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おばさんクエスト  作者: 如月天音
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八 出発進行

 朝の目覚めは爽快だった。

 先行きの不安と心配事が山盛りのうえ、地面に直接横になって寝たというのに。

 こんなにぐっすり眠って爽やかに目覚めたのは、何十年ぶりだろう。身体の調子も上々で、信じられないほど清々しい。

 太陽が地平線から完全に姿を現す前に、杏子は荷物をまとめた。寝ている圭太から毛布をはぎとり、丸めてリュックにくくりつける。

──できるだけ早く人に会って、水晶を集める手だてを見つけなくては……

 一番の心配だった息子と合流できたのだから、あとは元の身体に無事に戻るだけだ。早く戻れば戻るほど、娘の負担も軽くなる。

 リュックを背負い、起きようとしない圭太を小脇に抱えて川へ向かう。

 子供達の幼いころのようだと思って、つい頬が緩む。

 ついこの間の気がするけれど、あのころ杏子は若かった。赤ん坊の圭太を背中に背負って、小学生の華世と片手をつなぎ、もう片方の手には買い物袋を持つ。常に両手がふさがる日々。大変で大変で、目が回って、このままじゃ倒れてしまうと思っていた。

 自分が幸福だなんて、考えもしなかった。

 小さな痛みを胸の片隅に置いたまま、杏子は顔を洗う。

「ほら、圭ちゃんも、顔を洗って」

 手拭いを使いながら指示すると、寝ぼけた声が返る。

「メシは? 食ってから洗う……」

「朝ごはんは、圭ちゃんの知ってる木のところで、果物を食べるの」

「えー。オレ肉食いてーんだけどー」

「もうしまっちゃったし。今日は、人を探して、この《世界》のことを確かめなくちゃ」

「そんなのわかってるって……オレが勇者でさぁ……」

「そんな汚れた顔じゃ、勇者に見えないでしょう。いいから、洗って」

 ぐずぐず言っている圭太少女の小さな頭をつかんで、流れの中につけた。

 圭太は手足をばたばたさせて身体をよじり、杏子の手から逃れるのと同時に川に落ちる。

「なっ、なにすんだよっ! 溺れたらどーすんだっ!」

 深さ十五センチの川の中に座って、水と唾を盛大に吐き散らして喚く。

 無視して、杏子は圭太の顔や髪を手拭いでこすった。

 今の杏子に比べれば幼児並に非力だけれど、圭太少女は確実に十六歳以上だ。昨日の話でパラメーターの《年齢》を選んでいなかったし、《年齢》のルーレットは〈十六〉から〈三十五〉となっていたのだから。

 どれほど華奢に見えようとも、十六歳以上の女子が川に顔をつけたくらいで溺れはしないと、杏子は経験的に知っている。

──どうして、荷物に石鹸がないのかしら?

 不満はこっちだ。

 川の水がいくら澄んでいても、水だけではあまり綺麗にならない。とりあえず、ひらひらワンピースを脱がせて全身をこすってやる。

 スレンダーな圭太少女は、手足が細く長く、胸も薄かった。ぽっちゃり体形だった杏子の十六歳のときとはだいぶ違う。

──こんなスタイル、憧れたなぁ……

 懐かしく思いだしながらごしごし洗い、手拭いをきつく絞って拭いてやる。

 五十歳のおばさんに比べると、この身体は力があるから、軽く絞っただけで手ぬぐいはほとんど乾いてしまいそうだ。

 ものすごく気持ちがいい。

 圭太少女のもつれた髪を手でほぐし、それから櫛で梳く。荷物に入っていた櫛は素朴なものだけれど、充分使える。

 丁寧に解きほぐして何度も梳くと、金と銀の髪は艶やかに輝いた。

 汚れを落とした小さな顔は、天才の造った精巧なビスクドールのようだ。整っているのに歪んでいる。顔のサイズに比べて眼と瞳が大きすぎ、鼻と口が小さすぎる。でもそこがまた美しくもあった。

 そして、肌。化粧水も乳液もクリームもつけていないのに、しっとりすべすべと輝いている。

なるほど、圭太好みではあっても〈美貌〉は〈美貌〉なのだと、杏子は感心した。

 手拭いの端を裂いてリボン状にし、圭太の髪をまとめる。金髪部分だけをポニーテイルにして、銀髪は顔の両側に垂らしておく。

 そういえば、娘が子供のころはいつも髪を結んであげた。女の子は幼くてもおしゃれが好きで、髪を結ぶと喜ぶ。花が咲いたような笑顔に、こっちも嬉しくなった。

 その点、息子はつまらない。髪はうんと短いし、結んでもちっとも喜ばないのだから。

 その圭太は、すっかり慣れた様子で鏡を出現させた。

「うん。やっぱ、オレ、チョー美少女だな」

「ママの言ったとおりでしょう」

 杏子はちょっぴり鼻を高くする。

「ま、アイドルでも顔を洗わなきゃなんねーっつーなら、しょーがねーよな」

 鏡を凝視して、圭太はご満悦だ。

「オレ、超ヒロインじゃね?」

 たとえ違う顔になっていても、子供が嬉しそうにしていると、胸の中がほわほわする。

──そうよ、圭ちゃん。顔や身体をいつも洗って、髪型や服装を清潔な感じにしたら、圭ちゃんは超ヒロイン……ううん、超ヒーローよ!

 閉じこもって以来、圭太はめったに風呂に入らないし、着ているのも毛玉だらけのジャージばかり。もう少し身なりを整えれば、本来の圭太だって悪くない。

 杏子はずっとそう思ってきた。

 圭太もそれに気づいてくれるだろうか。

 とりあえず今はまだ、それを言う時期ではない。無事に元の身体に戻ってからのこと。

「さ、圭ちゃん。果物の木に案内してちょうだい……じゃなくて、案内してほしい、とか言うほうが男っぽいよね。果物を食べて、川を下りま……下ろう」

 人里に辿りつくまでどのくらいかかるかわからないから、果物は多めに持っていきたい。幸い杏子の選んだ肉体は〈頑健〉だから、まだ余力がある。

「……オッケー」

 杏子の着替え用シャツをワンピースみたいに着た圭太少女は、ようやく鏡を消して歩きだした。

濡れたひらひらワンピは、当然のように杏子が持つ。広げてリュックにかけておけば乾くだろう。

「心配すんな。果物の樹はけっこーあるから、いくらでも食えるよ。勇者を飢え死にさせるワケねーからな」

 よくわからない理屈を言い、圭太は歩きながら腕を組む。

「だけどよー、この〈鏡〉、動かねーし、簡単に割れっし、どう使えばいいんだ? ……レベル足んねーのか?」

 つぶやいてから、あちこちを指さす。

「ミラー」

「ミラー」

「ミラー」

 それぞれの場所に洗面所の鏡が出現した。いくつか出ると、初めのほうから消えていく。

 昇り始めた太陽の反射光が、歩くのに従って流れるように見える。

「綺麗! 凄いじゃない、圭ちゃん。もうそんなに自由自在に使いこなせるなんて!」

「凄くねーよ。すぐ割れるし、消えるし、バトルでどう使うのか、わかんねーし」

 言葉とは裏腹に鼻は丸く膨らんでいた。

「ううん。凄い。だって圭ちゃんは自分で考えて、自分で方法を見つけたんだよ! これが凄くないわけないよ!」

 これは本心だ。

 昨日再会したときのような奇妙な踊りやポーズもしなくていいのだから、戦隊ヒーローより凄いではないか。

 圭太少女の顔が上気して、ぷいとそっぽを向く。

「あ、ほら。あそこだから。果物の木があるとこ」

 ほっそりした指が示すほうへ顔を向け、杏子は目が点になった。

「け……圭ちゃん……あそこって……」

「ん? 同じのばっかで飽きるけどさ。大量になってるだろ? だから、飢え死にはないってワケ」

 圭太の言うとおり、昨日見た果物が大量に木になっている。今まで歩いてきた森の雑多な木々から数メートル離れたところに、整然と列をなして。そのうえ果物の木々と森の木々の境には、細めの丸太で作った柵があった。

 どうみても、果樹園である。

 圭太は柵の横木を踏む。

「ここんとこ、木が倒れてて危ねーから」

「ま、待って、圭ちゃん。ここ……果樹園よ」

 左右色違いの瞳がきょとんと杏子を見あげた。

「カジュエン? なにそれ?」

 ひきこもり息子には聞きなれない言葉なのかもしれない。杏子は言い直す。

「誰かが、実のなる木を植えて、育てて、収穫している場所。勝手に持っていったら、泥棒で……」

「えーー? こんな山ん中でー? んなワケねーじゃん。なに言ってんの? だいたい、看板とかもねーじゃんか」

「看板はないけど……」

 柵囲いの中で、同じ実のなる木々が均等に並んでいたら、明らかではなかろうか。

「柵があるし……」

「柵?」

 杏子が指さした足元を、圭太少女は見おろす。

「どこが柵だよ? その辺の木が倒れてるだけじゃん」

「で、でも、縄で縛ってあるし……」

「縄じゃねーよ、ゴミ。柵っつーのは、金網とか鉄条網とか、人が入れないようになってるモンじゃん」

 圭太がやっている、ゾンビを撃ち殺すゲームではそうかもしれないけれど、杏子の知る限り、目の前のこれは簡易な柵だ。

「でも……そうだ、覚えてない? みんなでぶどう狩りに行ったことあったよね」

 下がっている実に伸ばした手をとめて、圭太が振り返った。かすかに首を傾ける。

「……すっげー昔じゃんか」

 家族でぶどう狩りに出かけたのは、華世が小学生で圭太は幼稚園児のころ。杏子にはつい先日の思い出だけれど、圭太には遠い昔らしい。

 杏子は声を張る。

「思いだして。こんなふうに並んで木が植わってて、こんな木の柵だったじゃない」

「グーゼンじゃね?」

 圭太はひょいと肩をすくめた。

「ぶどう狩りんとこは、看板あったし」

 看板しか覚えていないようだ。幼稚園児の記憶はそんなものかもしれない。

 圭太は当然のように果実をもぎとった。一口かじる。

「あ、これダメだ。まじぃ」

 果実の欠片を吐きだして、投げ捨てる。

 よく見れば、地面のそこかしこにかじった果実が転がっていた。昨日圭太がやったのだろう。今まで歩いていた森と違い、地面には落ち葉も下生えの藪もない。どう見ても人の手が入っている。

──どうしよう……ここの持ち主に、なんて言ったら……

 考えたのと同時に、奇妙な声がした。


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