五 異世界着
草原を渡る風のような薫りがする。
東京郊外に生まれ育った杏子はもちろん、風が渡るほどの草原なんて、テレビ以外で見たことはない。だけどそんな連想をするくらい、吸い込んだ空気は爽やかだった。肺が綺麗になりそうだ。
目を開く。
本当に草原があって、ちょっと驚いた。
テレビでも見たことのない広い草野原が、どこまでもうねっている。
太陽は高く、雲ひとつない青空。
さらさらと草の鳴る音。
──ここは、どこっ?
パニックを起こしつつ、後ろを見ようとして、足がもつれた。尻から転ぶ。
「きゃあっ! ……え?」
自分であげた悲鳴に面食らう。
五十年慣れ親しんできた声じゃない。若いころとも全然違う声は、咳こみそうなほど低い。
草の上に尻餅をついたまま、杏子は自分を見おろした。
革のベストとゆったりしたズボンを着ている。不揃いな木のボタンは手作りだろうか。短めのブーツも含めて、おとぎ話の狩人みたいな感じの服装になっている。
だけど問題はそこじゃない。
ファンタジー映画で見たような剣が腰に吊るしてあるのだって、たいした問題じゃない。
ではなにが問題なのかというと。
それをつけている自分の身体が、逞しすぎるということだ。
おそるおそる杏子は胸に手をあてる。
視界に入った手は自分の手のはずなのに、ひどく巨大でゴツゴツしていた。奇妙なその手はちゃんと感触を伝えてくる。
ごりごりと硬い筋肉の感触。
子育てを終えた中年女の胸じゃない。
ぎょっとしたとたん、胸の筋肉がぐっと盛り上がった。ハリウッド映画のアクションヒーロー並に、服の上からでも筋肉が動くのがわかる。
──うそ……なにこれ……わたし、男なの?
パラメータールームの性別のルーレットを思いだす。あれには男女のほかに〈両性〉とか〈無性〉とかもあった。急いで身体を確かめて、普通の〈男〉であることを確認する。
──と、とにかく、落ちつかなくちゃ……
爽やかな草原の空気を胸一杯に吸い込み、ゆっくりと吐きだす。何回か繰り返すと、気持ちは静まってきた。
──まぁ、しょうがないわよね。《性別》は選ばなかったんだし、ルーレットだと、男女の確率は半々だったんだから、こういうこともあるわよ。
そこでふと気がつく。
男のほうが圭太を探しやすいかもしれない。
女の一人旅は危険なことが多い。ルーレットに任せれば、年齢は十六歳から三十五歳。そんな若い女なら、地味でもブスでも危険だ。
それを考えると、男の肉体になったことを喜ぶべきかもしれない。
この筋骨隆々の身体は、少なくとも五十歳主婦の身体より強そうだ。もしかすると、壁に穴を開けた圭太よりも。
──余計な心配なしに、圭太を探せるわね。
その圭太もきっと本人とは違う仮の肉体に入っているはず。それでも慎重に観察すれば、必ずわかる。だてに十七年間一緒に暮らしてきたわけじゃない。
あとは、この世界のどこかに圭太がいることを願うだけだ。
──とにかく、圭太を探さなくちゃ!
よいしょと声を出しかけて、再びはっとする。
声が出る前に立ちあがってしまった。
この仮の肉体は、お尻をぺったりと地面につけた体勢から、一動作で立ちあがれるのだ。よろりともせず。関節ってこんなに滑らかに動くものだったのかと、感動してしまうくらいに滑らかに。
そういえば、昔はこうだった。
信号が点滅したら走るし、ガードレールだって一またぎ。十センチヒールでスキップだってできた。それが当たり前で、いちいち考えたり喜んだりしなかった。
杏子は自分の男性の身体を曲げたり伸ばしたりしてみる。両足や片足でぴょんぴょん跳ねてみる。
信じられないくらい軽い。
踏み台に乗ったみたいに地面が遠いから、本来の身体よりかなり背が高いのだろう。肩幅も広くてがっちりしていて、体重もずっと重そうだ。なのに身体はすごく軽い。生まれてこのかた、こんなに軽いと感じたことはない。これが男性の筋肉の力なんだろうか。〈頑丈〉な身体だとしても。
その軽い身体の奥からは活力が湧きあがってきた。
活力なんて、何十年ぶりに使う言葉だ。身体には小さな不調があるのが常で、こんな気分はすっかり忘れていた。全身のだるさや重苦しさはなくなり、気力がみなぎる。
ついで首を傾げた。
なにか奇妙な感じがする。
空も、草原も、あまりにもくっきりしすぎている気がする。東京みたいな排気ガスがないせいだろうか。
少し考えて、杏子は手を打った。
大きく広がる青空のどこにも、ふよふよした影や点々がないのだ。この身体は、十年以上つきあってきた飛蚊症にも無縁らしい。
そればかりか老眼も治っていた。遠くも近くも自在に見える。こんなに良く見えたことは、若いころでもない。
──やっぱり、健康が一番。大正解じゃないの!
満足して、首を巡らすと、大木が目に入る。
正面は草原だったけれど、背後は森になっていたらしい。おとぎ話に出てきそうな立派な森。どうやら杏子は森と草原の境に出てきたようだ。
──さて……圭太は、どこ?
別々の世界にいる可能性は、考えても仕方がないから、考えない。幸運にも、同じ世界にいるはずだ。そのために〈多幸運〉を選んで、使ったのだから。
──残りの〈多幸運〉は、どうなっているのかしら?
ふと思いついて、ポケットをさぐる。
世界のおとぎ話的な服にポケットはついていなかったけれど、かわりにベルトに巾着袋が二つ留めてあった。触れるとちゃらちゃら音がする。
見憶えのあるグレーの巾着袋には〈多幸運〉のおはじきが入っていた。さっき投げた分は減っている。
もう一つの茶色の袋にはコイン。見慣れた硬貨ではないけれど、この世界のものだろう。
ベルトについているのは巾着袋だけではない。左側には西洋の剣が下がっている。服と同じくおとぎ話的な素朴なもの。
そして背には大きなリュックを背負っていた。
──こんな荷物に気づかないって……わたしってば……
独りで笑いつつも、原因に心当たりはある。
一つには、杏子本来の身体は、いつも肩が重かったから。慢性的な肩こりは、主観的にはこのリュックより重い。
もう一つは、今の身体にはこの大きなリュックの重さがまったく負担になってないから。こんな荷物を背負っていてすら、身体が軽いと思ったのだから、この身体の強さは驚くべきものだ。
──さすが〈頑健〉!
おなかの底から笑いがこみあげてくる。なんでもうまくいきそうな気分。
盛りあがった気分のまま、杏子は〈多幸運〉のおはじきを一つ、取りだした。無骨で巨大な手は、杏子本来の手より器用に繊細に動き、巾着袋の口を絞る。
「幸運を!」
野太い声で叫びながら、おはじきを真上に投げあげ、右の爪先でくるりと回る。
一回転のつもりが勢いあまって何回転かしてしまった。
くるくる回っても、めまいは起きない。健康万歳とこぶしを突き上げたところで、止まる。
顔が向いていたのは、森へ斜めに入っていく方向。
──こっちが、百万円相当の幸運ってこと……よね。
本当かどうかはわからないけれど、杏子はそう決めた。
圭太の捜索は、誰かに尋ねるところから始まるだろう。
草原は気持ち良いけれど人影は見当たらない。
森の中へ入るのは、理屈にあっている。
大きくうなずいて、杏子はまっすぐ踏みだした。




