四 選択肢
「では左端、《容貌》からご説明します。これは顔の美醜の度合いです。仮の肉体は、本来の姿とはまったく別の形に作られます。確率ルーレットでは平凡な容貌が八割に設定されています。最高と最悪の容貌は一パーセント。その間は三段階に浮かれ、それぞれ二パーセント、三パーセント、四パーセントの確率です。このパラメーターを選ぶと、確率とは無関係に好みの容貌レベルの肉体を作れます」
大きな手が優雅な動きでルーレット下の四角い机を示す。
机には十センチほどの縦長のガラス板が並んでいた。左から順に〈美貌〉〈かなり美しい〉〈そこそこ美しい〉〈少し良い〉〈平凡〉〈少し悪い〉〈そこそこ醜い〉〈かなり醜い〉〈醜悪〉と彫られている。
「醜いほうを選ぶ人なんて、いる?」
独り言のつもりだったけれど、落ちついた声が返ってきた。
「極端なパラメーターを持つ肉体は、極端なイメージを持たれるため、平凡な容貌が良いと考える方がいます。また、醜い人物が心優しい行いをすると感謝されやすいという考えの方もいます」
杏子は大いに納得した。
凄い美人になってみたいとは思うけれど、それは自分が楽しいだけだ。仮の肉体を使う目的はあくまでも『心から感謝』されることにある。それに都合がいい肉体にするべきなのだ。
そこでふと疑問がわいた。
「美しいとか醜いとかって、どういう基準なの? 〈美貌〉と〈かなり美しい〉なんて、人によって違うでしょう?」
案内人の返事はよどみない。
「仮の肉体を使う方の評価が基準となります。御自身が美しいと思う容貌です」
とすると、杏子の場合は短大からの友人の佳代子に似た顔だろうか。
友人とは少し違うかもしれない。杏子は佳代子のとりまきグループの一人だった。バブル華やかなころはもうOLになっていたけれど、グループは続いていて、美人の佳代子に群がる男達から、杏子も一緒にちやほやされたものだ。高身長でイケメンの外科医をゲットした佳代子にあやかって、長女に華世と名づけたくらい、佳代子は美人なのである。
──佳代子さんの顔……一度くらいなってみたいけど……
ちょっぴり未練を感じつつも、杏子は次のパラメーターへ移ることにした。《容貌》は圭太と同じ世界へ行く助けにならない。
「こちらは《種族》です。仮の肉体が形成される世界は、水原杏子様がお住まいの世界とは違い、さまざまな亜人種がおります。人でないものが有利に働く場合も、不利になる場合もあるでしょう」
壁のルーレットはほとんどが〈人〉となっており、それ以外は針のように細くて文字が読めない。机へ目を落とすと、〈人〉〈獣人〉〈流体〉〈人工生命体〉〈神人〉〈魔人〉のガラス板があった。人以外はどんなものだか想像もつかない。利点も欠点もわからない。実をいえば興味もなかった。
──これも。関係なし……
あっさり決めて、隣へ移動する。
次は《性別》のルーレットだ。〈男〉〈女〉がそれぞれ四十五パーセント、〈両性〉〈無性〉が五パーセントずつになっている。机にはそれぞれのガラス板。
「え? わたし、男にもなれるの?」
案内人は流れるように説明した。
「仮の肉体は、どのような形にも形成できます」
「そうか……女性は、月に一度面倒事があるし……」
若いころ杏子は生理が重いほうではなかったけれど、寝込むほどひどい子もいた。いつも自由に動ける男のほうがいいかもしれない。
そう思ったとき、案内人が首を振るのが見えた。
「仮の肉体に生殖機能はありません。性交は可能ですが、妊娠をすることもさせることもできません。あくまでも『仮の』ものなのです」
「え? じゃあ、その……月のものも?」
「はい。ありません」
──それなら、性別はどうでもいいわ……
女の肉体なら、醜男と寝てあげたら感謝してもらえるかもしれないが、『心からの感謝』かというと微妙だ。だいたい、五十歳のおばさんだって絶対にエッチしたくない相手はいる。
杏子はその隣へ移動した。
次は《健康》のルーレット。机には〈頑健〉〈健康〉〈普通〉〈ひ弱〉〈病弱〉のガラス板がある。ルーレット上では〈普通〉が六割、その両側が二割弱で、〈頑健〉と〈病弱〉は針のように細い。
「健康であるほど、肉体的バランスが整います」
案内人の説明を耳に留めながら、杏子はちょっと考える。
《健康》は魅力的な言葉だ。
数年前から始まった身体の不調。顔から胸あたりまで急にものすごく暑くなったり、かと思うと腰から下が氷みたいに冷たくなったり。ちょっとしたときに腰やひざが突然痛んだり、力が入らなくなったり。目がかすんで細かいモノは見えないし、だるくて動けなくなることもある。突然泣きたくなったりなんてこともあった。
更年期。
医者や夫はその一言で片づけて、この苦しみをわかろうともしない。もちろん、わかろうとしてくれても苦痛が消えるわけじゃないけれど、思いやるくらい、いいではないか。
そんなしんどさを抱える杏子には、《健康》はひどく身にしみる言葉である。
「健康っていうのは、視力とかも?」
訊いてみると、案内人はうなずいた。
「肉体すべてです。ただし、〈ひ弱〉や〈病弱〉で視力が弱い場合、眼鏡が一つ付属品としてつきます。使用するかしないかは、水原杏子様の自由です」
うなずきを返して、杏子は次に進む。心そそられるけれど、《健康》では圭太と同じ世界に行けない。今はそちらのほうが重要だ。
《幸運》のルーレットは、非常に極端な配分になっていた。幅のほとんどない線が四本描かれている以外は、全部〈並〉である。
机を見るとガラス板ではなく灰色の巾着袋が四つ置いてあった。それぞれ〈超幸運〉〈多幸運〉〈多不運〉〈超不運〉とタグがついている。
「これはなんでしょう? どういう意味?」
案内人は左端の巾着袋に触れた。握りこぶしくらいのなにかが入っているようだ。
「《幸運》のパラメーターは、ほかのものとは少し違います。たとえば〈超幸運〉を使うと、一度だけとてつもない幸運を手にできます。そうですね、宝くじで一兆円に当選する程度の幸運です」
一兆円の宝くじなんて聞いたことがない。想像がつかなくて杏子は首を傾げた。
案内人が手元の機器をちょんちょんと操作する。
「えー、実際に使用された例では、ある国の王になった人物がいました。その世界の中堅どころの国で、その人物は元の身体に戻らず、死ぬまで王として暮らしたそうです。また別の例では、使用して次の角を曲がったところで、感謝の水晶が百枚入っている袋を見つけました。『差し上げます』という張り紙がついており、見つけた人物はすぐさま元の身体に戻り、奇跡の回復となったようです」
「え? 感謝の水晶って、他人からの感謝でしかもらえないんじゃ……?」
思わず杏子は声をあげた。案内人は厳つい顔をほころばせる。
「その通りです。しかし水原杏子様がおいでになる世界には、ほかにも仮の肉体で訪れている人々がいます。その人々も感謝の水晶を集めておりますから」
それなら窃盗や強奪はどうなるのだろう。杏子のような小柄なおばさんを殴って水晶を奪うなんて簡単だ。
頭をちらりとよぎった疑問にも、案内人は答える。
「盗んだり奪ったりした感謝の水晶は、本来の持ち主の手元に戻ります。心から差しあげようとする感謝の水晶のみ、持ち主が変更されます。従って『差し上げます』と張り紙がついた感謝の水晶は、それを最初に手にとった人のものとなるのです」
杏子ははっとした。
この〈超幸運〉を使えば、圭太に会えるのではないだろうか。
案内人が首を振る。
「幸運の内容は選べません。たとえば、崖から転落している最中に〈超幸運〉を使っても、助かる場合とそうでない場合があるのです。ポケットに入った宝くじが一兆円当たり、本人は墜落死する場合も、もちろんあります。仮の肉体が死亡した場合、強制的に元の身体に帰還し、そのとき所持している感謝の水晶の数で、生死及び後遺症などの確率が決定されます」
そうか。選べないのか。
杏子はがっかりする。
「あそこで寝たきりになっているわたしが、一兆円当たってもねえ……」
背後のスクリーンへ曖昧に手を振ると、案内人が大きく首を振る。
「それはありません。ここのパラメータールームは、あくまでも仮の肉体を作るためのものです。パラメーターの適用は、厳密に仮の肉体に限られます」
それならますますどうしようもない。大金があれば、娘や夫の負担を減らせるけれど、そうはいかないということだ。
案内人は〈超幸運〉の袋を戻し、隣の巾着袋を取る。ちゃらちゃらと軽い音がした。細かいものがたくさん入っているらしい。
「〈多幸運〉は、小さな幸運を数多く得られます。宝くじの例えで申せば、百万円の当選が百回分です。この中の石を『幸運を』と唱えつつ投げると、なんらかの幸運が発生します」
百万円が百回。
杏子は指を折って計算してみた。
「全部一度に使っても一億……さっきよりだいぶ少ないのね」
「はい。ですが一度に使った場合、同じ幸運は起こりません。同レベルの小さな幸運がいくつも起こることになります」
杏子が首を傾げると、案内人は言葉をたす。
「一枚の宝くじを持ち、十個の〈多幸運〉を使っても、一千万円は当たりません。百万円相当の十種類の幸運が発生します」
「二百万円も……?」
「当たりません」
案内人はきっぱりと断言する。
「必ず、別々の小さな幸運が訪れます。さらに、他人に渡して使わせても、幸運は持ち主の身に起こります」
〈超幸運〉と〈多幸運〉の違いはなんとなくわかった。結局、幸運の内容を選ぶことはできない。圭太と会う助けにはならなそうだ。
杏子は〈多不運〉と〈超不運〉の説明を断って、次のパラメーターに進む。
壁には《特殊能力》とあり、またしてもルーレットの配分は偏っている。ほぼすべてが〈ナシ〉で、針程度の線が十本ほどあるだけだ。線にはなにか書かれているようだけど、老眼が進んできた杏子には一つも読み取れない。
けれどここのシステムに慣れてきた杏子は下の机に目を落とした。
そこには別のルーレットがあった。手のひらに載るくらいの大きさの円盤は、上面にガラスがはまっている。中のルーレットは十分割されていてそれぞれ〈火〉〈水〉〈風〉〈雷〉〈石〉〈光〉〈闇〉〈読〉〈飛〉〈鏡〉とある。中心だけはガラス板からつきだしたボタンがあって〈押〉と書かれていた。
「……なに……これ?」
困惑する杏子に、案内人は平静に答えてくれるる。
「仮の肉体に持たせる、特別な能力です。ある世界では、魔法、別な世界では超能力などと呼ばれます。このパラメーターを選んだ場合、どの能力かは選べませんが、必ず一つの特別な力を得られます」
「えっと……この〈火〉とか〈水〉とかの特別な能力って、具体的にはどんなことができるの?」
もしかすると、圭太と会える能力があるかもしれない。
「そこに書かれている文字に関連する能力です。個人の性質と訪れる世界によって、能力発現の形は異なります。御自身で使いかたを発見し、学習してください。難しいものではありません」
杏子は机のルーレットの文字を眺めた。〈火〉というのは、怪獣のように口から吹くのだろうか。火傷しそうだ。〈風〉や〈雷〉くらいなら見当がつきそうだけれど、〈光〉〈闇〉〈読〉などはなにをどうすればいいのかさっぱりわからない。
──〈飛〉は空を飛ぶのよね? 飛べたら圭太を探せるかしら……?
しかし〈飛〉に当たる確率は十分の一である。それに賭ける価値はあるだろうか。
案内人は説明を続けている。
「ただし、特殊能力の強弱は、使う御本人の意志力・集中力・想像力に連動します。まれに、御自身で制御できなくなる場合もありますので、ご注意ください」
ちょっと難しそうだ。自分に使いこなせるだろうか。
──全部見たあとで、考えよう……
杏子は最後の机の前へと動く。
壁には《年齢》とあり、ルーレットは均等に分割されていた。それぞれの扇型には〈十六〉から〈三十五〉までの数字が入っている。
下の机には〈五歳〉から〈六十五歳〉までのガラス板がずらりと並んでいた。
「ここは、仮の肉体の年齢パラメーターです。ルーレットに任せるなら十六歳から三十五歳のどこかになり、御自身で選ぶのなら自由に決定できます。赤ん坊や老人をお望みでしたら、仰ってください。作成いたします」
十六歳から三十五歳なら、どの年齢でも対処できる。すでに通って来た道だし、どの年齢だって更年期の五十歳よりいい。
杏子はぎゅっと唇を引き結んだ。
「これだけ、なの?」
口調が非難がましくなる。
「はい。この七つのパラメーターから、水原杏子様が、最も目的に適うと思われるものを、二つ、お選びください」
案内人は慣れているのだろうか。杏子の非難に動じない。杏子はつい声を尖らせる。
「二つ? おかしいじゃない。こういうのって、三つの願いが定番でしょう?」
二つだろうが三つだろうが、本当はどうでもいい。圭太と同じ世界へ確実に行けるパラメーターが欲しいのだ。それがあるなら、選べるのが一つだって構わない。
案内人の厳つい顔が笑みを作る。
「定番は存じ上げませんが、ここでは二つと定められています」
声は優しいが、譲るつまりはなさそうだ。権限を持っていないのかもしれない。
「二つともいらないから、圭太と同じ世界にしてほしいんだけど……」
昔とった杵柄で、杏子は上目づかいで頼んでみた。
二十歳の女の子ならともかく、五十のおばさんでは気味が悪いことはわかっている。だけど杏子は必死だ。精一杯の媚をこめて微笑み、目をぱちぱちさせる。
案内人は、気色悪そうな顔も嬉しそうな顔もしなかった。穏やかな表情のまま、返事をしない。この無言が頼みをきけないという意味だとわかる程度には、杏子も長く生きている。
──圭太は、なにを選ぶかしら……?
ふと浮かんだ考えにも案内人は律義に答えた。
「お教えすることは禁じられています。ですが、水原圭太様は、もうパラメータールームを出られました」
「え? 圭太が、この部屋を出たの?」
意味がわからずに鸚鵡返しする。
「はい。水原圭太様のパラメータールームは、数時間前に閉鎖されました」
案内人の言葉が胸に落ちるまでに、たっぷり三十秒はかかった。
同じ胸の奥から、強烈な焦りが噴きあがる。
「どっ、どこの世界へ行ったの!?」
つかみかかっても、案内人のフランケン顔は穏やかさを保つ。
「お教えすることは禁じられております」
半ば予想していた返事は聞き流して、杏子は必死で考える。受験、いやフリースクールを調べたときよりも懸命に、全身全霊で。
──特殊能力を選んでも〈飛〉が出るのは十分の一。だけど可能性はゼロじゃない。特殊能力なんて難しそうなもの、うまく使えるか自信はないけど、思い切ってやってみるべき……? いやいやちょっと待って。もし圭太と別な世界に行っちゃったら、飛べたって会えないんじゃないの? 仮の肉体は、その世界用だって言っていたし……圭太と同じ世界に行く確率は、三分の一だったっけ……その確率を上げる方法は、ない? なにか、なにか……
この五十年間で、こんなに頭を使ったことはない。脳味噌を雑巾みたいに絞る。潜在能力とかいうものがもしあるのなら、今、出てきてほしい。
案内人の声が蘇る。
『水原杏子様が、中央の銀のテーブルに、選択可能パラメーターをのせ、決定した瞬間に……』
『パラメーターの適用は、厳密に、仮の肉体に限られます』
ふいに、方法が一つ、浮かんできた。
杏子はこっそりと唾を呑んだ。
もしかすると駄目かもしれない。やり直しだと言われるかもしれない。
賭けるべきか。
──ダメだって言われたら、ごめんなさいっていえばいいわよ……
こう開き直れるのは、五十年の人生の賜物。
若いころは、杏子だっていろいろなことにびくついた。間違えることが恥ずかしくて、怖かった。
今は恥なんかなんでもない。子供のためなら、どんなことでも恥ずかしくなんかない。
──母は強し、って言うじゃない!
自分を励まし、何気ない顔を作って、選択可能パラメーターの前をゆっくり歩く。
まずは《健康》の前で立ち止まった。少し悩んだ末に〈頑健〉のガラス板を取る。《健康》の中で一番上のものだ。
「健康は大事だものね」
つぶやいて、ちらりと案内人を窺う。
フランケン顔の大柄な案内人は、杏子の邪魔にならない位置に、静かに立っている。表情からはなにを考えているのかわからない。
横目で盗み見つつ、目的の机へとさりげなく歩み寄る。悪いことをしているわけでもないのに、顔が火照ってきた。
《幸運》のパラメーター。
「どうしよう……これにしようかしら……」
ちょっとわざとらしいかなと危惧しつつ、つぶやく。
「かみさまのいうとおり……じゃ、これ」
指さしながら数えて、目的のものを手に取る。
〈多幸運〉の巾着袋。
自分の身体に隠すようにして、巾着袋の口を緩めると、おはじきに似た白い石がじゃらじゃらと入っているのが見えた。
──さあ、ここからよ。一瞬の勝負だから!
自分に言いきかせ、中央へ向かう。
十五センチばかり高くなった丸い壇に杏子があがっても、案内人は制止しなかった。
銀色の丸テーブルを前にして、深呼吸する。肺の中を空気で一杯にして、巾着袋の口に右手を差しこんだままテーブルに置き、左手で〈頑健〉のガラス板を添える。
そのとたん、パラメータールームのほとんどのルーレットがすごい勢いで回り始めた。《健康》と《幸運》のルーレットだけは不自然に狭い位置へじわじわ動く。
その動きを杏子は一つも見ていなかった。
かわりに右手で巾着袋のおはじきをつかみ出し、力いっぱい投げつける。むろん、《世界》のパラメーターがある壁へ。
同時に叫ぶ。
「幸運を!」
投げたおはじきが細かく砕けた。ガラスの欠片そっくりな破片は空中に溶けるように消えていく。
思いついた方法は、これだけだった。
中央のテーブルに載せることで決定となるのなら、この場で使っても有効なのではないだろうか。〈多幸運〉の内容が重ならないなら、一つくらい《世界》に作用するかもしれない。圭太と同じ世界に針が止まる確率は三分の一。宝くじで百万円が当たる確率の正確なところを知らないけれど、三分の一よりずっと低いのは確かだ。〈多幸運〉のおはじきが一つでも《世界》に作用してくれたら、きっと圭太と同じ世界に行ける。
唯一の心配は、この方法が無効だと言われること。
緊張で吐きそうになったとき、落ちついたつぶやきが聞こえた。
「〈多幸運〉のこのような使いかたは、初めてのケースです。この例は、案内人すべてで共有し、対処を考え……」
心なしか、感心しているようにも聞こえる声を、杏子は最後まで聞くことができなかった。
足元の壇と床が突然消失したのだ。
吸い込まれるように落下する。
「ぎゃああああああああぁっ」
三十年前の可憐な乙女には想像もできなかった、おばさんの野太い悲鳴をあげて、杏子は落ちた。
なに一つ見えない闇の中を、落ちて、落ちて、さらに落ちる。パラメータールームの白っぽい光はどんどん小さくなって、ついには消えてしまう。
驚きとショックでぐるぐるしていた頭が、平常運転を始める。
──わたし……どうなるんだろう……?
考えた瞬間、杏子はどこかに、ずぼっとはまりこんだ。




