七 荷物の中身
圭太が昨晩寝たのは、洞窟というより浅い割れ目だった。
奥行はほとんどなく、川が増水したら水没するような凹みである。それでも二畳ばかりの平らな地面があり、石ころを端に寄せてあった。
足の踏み場もない圭太の自室に比べれば、腰をおろせる分、広い。
「あら、いいところを見つけたじゃない」
言いつつも頭をぶつけそうになって、杏子は急いで腰をおろす。自分は思っていたより背が高いようだ。圭太少女は仁王立ちしても頭上にだいぶ余裕がある。
圭太のほうは身長を気にしているそぶりはなかった。杏子の荷物に飛びつく。急いで声をかける。
「後で元に戻せるように、わかるようにしておいてね!」
いつものように圭太は鼻を鳴らして答えた。
もちろん圭太はこちらの言うことなんか聞いていないだろう。詰め直せるように注意して荷物をだしたりもしないに決まっている。わかっているのに言ってしまうのは習慣、そして僅かな期待のためか。
もしかすると今度こそ、わかってくれるかもしれない。母の言葉を理解して、受け止めてくれるかもしれない。その確率はうんと低いと思っていても、期待せずにはいられない。
子育ては、そういう期待で成り立っている。
赤ん坊は泣くしかできないけれど、次第に立ちあがり、言葉が通じるようになっていく。その体験を積み重ねた末の、親の期待なのだ。
けれど残念ながら今日も、杏子の期待は外れた。
五歳児のような細い腕に戻っても、いつものように圭太はぽいぽいとものを投げだしていく。
「なんだ、こりゃ? ナベ、こっちはカップか。でっかい包みは……毛布かよ。これは……シャツとパンツか。ちっ、もっといいモンねーのかよ。使えねーなー!」
勝手なことをぶつぶつ言いながら、あたり構わず散らかす。
杏子は端から拾って、たたみ直し、丸め直した。金属製の片手鍋や、木をくりぬいたカップは使いやすそうだ。重ねて毛布にのせる。
「あっ! 肉じゃん! これ、焼いてよ」
圭太が叫んでつきだしたのは、木の皮と葉に包まれたベーコンらしき塊だった。
「なんの肉かしら?」
杏子は匂いを嗅いでみる。スーパーで買っている肉よりも生臭いけれど、火を通せば食べられるだろう。
「そういえば、圭ちゃん。ママよりも先に来ていたんでしょう。食事はどうしていたの?」
圭太はまた鼻を鳴らした。
「川を渡ってちょっと行くと、果物のなってる木があってさ。昨日から、それしか食ってねー」
杏子の胸がずきっとする。
「く、果物だけ……圭ちゃんが……」
圭太はフルーツが好きではない。リンゴやナシをむいてやっても、ほとんど食べなかった。果汁百パーセントジュースより、コーラを飲む。その圭太が自分からフルーツを食べるくらい、お腹を空かせていたというのか。
「こんなリュックとかなかったし。ほかに食うもんねーし」
言われてみれば、このくぼみに持ち物らしき品はなかった。少女圭太が着ているのも、薄い膝丈のノースリーブワンピースに、編みあげサンダル、小さなイヤリング。実用性に乏しそうだ。
圭太はポケットをごそごそ探った。
「あとは、これ」
なよやかな手にのっていたのは、細工物の髪留めと十センチくらいの折りたたみナイフである。これで全部なのだとしたら、なるほど杏子は荷物が多い。
──あ! もしかして、これも〈多幸運〉のおかげ……?
数えたわけではないけれど、〈多幸運〉のおはじきを二十個以上は投げたはずだ。一つくらい《世界》に影響してくれるんじゃないかと考えたから。願いどおり、圭太と同じ世界で、しかもこんなに近くに到着できた。
そのせいですっかり忘れていたけれど、それ以外のおはじきもどこかに効力を発揮していたはずである。その一つが、この荷物や服装だったのかもしれない。
──〈多幸運〉のおはじきは、一つで百万円だったはず。
だとすれば、リュックと服と頑丈なブーツ、そして腰に剣まであるのも納得だ。
「あ、ここにもなんか入ってんじゃん……なんだ、これ?」
リュックの脇ポケットに手を突っ込んだ圭太が、名刺サイズのカードみたいなものを引っ張りだした。模様が描かれている。
「おわっ!」
すっとんきょうな声。
「能力強化の魔法だってよ! ……えっと、『このカードを破った者は、指定の力が三十分間強化される。ただしその後三十分間気絶する』……なんだよ、このひっでー副作用はっ! 使えねーっ」
文句を言いつつも、カードを確かめている。
「筋力、スピード、耐久性、魅力、知性……うーん、いざってときだけだよなー、使うのは。ん? こっちは違うのか? 着火のカード……案内人との連絡カード? なんだ、コレ?」
「ち、ちょっと見せて!」
杏子はカードをひったくった。
あの親切な案内人に連絡がつくのなら心強い。
タロットみたいなカードに目を走らせる。
「……………………?」
カードには意味不明の模様が描かれていた。裏返すと簡単な絵記号がある。力こぶとか、花とか、本とか、標識にあるようなデザインぽい絵。
「……圭ちゃん、どこに書いてあるの?」
尋ねると、圭太は模様を指さした。
「ここに書いてあるじゃん」
「なんか、模様があるだけで……字はないけど?」
「は……?」
妙な声をだした圭太は、少し考えてぽんと手を叩く。
「そっか! オレはこの世界の字を読めっけど、母さんのキャラは読めねーんだ。そっちの装備、戦士系だもんな。頭はイマイチ……でもって、オレは美少女魔法使い。オッケーオッケー。典型的だぜ!」
腕を組みうんうんと独りうなずく仕草は、圭太そのもの。けれど身長一七五センチ体重百キロのオタク男ではなく、薄汚れているとはいえ華奢な少女だと、不審者に見えない。
──いやいや。圭ちゃんだって、もうちょっと清潔にして、少ーし痩せて、きちんとした服を着れば、絶対に不審者になんか、見えないんだから!
声高に主張したいけれど、心の内に留める。
言っても圭太は理解してくれない。それどころが怒る。虫の居所が悪ければ暴れだす。リビングやキッチンには、そうやってついた傷があちこちに残っていた。
物思いを振り払って、杏子は口を開いた。
「つまり、圭ちゃんには読めるのね! ほかのカードはあげるから、案内人との連絡できるカードの使いかたを教えてちょうだい」
「案内人? こっから目指すべき道とか、教えてくれんの? それなら、オレのほうが……」
わけのわからないことを呟いてカードに手をかける息子を、杏子は必死で遮る。
「違う違う! 覚えてない? パラなんとかルームに立っていた人! あの人が案内人なの。いたでしょ? 圭ちゃんのとこにも」
「へ? あの課金マフィア? これって、あいつにつながんの?」
顔をひきつらせた圭太少女へ手を伸ばす。
「そう。だから、圭ちゃんは、いらないよね?」
「いやいやいや。あんな危険人物に連絡するとか、ワケわかんねーから!」
カードを握りこんで圭太は後ずさった。頭をぶつけないよう膝立ちで追う。
「危険じゃないのよ。とっても親切で、なに訊いても全部、優しく答えてくれたのよ」
「をいをい、待てって。あいつの言ったこと、信じてんのかよ」
「ウソつく理由なんて、ないでしょ」
「あーもう、これだからシロートは困るよなー」
頭をぶつける心配のない圭太少女は身軽に逃げ回りつつ、舌を鳴らして人差し指を左右に振る。
「いーか? 親切面して近づいてくるヤツが、闇の使徒や眷族だっつーのは、ジョーシキじゃん」
案内人は親切面などしなかった。杏子が声をかけるまで黙って立っていただけだ。ずいぶん長いこと話をしたから、人となりはそれなりにわかっている。
ぴょこぴょこ逃げ回る圭太少女を追いかけて、なんとかカードの端に触れた。急いでぎゅっとつかむ。あとは力任せに引っ張るだけだ。
「あ! なにすんだよ!」
圭太が振り回した手が、杏子の頬に思いきりヒットする。
「きゃ……」
「あ……ごめ……」
圭太少女が慌てた顔で目をそらす。
「えっと……つい、手加減とか、できなくて……でも、母さんが悪いんだからな。危険なヤツを呼びだそうとかするからさぁ……」
ボソボソつぶやく言い訳は、杏子の耳にほとんど入ってこなかった。
──なに、これ?
家の壁に大きな穴を開けた圭太の拳に、まるで力がなくなっている。幼稚園に通っていたころでも、これよりは力が強かったのではないか。
──わたしが男の体で、圭ちゃんが女の子の身体、だから……?
男女の体力差の大きさと感じ方の差に、杏子は呆然とする。
改めて見直せば、圭太少女の背丈は杏子の胸あたり、厚みや幅は半分ほどしかない。差があるのが当然だ。
その圭太少女はふてくされた顔で上目づかいにこちらを見る。
「……悪かったって言ってるだろ。その……骨とか、折れたりした……?」
折れるわけがない。チワワがぶつかってきたような程度なのだ。たぶん杏子が本気でつかみかかったら、カードなんかすぐに奪えた。ヘタすると圭太少女がケガをする。腕の骨、いや首の骨が折れるかも。
背筋がぞおっとする。
感謝の水晶を一つも手に入れずに圭太の仮の肉体が死んだら、元の肉体に戻るときには死ぬか大きな障害が残ってしまう。ただでさえひきこもりに近い圭太は、今度こそ完全に社会生活への意欲を失ってしまう。
母として、それだけは避けたかった。
杏子は大きく息を吸って、首を振る。
ふてくされた顔に心配をにじませた圭太少女が、ほっとしたように息をつく。
「そっか……そりゃそうだよな。今の母さんは、超頑丈そうだもんな」
「《健康》の一番上〈頑健〉を選んだからね」
杏子は胸を張る。
「だけど圭ちゃん。あなたは今、女の子なんだから、暴力はダメ。そんなんじゃ、感謝の水晶がもらえないわよ」
「感謝の水晶?」
杏子は説明した。
杏子と圭太の本当の身体が病院にあること。交通事故で意識不明、植物状態になっていること。この世界の住人が自分たちに心からの感謝をしてくれると『感謝の水晶』が出現すること。集めた水晶の数によって蘇生状態は変わり、半年以内に百枚を集められたら、後遺症のない健康体で戻れること。
全部まとめて説明しようとすると、杏子の頭はすぐにごちゃごちゃになってしまう。焦りつつ思いだすままに喋っていると、途中で圭太が手を振って遮った。白魚のような手だ。
造形美の白魚の指よりも、ずんぐりして不格好な元の圭太の指のほうが可愛らしいと思うのは、世界中で杏子一人かもしれない。幼稚園の帰り道、短く丸っこい指で四つ葉のクローバーを差しだしてきた圭太がいなくなってしまったようで、美しい白魚の指が少し悲しい。
でも圭太にはそんな感慨が湧かないようだ。すんなりした指を左右に揺らして舌を鳴らす。
「これだからシロートは困るんだって。騙されてんのもわからねー」
「へ?」
間抜けた声がでた。
騙されていると言われたからじゃない。『シロート』の部分である。杏子の知る限り、圭太こそすべてのことに素人だ。学生ですらやりきれていない。なにかの玄人になってくれているなら嬉しいのだけれど。
圭太少女は薄い胸を反らし、小鼻を膨らませた。得意になると鼻の穴が丸くなるのは、可愛い癖である。
「オレは、こーゆー異世界召喚のことなら、なんでも知ってるんだ。あんな課金ヤクザの言うことなんか、一つも信じねーぜ」
「ヤクザじゃないわよ。紳士だったし」
口調や物腰も穏やかで、あれを紳士と言わずして誰をそう言えばいいのだろう。むしろ圭太のほうがヤクザというか、チンピラっぽい。
圭太は鼻で笑った。
「すっかり騙されてやんの。バッカじゃねー。考えてもみろよ。そいつが母さんを助けて、なんの得になるんだよ?」
──それなら、騙すほうには、なんの得があるの?
思ったけれど口にはしない。
圭太がひきこもるようになって以来、できるだけ頭から反対はしないようにしている。それとも壁に穴をあけられてからだっただろうか。今の身体は圭太よりずっと強いのに、習慣は簡単には消えない。
鼻息荒く、圭太は続ける。
「異世界に呼ばれるってのは、助けを求められてるってことなんだよ。勇者とか、光の戦士とか、英雄とか。とにかくそういう素質があったから、オレは呼ばれたワケ。特別な能力を授けられ、闇を打ち払い、苦しむ人々を救ってやる。その途中で、美姫とか、女魔法使いとか、メイド娘とか、超セクシーな敵のお姉ちゃんとかに恋されて困っちまうのは、まあ、お約束だから仕方ないんだよな」
今の圭太は美少女なのだから、恋してくるのは、王子とかイケメンのお兄さんとかじゃないだろうか。
とは思ったけれど、杏子は今度も口をつぐんでおいた。圭太と案内人のどちらが正しいのか、言い争うのは不毛である。人々を救うにしても、感謝の水晶を集めるにしても、まずはこの世界の人に会わなければ始まらないのだ。
「……で、なんで母さんまで異世界に来たかって言うとだな」
圭太が偉そうにびしっと指を突きつけてくる。
「ズバリ! オレの従者だ! その大荷物も、無駄にデカいことも、モブ顔も、異能がないのも、どう考えてもオレをフォローする役割として呼ばれたとしか、考えられねー。つまり、脇役だな」
「はいはい」
杏子は逆らわない。
圭太がいいならそれでОKだ。
もともと杏子は脇役体質である。子供のころも遊びの中心というより混ぜてもらうほうだったし、バブルのころは美人の佳代子のグループの端っこにいさせてもらった。
夫と結婚した前後数年は少しだけ主役気分だったけれど、子供を産んでからはそんな気分はきれいさっぱりなくなった。
ただ泣くだけの赤ん坊の要求をくみ取って、おっぱいをあげたり、おむつを替えたり、お風呂に入れたり、あやしたり。それだけで精一杯。自分のことは子供が育ってからにしようと思っていた。どうせすぐに大きくなると。
──そのはずだったんだけどなぁ……
のんびり温泉旅行のつもりだったのに、結局まだ子供の脇役から降りられていない。
──ま、別にいいんだけど。
一生脇役でもいいから、圭太には普通に生きてほしい。それが一番の願いだ。
だから今、圭太があれこれ喋っていることが、嬉しい。
圭太が母の杏子とよくお喋りしていたのは、小学校までだったと思う。六年前なんて、杏子にはつい一昨日みたいなものだ。当時はまだ声変わりもしていなくて、目の前の少女と同じ声だった。そのせいで違和感もなく話していたけれど、たぶん、最近五年間よりもこの一時間のほうが、喋った言葉の数が多いんじゃなかろうか。
──フリースクールよりも、効果があるとか?
笑みがこみあげてくる。
少女圭太が気味悪そうに眉を寄せた。
「なんだよ。オレの従者じゃねーっての? あの課金ヤクザに、なんか言われたのかよ?」
「違う違う」
杏子は急いで顔の前で両手を小さく振る。
「ただ、圭ちゃんがなんでも知っていて、教えてくれるから、安心しただけ。だって、いつも、なにも教えてくれなかったでしょ」
圭太少女は得意げに鼻を鳴らし、両手を腰にあててそっくり返った。
「まぁな。異世界のことなら、オレに任せときな。超読んでるし」
──読んでいる?
こんなことを、杏子はニュースで読んだことはない。杏子が知らないだけで、報道されていたのだろうか。それとも。
──マンガとか、ファンタジー小説のことじゃ……ないよね……?
疑念は口に出さない。
せっかく圭太の機嫌が良いのだ。わざわざ不機嫌にさせる必要はない。なんといっても圭太はたったの十七歳。まだ夢と現実がちょびっと混ざっていても変ではないお年頃だ。
杏子自身の高校時代を思い返しても、大人になったらスレンダー美人になって、皆が羨む素敵な男性と恋に落ちると、心のどこかで信じていた。結局、一番最初の『スレンダー』部分でつまづいたのだから、残りも推して知るべしというところだが。
それに。
マンガが全部間違っているとも限らない。案内人の説明も、マンガも、他人の言葉だ。頭から信じる理由はない気がする。それじゃあ、詐欺に騙される老人と一緒だろう。
となると杏子の取るべき道は一つ。
案内人と圭太、どちらが正しくても両方間違っていても、対応できるように心の準備をしておくことだ。周囲に気を配り、圭太と一緒に元の世界と身体に戻れるよう、注意して生き延びること。
正直言って、闇を打ち払うとか、人々を救うとかはどうでもいい。一番大事なのは、自分と息子を救うことだ。
「うわ! なんだよ、これ。パンじゃねーの?」
その大事な息子が、小汚い少女になって叫んでいる。杏子の荷物に入っていた塊にかじりついたら、予想外に堅かったようだ。
杏子は手をのばしてパンもどきを取りあげた。なるほどカチカチだ。かじる前にわかりそうなものだが。
──仕方ないか。十七歳の男の子じゃ……
性懲りもなく噛みつこうとしている別の塊も、取りあげる。こちらは干し肉らしい。けっこう臭いがあるけれど薄く削るとか、煮るとかすれば、なんとか食べられるだろう。
急に、杏子もお腹がすいてきた。
圭太が無事で元気にしているのを確認して、安心したせいかもしれない。
ブーツに差さっているナイフを抜き、小鍋の上で干し肉を削ぐ。
「あ、圭ちゃん、果物はまだ残ってる? それから、お水とか……」
圭太少女はしょっぱい顔になった。
「あのさー母さん。それ、やめてくんね? 超デカくて、ゴツい筋肉男のモブ……言うならばオッサン顔でさー、その喋りだとオネェ……んにゃ、化粧とか女装とかしてねーぶん、フツーのオネェより気色悪ぃんだけど。声だって、全然低いんだしさー」
文句を言いつつも、穴の隅に隠してあった果物を出してくる。
杏子はナイフで皮をむいた。いつもの包丁よりかなり大きいナイフだけれど、今の手にはちょうどいい。りんごと梨を混ぜたような匂いの果物をスライスして小鍋に落とす。これで肉の臭みも薄まるかもしれない。
水はリュックに水筒、というか、水袋がついていた。
水袋は皮製で見るからに密閉度が低い。さっさと使って新しい水に入れ替えたほうが良さそうだ。
「なー、聞いてんの? オレ、オネェ従者とか、ヤなんだけどよー」
「圭ちゃんの男言葉は、直さなくていいの?」
鍋の中にフォークを入れて、果物と干し肉を潰しつつ、杏子は訊く。
「そんな美少女なんだし、せめて『私』とか、かわいく言ったほうがいいんじゃない?」
「オレはいいんだよ! 美少女が『オレ』とか『ボク』とか言ったり、男言葉なのは、なんも変じゃねーし。そーゆーのも、萌えるんだからよ」
言われてみればそうかもしれない。
女言葉を使う男性はオネェとかオカマとか呼ばれるけれど、男言葉を使う女性に投げつける呼び名はない。最近の女子高生なんて、びっくりするほど乱暴な物言いをする。杏子達から上の世代は眉をひそめるけれど、圭太世代は気にしていないようだ。
──まあ、いいわ。どうせ、これは仮の肉体なんだし……
ここでの記憶はなくなると案内人は言っていたけれど、本当かどうかわからない。本来の肉体に戻ったとき、女言葉がうっかり出るくらいなら、口の悪い少女のほうがましだ。
「わかった。ママが気をつければいいのね」
「その『ね』とか、ヤメロっつーの!」
「はいはい」
返事しながらリュックを探る。杏子の手は迷いもなくこぶし大の包みを取りだした。薄い竹皮に包まれていた白い石に似た塊は、岩塩だ。
──え? でも、岩塩なんか見たことないのに……
我に返った杏子は、塊の端っこを舐めてみる。
思ったとおりの塩の味がした。とすると、この仮の肉体が岩塩を知っているということだろうか。
──まあ、いいわ。
塩があるのはありがたい。ナイフで削って鍋に投入する。このナイフが手に馴染んでいるのも、仮の肉体が知っているのだろう。
干し肉に水を吸わせている間に、洞穴の周囲を歩いて木の枝を集めた。アウトドアの趣味のない杏子は焚火のやりかたが良くわからない。とりあえず適当に積んで、着火のカードを裂いて落とす。
焚火ができた。
昔、佳代子のグループで川遊びに行ったことが、ふと蘇ってくる。
車を出してくれた男の子達は焚火を作るのに、ものすごく苦労していた。足を濡らしていた全員が、風邪をひいてしまったくらい。それを思うと、魔法のカード様々である。
──これも、百万円分の幸運の一つってことよね。あのとき、たくさん投げておいて、良かった!
もちろん喜んでいるのは杏子だけだ。圭太は焚火にも魔法のカードにも感謝する気配はない。当然、焚き木一本拾うわけもなく、一人でぶつぶつ言っていた。
「なんで、迎えが来ねーんだ?」
「特殊能力の発現は、どーなってんだよ?」
「配下は、どーしたんだ?」
「ヒロイン達が、偶然集まんねーなんて、おかしーだろ?」
「クソゲーかよ?」
どう聞いても、なんらかのマンガ的ゲーム的ななにかを期待しているような気がする。
──やっぱり、信じるなら、案内人さんのほうかな……
口にはせずに、小鍋を火にかざす。
薄甘い果物と水で、干し肉はだいぶ軟らかくなっていた。硬いパンも、一緒に煮てしまえば、食べられるかもしれない。パンがゆみたいにして。野菜が足りないのが気になるけれど、今は仕方がない。
──この身体も、圭太の少女の身体も、仮のもの。本当の身体は病院でバランスのいい栄養を、点滴されているはず!
案内人を信じるなら、これで正しいはずだ。そして圭太を見つけられたのだから、次は、感謝されると現れるという水晶を集めるべきだろう。
杏子と圭太の二人分で二百枚。
気の遠くなるような数だけれど、東京の郊外の町だって何万人もの人が暮らしているのだから、決して無茶な数ではないはずだ。
パンがゆもどきが煮える匂いにつられて、圭太が焚き火に寄ってきた。当然のように一つしかない椀を取って、杏子につきだす。
夫を含めた他の人にされたらムッとする態度だけれど、相手が息子だと、少しも腹が立たない。
自分の子供に食べさせたいというのは、本能だ。少なくとも杏子には、その本能があるらしい。息子の体重が百キロを超えても、食べないと心配になる。まして今は、棒のように細い手足をして小学生の声で喋っているのだ。
お椀にたっぷりとよそったパンがゆを、圭太はいつものようにものも言わずに食べた。食器を投げださないのだから、そう不味くもないのだろう。もしかすると、単に空腹なだけかもしれないけれど。
圭太が充分に食べたところで、杏子は優しく切りだした。
「もう夕方だし、今日はここで休みましょ。それで、明日は……」
「明日かー。明日には迎えが来るかなー? 昨日から待ってんのに……」
心細いのを隠すかのように顎をつきだす。
杏子はうんうんとうなずいた。このうなずきには意味はない。夫や息子の馬鹿げた言葉を聞き流すときの、癖みたいなものだ。
「そうね。でも、こっちも動かない? いつまでもここで暮らすなんて……」
断定口調ではなく、困ってるみたいな言いかたにする。
「うーん……明日まで待っても、迎えが来ないなら……いや、待てよ。光の希望に対して闇の勢力が脅威を感じるなんて、よくあることじゃねーか。召喚の邪魔をしたんだとしたら……そのせいで、光の勇者がここに出現したことが、わからねーのかも!」
細っこくなった腕を振りあげて、圭太少女がガッツポーズを作った。
杏子は微笑んだまま、うんうんとうなずく。
「そうね、圭ちゃん。だから、明日になったら川を下ってみましょ。誰かいるかもしれないし……」
水は必ず低いほうへ流れるから、川下へ行けば人里に出られる。
そんなマメ知識を聞いたのは、高尾山へ行ったときだっただろうか。本当かどうかはわからないけれど、上流へ行くよりはいい気がする。もしダメだったら、またここへ戻るだけだ。
胸の内で考えながら、杏子はパンがゆの残りを口に入れた。
果物の甘酸っぱさと塩と肉とパン。食べられなくはないが、美味しくもない。圭太はよほどお腹を空かせていたに違いない。
「あのな、母さん!」
突然ほっそりした指が目の前につきだされ、杏子は顔をあげた。
「さっきも言っただろ? オネェ喋りはやめろよ! 超絶ムカつくんだよ!」
「ごめんごめん。気をつけるから……」
曖昧な笑みでごまかすと、圭太はぴょんぴょんと地団駄を踏む。幼児みたいで可愛らしい。
「ソレ、さっきも言ってたよな! 全然、気をつけてねーじゃん! そんなんで、人に会ったら、どー思われると思ってんだっ!」
オネェの従者を連れていると思われるだけではないだろうか。
思ったけれど口にだすのは控えた。オネェと思われても杏子はなんとも思わない。実際、中年女性の心が男性の身体に入っているのだから、オネェで正しいのだ。だが思春期の男の子は、この感覚を理解できないだろう。
だから別の返事をした。
「こめんね、圭ちゃん。だって、ママ、自分の顔が見えないんだもの。圭ちゃんも一緒にいるから、つい、いつもの感じになっちゃって……」
こちらも本当の気持ちには、違いない。
逞しい腕や脚や胸板に違和感があったのは、初めだけ。一時間もしないうちに慣れてしまった。
身体のどこかが痛むとか疲れるとかするのはいちいち気になるけれど、痛まないとか疲れないほうは気にならない。はっきり言えば忘れてしまう。確かに声は低いけれど、それも耳慣れてしまった。
圭太が女の子になっているのも、十年前を思えば大した問題はない。七歳なんて男も女も大差なかった。棒のように細い手足、平らな胸、泥だらけの顔。小学生の圭太そのものである。
そして杏子にとって、十年前はほんのこの間だ。
圭太が怒鳴る。
「てめーの顔、見ろよ! そんで、その顔見ながら喋ってみろよ!」
杏子はへらりと笑う。圭太とまともに会話できているのが、嬉しい。
「どうやって?」
「鏡見ろっつってんの! あのバカデカいリュックに、鏡くらいあるだろ?」
「なかったわよ? 圭ちゃんも見たでしょ?」
「やめろって言ってんだろぉぉぉぉぉっ!」
圭太少女が絶叫する。
どれほど叫んでも、甲高い声には、変声期後の男の声のような迫力はつかない。
杏子はえへへと頭をかく。
息が切れるまで叫んだ圭太が、湯気を出しそうな顔で舌打ちした。
「鏡くれーねーのかよ! ……ったく。クソが……洗面所みてーなヤツでもあれば……」
突然圭太がぽかんと口を開けた。色違いの眼がこぼれそうに丸くなる。
微動だにせず杏子の背後を凝視する息子の視線を追って、杏子はぐるりと首を回す。
鏡があった。
空中、地面から一メートル半ほどの高さに、四角い鏡が、ぽんと浮いている。
夕日に染まった石ころだらけの河原を背景に。
ものすごく不自然に。
奇妙なことに、その鏡には見覚えがあった。懐かしい感じまでする。
「え? ……あれ、なんか、ウチの洗面所にあったヤツじゃね? なんで、こんなとこに……?」
近づいてよく見ると、なるほどそっくりだ。洗面所の鏡は戸棚の扉にもなっていて、中には洗面道具や夫の髭剃りなんかが置いてあった。毎朝毎晩家族皆が使うから、汚れていて左端には傷もある。
その傷まで同じだ。
「これ……うちの鏡だわ」
覚えているよりだいぶ低い位置に浮いている鏡を、屈んで覗きこんでぎょっとする。
見知らぬ男がいた。
年のころは三十代半ば。くすんだ茶色の癖毛は短く切ってあり、丸くて黒っぽい目をしている。間延びした顔は、人の良さそうな間抜け面だ。
「あらやだ、これって……」
口を開くと、鏡の男も口を開いた。顎に手をやれば同じポーズをとる。結論は一つなのに、信じられない。
とても自分の顔とは思えなかった。
「だから言っただろ? キショク悪ィって!」
端っこに圭太少女の顔が入ってきた。さっきから見ている眼の色が左右反転して映っている。
圭太は鏡の左端を引っ張った。強く引いても揺すっても動かない。戸棚も現れない。
「ちぇっ。鏡だけかー」
幾分落胆した声に、杏子ははっとする。
「もしかして、圭ちゃんなの? この鏡も圭ちゃんが出したの?」
「オレの特殊能力が、ようやく発動したようだな」
ふふんと鼻先で笑い、圭太は背伸びして鏡を覗きこむ。
「超絶〈美貌〉の美少女の顔は、どうなって……ええーっ? なんだよ、コレ!〈美貌〉を選んだのに、詐欺じゃんか!」
ほっとして、杏子は笑った。
「なあんだ。髪の色や目の色が二色になってるの、圭ちゃんもやっぱり変だと思うのね」
「ちげーよっ! それは、超美少女っぽいじゃんか! オレが言ってんのは、なんつーか……この汚ねーカンジっつーか、髪とか、もっとさらっさらのつやっつやじゃなきゃ、おかしーじゃんってことだよ! だって、そーだろ? 美少女なんだぜ!」
唾を飛ばして力説する様子は、全然美少女っぽくない。
杏子は頭を傾けた。
「汚れは、顔を洗えば落ちるでしょ。髪は梳かせばさらさらになるわよ?」
滅多に部屋から出てこなかった圭太が、い顔を洗っていたのか髪を梳かしていたのかは知らない。いつも薄汚れて髪ももつれていたから、もしかするとなにもしていなかったのかもしれなかった。
それでも子供のころは身だしなみを整えさせていたし、口うるさく言ってさせていたのだから、行為を知らないはずはない。
圭太は口をへの字にした。
「はぁ? 今、オレ、美少女なんですけど? なんで、そんな平凡なヤツみたいなことしなきゃならねーんだよ?」
──いやいやいや、するでしょ? 美少女でも、平凡な人でも、顔を洗ったり髪を梳かすのは、人として当然でしょ?
反射的に浮かんだ言葉が口から洩れる前に飲みこんだ。
見てくれは少女でも、心は思春期の男の子だ。脳は今も男性ホルモンに浸かっている。
「えっと……圭ちゃん。美少女はウンチもオシッコもしないの……かな……」
「オレはそんなアホじゃねーよ!」
圭太少女はきゃんきゃんと吠えた。
「昨日からこのカッコなんだぜ? 人間なんだから、出すモンは出すっつーの!」
わけがわからなくなってきて、杏子は本気で頭が傾く。
「それじゃ……顔を洗って、髪も……」
「なんでだよっ!」
きんきん声に遮られる。
「そんなことしなくちゃなんねーのは、ブスとかフツーのオンナだけだろっ! だって」
女優やアイドルの名をいくつかだす。
「みんな、ブログやツイッターで、ちゃんと自分で書いてたぞ。『なにもしてません』ってよ。美人とか美少女ってのは、そーゆーモンじゃんか! オレは〈美貌〉を選んだんだから、なにもしなくていいはずじゃんか!」
「……えーと……」
杏子は頭を抱えた。
美人女優やアイドルが『なにもしていない』と言うのは、『特別なことは、なにもしていない』という意味だ。整形手術をしていないとか、ボトックスを打っていないとか。
普通のことはちゃんとしている。丁寧なクレンジングと洗顔、化粧水に乳液に保湿クリーム、マッサージ、日焼け止め。それは全部、女性にとっての普通だ。
──男の子ってみんな、こんなふうに考えるのかしら? それとも……
圭太が特別かもしれない。なにしろ中学に入ってすぐに、家に閉じこもってしまったのだから。
それにしても、常識がなさすぎではないだろうか。
男の子のことはよくわからないから、夫に頼んでいた。夫はいつも、男ってのはなんでも自分で勝手に覚えるものだから心配ないと言っていたのに。
──全然、勝手に覚えてないじゃない!
ここにはいない夫の手抜きに腹を立てつつ、圭太のプライドに気をつけて、『なにもしていない』の意味を説明する。
案の定、圭太は怒りだした。
「なんなんだよ、それ! 言葉の使いかた、おかしーじゃねーか。くそっ! 〈美貌〉になったら、メンド臭ぇこと、全部やらねーでいいんじゃねーのかよ!」
いやいやいや。
どんな美女も美男子も、人間だから。防塵加工とかされてないし、垢もでるから。
もしかして、顔の綺麗な人は人間じゃないって思ってた?
口から溢れそうになる言葉を、杏子はぐっと呑みこむ。
五十歳にもなれば、口にしたら面倒なことが起こる言葉には、勘が働くようになっている。今のを言ったら絶対に圭太はへそを曲げるだろう。
「もう陽が暮れるし、明日になったら、川で顔を洗いましょ。髪だって、ママがちゃんとしてあげる。ほら、鏡は圭ちゃんが出したのがあるでしょ? これ、本当にすごいわね! ママ、びっくりしちゃった!」
大袈裟に感嘆して杏子は鏡を拳で叩いた、と思った瞬間、砕ける。
「きゃ……危ない! 避けて!」
飛び散ったガラスの破片は地に落ちる前に溶けるように消えた。少なくともガラスで怪我をする心配はないらしい。
「あーあ、せっかく、圭ちゃんが出してくれたのに……」
「だから、その喋りかた、やめろっつってんだろ」
ぶっきらぼうな口調だけれど、圭太は妙に嬉しそうな顔をした。
「バッカじゃねーの? 鏡くらい、いくらでも出せるっつーの」
言い終わらないうちに、同じ鏡が今度は杏子の顔の前に出現する。しかも一つではなく、楯に三つ並んでいた。
「え……えっ? これも、圭ちゃんが? 凄い!」
「だ、か、ら、こんなのコツがわかりゃ、朝メシ前だっつーの」
偉そうな物言いだけど、圭太少女の眉がピクピクしている。機嫌は悪くなさそうだ。
ほっとして、杏子は改めて自分の姿を眺めた。楯に三つ並んだ洗面所の鏡は、ちょっとした姿見になっている。
さっきも見た間延びした男の顔につながるのは、筋骨隆々でがっしりした身体だ。その身体が普段の杏子と同じ立ち方をしていた。右足をちょっと後ろに引き、内股で、肩をすぼめ、胸の前で両手をぎゅっと握る。
「……うーん。これは、ちょっと……かも」
「な! そー思うだろ? ずっと見せられてるオレのことも考えろよ」
横から割りこんできた圭太の顔は、杏子の胸より低い。
「そうねぇ。人に会ったら変に思われるかも……わかったわ、じゃなかった、わかった。気をつける」
無理な男言葉にしなくても、きちんとした大人の話し方なら、できる。おばさんぽくなければ、それでいいだろう。
「とにかく、明日、人を探しま……探そう」
言ってみると、圭太は満足そうにうなずいた。
「ま、オレも特殊能力が開花したしな!」
それから横を向いて独りごちる。
「しかしコレ、バトルんときは、どーすんだろ?」
聞こえたけれど、意味がわからない杏子は、いつものように聞こえなかったふりをした。




