない言葉と、その副音声みたいに同じ声でわかる言葉が重なる。
「あんた達、マレビトさんかねぇ?」
文字通り杏子は跳びあがった。
振り向こうとして近くの木に背中をぶつけ、折れた枝葉や実がどばっと頭に降ってくる。
「あ、あの……すみませんっ!」
相手を見る前に素早く頭を下げた。
「ここの果樹園の持ち主のかたですか? すみません、すみません。ウチの子が、果物を食べてしまって……」
「ウチの子ぉ? 親子のマレビトさんかねぇ? こりゃ、珍しいのぉ」
副音声ふうに言葉が二重に聞こえるのが邪魔だけど、とりあえず日本語はわかる。声の調子では、怒っていないようだ。
ほっとして顔と頭の枝葉を払い、ようやくちゃんと相手を見る。
異世界の人間にしては、ごく普通のおじさんに見えた。
紐で結ぶ服は作務衣に似ている。背丈は凄く低いけれど、これは今の杏子の身長のせいだろう。年は六十前後か。日に焼けた農家の人という感じだ。
だけど一番眼を引くのは、おじさんの頭。
短く刈りあげた髪は茶色と白のまだら模様で、白髪まじりかなと思ったけれど、それにしては茶色のぶちがくっきりとしている。
さらに、どう見ても猫、という耳がついていた。
位置も猫と同じで、一瞬秋葉原あたりのカフェの店員を連想してしまう。でもその耳はぴくぴくと動くから、たぶんカチューシャじゃない。
──うわあ! ありえない……ファンタジーの世界っぽい!
杏子は絶句した。飛び去る現実感の後ろ姿が見える。
──そ、そうだ、圭ちゃん! あの子、任せろって言ったし!
この世界のことならなんでもわかると豪語していた。猫の耳がついている人にはなにを話せばいいのか、わかっているはず。
杏子は横目で、金銀に色分けされた頭を探した。
見当たらない。奥のほうで果物をかじりまわっているのだろうか。
猫耳おじさんは首を傾げて、返事を待っている。
杏子は焦って、とりあえず申し訳なさそうな笑顔を作った。この五年間で癖になるほど作ってきた笑顔だ。その間に思い返す。
──えっと、なんの話だったっけ……そうそう、親子かって訊かれたんだった……
「あ、はい。親子で、ウチのむ……」
息子と言いかけて、今の圭太の顔が浮かぶ。なにをどう見ても男の子には見えない、仮の肉体だ。
「わたしの子供で……」
さすがに娘と言うのは抵抗がある。杏子の娘は華世一人である。
「その辺にいるはずなんですけど……」
きょろきょろすると、そこらじゅうに食べ散らかした果物がイヤでも目に入った。
猫耳おじさんも、微妙な顔でかじり捨てられた果物を見る。
「あの、あのっ。本当にすみません。……その、弁償します!」
身の縮む思いでぺこぺこと頭を下げた。
腰の巾着にはコインしかなかったけれど、足りるだろうか。足元に散らばる果物は、ざっと見ても十個以上。東京だったら千円以下ということはない。
巾着の中を確かめようとして、肘がなにかにあたった。
「あ、圭ちゃん。どうしたの?」
きんきらきんな二色の頭が杏子の背に貼りついている。
「………………ろ…………」
「え?」
杏子は背を屈めた。
「なに? 聞こえなかった。なんでそんなとこに隠れてるの? この世界のことはわかるんでしょう?」
後ろへ伸ばした手が、思いきりふり払われる。
「うっせー。カマ言葉使うなっつってんだろ? 気持ち悪ィんだよ!」
言葉は悪いが、ささやき声だ。杏子のリュックに顔を埋め身体を縮めている。
──そうだった。圭ちゃんは五年も家にこもってた……
杏子と二人のときは家の延長だったのだろう。もしかすると、この世界の人をドラクエのキャラクターみたいなものと思っていたのかもしれない。
だけど目の前のおじさんは、普通に生身の人間だ。
──猫の耳だけど……
フリースクールへ行くときも、圭太は小柄な杏子の背に貼りついていた。大きな図体を縮めて。
──ここは、ママが頑張らなくちゃ!
杏子は愛想笑いした。
「すみません。これが、わたしの子で、その……お腹が空いて、果物を食べてしまったんです」
圭太に注意されたとおり、女言葉に気をつける。なにしろ杏子の外見はがっしりした男なのだ。
「それはぁそれはぁ……まぁ、気にせんでもいいよぉ」
猫耳おじさんはにこやかに片手をふる。
「マレビトさんはぁ、よく、ここの果樹園に入りこんでしまうからのぉ」
副音声が続いていて、少し聞き取りづらい。
「よく……ですか?」
おじさんはうんうんとうなずく。
「この山にはぁ、時々、マレビトさんが現れるのだよぉ。この前はぁ……何年前だったかねぇ……ま、いい……ところでぇ、あんた達ぃ、わしらの村へ来るかねぇ?」
「ぜひ! お願いします!」
渡りに船とはこのこと。杏子は勢いこむ。
猫耳おじさんは、小さな荷車を持ってきていた。山道にぴったりのがっしりした脚の馬は小型だけれど、力強く荷車を引く。
収穫した果物の脇に圭太を座らせ、杏子は手綱を取るおじさんの脇を歩くことにした。〈頑健〉な今は歩くのが苦にならないし、話も訊きたい。
おじさんは快く話をしてくれた。
猫耳おじさんはナゴォという名で、これから行くのはハジュメ村というところらしい。
らしいというのは、はっきり聞き取れないからだ。副音声のおかげでほとんど日本語が聞こえるのに、名前の部分だけは日本語にならない。フランスの名前をフランス語で発音されると、カタカナと違っていて聞き取れない、そんな感じだ。
杏子はいろいろに言ってみたけれど、ナゴォが肩を竦めてうなずく程度にしか言えなかった。
もちろん逆もまた真なり。
圭太はわりとそれっぽく聞こえるけれど、杏子はどう聞いてもキョォコォになる。そしてナゴォの感覚では、ケータは女性名で、キョォコォは男性名らしい。
「マレビトさん二人ともぉ、お似合いの名だのぉ」
人の良さそうなくしゃくしゃの笑顔は、日本の田舎のおじさんと変わりなかった。
頭の猫耳以外は。
杏子が子供のころに飼っていた猫と同じように、ナゴォの猫耳も時折びくりとする。左右別々に動いたりもした。
耳だけじゃない。尻尾もあった。これも猫そっくりな長い尻尾で、御者台から垂れてゆらゆらと揺れている。
しばらく行くうちに少しずつ緊張がほぐれ、杏子は本格的に質問し始めた。
「あの。マレビトさんってなんですか? わたし達のことを、そう呼んでいらっしゃるみたいですが……」
ナゴォは日焼けした顔で大きく笑う。
「あんたさんらはぁ、マレビトさんだよぉ。どこかよその世界からぁ、本当じゃない身体でぇ、来たのじゃろぉ」
驚きで足がもつれる。
「え? ……えええっ?」
喉を詰まらせる杏子にちらりと目をやって、ナゴォは声をあげて笑った。
「マレビトさんの産地でぇ、一番有名なのはぁ、東の果ての森だなぁ。ワシらの山はぁ、二番目だぁ。あとはぁ、どこぞの島やらぁ、野っ原やらぁ、谷の奥でもぉ、たまに出てくるとぉ、言われとるぅ」
「……そ、そうなんですか……」
それが本当なら、杏子と圭太がこれほど近くに出てこられたのは、まさに幸運。〈多幸運〉のおかげとしか考えられない。
──さすが、百万円分の幸運!
杏子の内心の安堵を知らずに、ナゴォは続ける。
「マレビトさんてのはぁ、あれだぁ。有難いことをしてくれるさねぇ。あんたさんらもぉ、『感謝の水晶』を集めとるんかねぇ? それとも、ほかにぃ、あるんかねぇ? なにせぇ、この山にマレビトさんが出たのはぁ、五年……いんや、八年ぶりだでのぉ」
こんなふうな状況だとは、思ってもいなかった。自分が別の世界から来たことは秘密にしなくてはならないと、思いこんでいたのだ。今まで読んだドラマや小説や漫画のせいかもしれない。
よく考えてみたら、案内人は秘密にしろとは一言も言っていなかったのに。それに、こんなふうに行く《世界》は三種類もあった。ほかの人も来ていて当然だ。ちょっと考えれば、誰でもわかること。
──本当に、わたしってば、昔からこういうとこ、バカなのよねぇ……
五十になっても少しも考え深くなっていないのが、いやになる。
照れ隠しに杏子は意味もなく笑って、尋ねた。
「この前のマレビトさんは、どんな人だったんですか? その人、どうなりました? ……八年前、でしたっけ?」
ナゴォは首を傾げ、手綱を揺らす。
「親切……な人だったかのぉ。鳥みたいに飛んでぇ、高い所の実を収穫してくれたりぃ、屋根を直してくれたりしとったのぉ」
飛んだということは、圭太のように特殊能力を選択したのだろう。なにも特別な能力がない杏子は焦る。
ナゴォはのんびりと続けた。
「マレビトさんにぃ、ありがとうと言うとぉ、たまぁにころっとした水晶みたいなもんがぁ、出よるんだぁ。なぁんにもないところからのぉ。マレビトさんはぁ、それを『感謝の水晶』と言っとってぇ、集めとったぁ。そんでぇ、しばらくしたらぁ、村から出ていったのぉ」
「え? なんで?」
「誰がどんだけありがとうと言ってもぉ、水晶が出てこなくなったからかもしれんのぉ」
ナゴォの答えに、杏子はこっそり拳を握った。
──やっぱり、案内人さんが正しいのよ!
感謝の水晶の所持枚数によって、植物状態からの回復の状況が変わるのなら、誰だって後遺症のない奇跡の回復を望む。言われた通り水晶を集めるに決まっている。
ただし杏子の場合、自分の分だけでなく、息子の分も集めなければならない。
「でも、八年もたったんですから、また水晶は出てきますよね?」
意図していたより必死っぽい声になってしまった。ナゴォが横目で見て、くつくつと笑う。
「だろうのお。マレビトさん一人に一回は出るとぉ、言われとるよぉ」
そしてひょいと肩を竦める。
「だがのぉ。出そうと思って出るもんでもないからのぉ。脅したりぃ、責めたりぃ、殴ったりしてもぉ、出てこんよぉ」
「えっ……も、もちろんです! わたし、そんなことできっこないですし」
心からの言葉なのに、ナゴォは猫耳を震わせて笑いだす。
「そんだけぇ、強そうな御人なのにかのぉ」
杏子の耳が熱くなる。
生まれてからずっと杏子は弱者で、周囲に合わせて生きてきた。空気を読み、グループに埋没して、目立たないようにしてきたのは、安全のため。腕力のある男性なんて、別世界の住人だ。
異世界に来たうえ、別世界の住人になったことに、慣れる日が来るのだろうか。
とりあえず杏子は頭をかいて照れ笑いをしておく。
「いやあ、見かけだけなんですよ。結構ダメダメなので……」
「その立派な剣もぉ?」
ナゴォの目は、腰の剣にむいている。
「あ、これ、使ったことないです」
台所の菜切り包丁以上のサイズの刃物は、触ったこともない。家には出刃包丁も置いてなかった。魚は切り身主義。シンクが生臭くなるのが嫌だし。
「それで、村には何人くらい住んでいらっしゃるんですか?」
話を変える。
ナゴォも目を剣から道へ戻した。
「赤ん坊も入れてぇ、五十人はおるのぉ。山ん中の村じゃぁ、大きいほうじゃのぉ」
なるほど、村人全員に水晶を出してもらっても、足りない。半年で百枚集めなければ、奇跡の回復は望めないのだ。
赤ん坊と幼児は無理だろうし、それ以外の村人でも全員から水晶をもらえるとは限らない。適当なところで、村を出るのは賢明だ。
「わたしと圭太も、皆さんのお役に立ちたいと思っていますから、なんでも言ってくださいね!」
心の中はおくびにも出さず、杏子はにこやかに請けあった。
ナゴォは心得顔で笑う。
愛想笑いを返しつつ、杏子は荷台の圭太を確かめた。
収穫した果物の籠と杏子のリュックの間に座る圭太は、膝を抱えて頭を埋めている。
「どうしたの、圭太? 車酔いした?」
声をかけても返事がない。
心配になって近づくと、細い膝小僧の中からつぶやきが漏れてきた。
「なんなんだよー、なんで、せっかくのネコ耳が、美少女じゃねーんだよー。じーさんのネコ耳なんて、萎えるじゃん……」
具合は悪くなさそうだ。安心しつつ笑いをこらえる。
ここで笑ったら、圭太はまたひきこもってしまうかもしれない。非常識な状況とはいえ、とにかく今は自宅外に出ているのだ。他人と話をしてくれるのなら、猫耳美少女でもなんでもいてほしい。
「くそー。こーゆーシーンってのは、跪いてオレに恭順を示すか、命を狙って攻撃を仕掛けてくるっつーのが、セオリーじゃんか……おかしーだろ、リアル世界のじーさんみてーに話しかけてくっとか、ありえねー……こんなの、どーしろっつーんだよ……」
猫耳美少女の不在以外にも、いろいろと不満があるようだ。
杏子はふと圭太の部屋を思いだした。ここ二年くらいは全然入れてくれないけれど、それ以前は掃除機をかけるくらいはしていたのだ。
圭太の部屋には、大量のマンガと、マンガが表紙の文庫本が積みあがっていた。幼児の顔にスイカの胸をした女の子のマンガだ。
一度だけ、文庫本を開いてみたことがある。学校へ行かせるヒントにならないかと考えたのだ。
冒頭数ページでヒロインが出てきた。
ヒロインの身長は一六○センチで、体重は四○キロ。
拒食症なのだろうか、圭太は同じように心を病んだヒロインに救いを求めているのだろうかと、急いで読み進む。
次の行は、こう。
バスト九○センチ。
あまりにも非現実的な数字に、危うく本を投げつけるところだった。
子供のころからずっとぽっちゃり体形の杏子は、体重と体形が一番の地雷である。この世から体重計がなくなればいいと、数十年は呪っていた。五十歳の今だって、本当の体重は絶対に誰にも言わない。たとえ親友でも、夫でも、娘でもだ。
そんな杏子のバストが九○センチを超えたのは、授乳期だけ。固く青筋の浮いた大きなおっぱいは、赤ん坊の食糧庫にしか見えないと、今でも思う。
それなのに、いやそれだからこそ、これほど無茶苦茶なヒロインを、大事な息子が好きなのだと、考えるだけで頭が沸騰しそうだ。
身長一五五センチの杏子だって、四○キロまで体重を落としたら、胸はペタンコになる。
これを書いた作家も圭太も、女性には骨も内臓も脳もないと考えているのか。
それとも、シリコン製の女性なのか。
もしかして、圭太は今、ここがそういう非現実的な世界だと、思いこんでいるのか。
想像するだけでムカつくけれど。
杏子は頭を振って、数年前の怒りを追い払う。今は非現実的ヒロインに怒っている場合じゃない。そのエネルギーを『感謝の水晶』百枚獲得へ向けるのが、建設的だ。
今のところ、状況は悪くない。
この世界で言葉が通じることはわかったし、杏子達を受け入れてくれそうな人とも出会えた。果物は弁償しなくてはいけないだろうけれど、これも知りあういいきっかけとも言える。圭太の盗み食いも、結果オーライだ。
──少なくとも、圭太の仮の肉体は〈美貌〉だけど、非現実的じゃない……
華奢な圭太少女の胸はスイカどころか少年並だ。不満気にぶつぶつ言っている圭太を優しい気持ちで見やる。
──わたしが頑張らなくちゃね。この子に任せておいたら、絶対、『感謝の水晶』百枚なんて、集められっこないもん!
決意も新たにナゴォのほうへ足を進める。
そのとき急に、目の前が開けた。
空が大きく広がる。
ナゴォが片手を振った。
「ここが、ハジュメ村だよぉ」




