三 現実
「思いだされましたか?」
紳士的な柔らかい声に、杏子は目だけ動かす。声に似合わないフランケン顔が斜め前から穏やかに見おろしていた。案内人だ。
「わ、わたし……」
絞りだした自分の声は恥ずかしいくらいにうわずっている。
気づいていないかのように案内人はうなずいた。
「はい、水原杏子様は、東京都内において、事故に遭われました。現在は意識不明……植物状態と呼ばれる状況です」
「植物……状態……?」
テレビかなにかで聞いた覚えがあるけれど、それがどういうものなのか詳しくは知らない。それを察したのか、慣れているのか、案内人が説明を始めた。
人間の脳は大脳と脳幹という部位に分けられるらしい。大脳は痛みなどの感覚や筋肉運動といった意識することに関わる。反対に、脳幹は無意識、血液の流れとか、食物の消化排出、呼吸、体温調節などに関わっているのだ。前者は動物性機能、後者は植物性機能と呼ばれている。
つまり、動物性機能が失われて植物性機能だけ動いている状態が『植物状態』なのだ。
「……適切な看護のもとでは、植物状態のまま十年以上生存することも可能で……」
説明を続けている案内人を杏子は遮った。
「待って。おかしいですよ。わたし意識はあるんです。植物状態とかではないです」
割りこみに苛立つ様子もなく、フランケン顔はうなずく。
「はい。水原杏子様の大脳は、生きておられます」
「それじゃあ……!」
勢いこむ杏子を制するように、案内人は左手を掲げた。
「ですが大脳の入出力、つまり意識と筋肉を動かす機能や肉体との接続が切れているのです。従って大脳の電気信号は検出されず、遠からず医師は植物状態の宣告をするでしょう」
「接続……って?」
杏子は両手を振り足を踏みならしてみる。問題なく動く。
変わらぬ穏やかさで案内人は頭を左右に揺らせた。
「その身体は、水原杏子様の大脳の信号を受けるため、一時的に存在させたものです。植物性機能のない肉体は、食べることも消化することもできませんから、長くは保ちません」
とすると、杏子の魂が身体から抜けだしているのだろうか。怪談話の生霊みたいに。
案内人は溜め息はつかなかった。だけど忍耐強い笑顔になる。
「それで御納得なされるのでしたら、魂でも生霊でも構いません」
考えただけのつもりだったのだけど、声になっていたのだろうか。それとも魂の世界では、心の中の声も聞かれてしまうのか。
どちらもありそうだと杏子が考えている間に、案内人は気を取り直したように背筋をのばして画面を示す。
「つまり、こちらが水原杏子様の本当の御身体ということは、御理解・御納得いただけましたか?」
全然理解も納得もできないけれど、杏子はうなずいた。議論は無駄。学生時代の勉強だって、わからなくてもわかったふりをしていた。大切なのは理解や納得ではない。
なにをどうすれば元に戻れるのか。大事なのはそっちだ。
とにかく説明をしてもらおう。今は何を尋ねたらいいのかもわからないのだから。
杏子が聞く態勢になったのがわかったのか、案内人は大きく咳払いした。
「では、説明させていただきます。大脳からの信号が肉体との接続を断ち切られた場合、ほとんどは大脳機能自体が失われ、死亡します。ですがごくまれに脳幹機能が残り、大脳機能が維持され、接続のみが切れた『植物状態』という現象が起きることがあります。ご存じですね?」
杏子はうなずく。テレビの実録ものノンフィクションもの、あとはドラマでも見たことがある。
案内人は続けた。
「植物状態のまま亡くなる人間もいますし、奇跡的に後遺症なく回復する人間もいます。もちろん、その中間も」
もう一度杏子はうなずく。テレビでは回復する話ばかりだったけれど、現実問題として全員がそうとは考えられない。むしろ死亡したり後遺症が残るほうが多いだろう。五十歳になればそのくらいは理解できる。テレビは視聴者が喜ぶように作られているのだ。
「それは、どのように決定されると思いますか?」
問われて、杏子はきょとんとした。
案内人が噛んで含めるように繰り返す。
「植物状態からの回復の程度、死亡から完全回復のどこになるのかは、どのようにして決定されるのでしょうか?」
そんなことわかるわけがない。杏子は神様でも医者でもない、ただの主婦なのだ。
なのに案内人は微笑んで待っている。返事をしないと進めてくれないらしい。
「え……っと……その……ぐ、偶然で……」
言葉じりが喉の奥に消える。
数十年ぶりに高校の授業を思いだしてしまう。教師に指名されるのがなにより恐怖だった。自信を持って答えたことなんかない。もちろん五十歳の今は恐怖はないけれど、答えに自信がないのは同じである。
厳つい面立ちの笑みが微妙に深くなる。
「その偶然を決定する基準、要因は?」
──偶然を、決定……?
難しいことを考えるのは、最後の試験と同時に終了した。短大を卒業して三十年。圭太の問題以外の面倒事に頭を使うことはなかった。偶然を決定する基準とか、意味がわからない。
だが小娘と違って、おばさんはわからないということを無駄に恐れたりしないのだ。
杏子は、人がよさそうだと評判の笑顔を作った。
「おばさんね、難しいことはわからないのよ。悪いんだけど、もっと簡単に、ちゃっちゃと教えてくれないかしら? なるたけ急いで生き返りたいわけだし」
画面の自分を指さす。
「家族も待っている……圭太!」
いつの間にかモニター画面が引いていて、隣のベッドまで映っていた。杏子の隣のベッドで同じようにガーゼや管におおわれているのは、間違いなく息子だ。
「ち、ちょっと、どういうこと? なんで圭太が……」
案内人は手元にちらりと目をやってから口を開く。
「水谷圭太様は、水谷杏子様と同時刻に事故に遭い、同じく植物状態となっております」
喉に綿の塊を詰め込まれた気がした。声が出ない。ただ画面の息子を見つめる。自分より圭太を見たショックのほうが何万倍も大きい。
身長一七五センチで百キロ超えの息子は、スパゲティのように絡まった管と、白いガーゼと、なんだかわからない機械や器具に埋もれて、うんと小さく見えた。
この子がいなければうちは平和で幸せなのに。などと考えたことが嘘のよう。
圭太が死ぬなんて、そんなことがあっていいはずがない。
呆然としつつ、ある事実が頭の中にじんわりと浮かんでくる。
──あのとき圭太は、わたしのすぐ後ろにいた……
杏子と圭太は一緒にはねられたのだ。圭太だけが無事なわけがない。
案内人が手の中のスマホもどきをつつく。
「水原杏子様と水原圭太様の事故の犯人は逃げましたが、早々に検挙されそうですね。居合わせた人間が撮影した映像から、車のナンバーが割りだされました。相手はかなり裕福なようです」
──居合わせた人間が撮影……
事故のとき杏子は吉沢母子の前にいた。母親の後ろでスマホをいじっていた息子が、とっさに映したに違いない。あの子には、自動車のナンバープレートを撮り警察に渡すほどの社会性があったのだ。もし反対の立場だったら、圭太にそんなことができるだろうか。
杏子は頬を叩いて不穏な考えを追い払う。
とにかくまだ生きている。なのにどうしてここに一緒にいないのか。
そう考えたとたん、案内人が答えてくれた。
「ここは、水原杏子様が使用するための、仮の肉体のパラメーターを決定する場所です。水原圭太様は水原圭太様のパラメータールームにおいでです」
──圭太を助けなくちゃ!
そのためには早くここを出て息子を探さなくてはならない。そして二人揃って無事に植物状態から回復する。それが一番大事なこと。
優先順位を決めれば胆も据わった。
おばさんの胆の太さをバカにしてはいけない。うるうると涙目で上目遣いすれば人が動いてくれたのは大昔のこと。今では号泣したって誰も助けてくれない。自分でなんとかするほかないのだ。
杏子はもう一度『お人好し』笑顔を作る。
「あのねぇ、おばさん、頭が良くないのよ。悪いんだけど、お兄さん。わたしと息子の、あの植物状態っていうのを治すにはどうしたらいいのか、わかりやすく教えて」
案内人はちょっとがっかりした顔をした。
「できれば御自身で結論に至っていただきたいのですが」
「そんな、イジワル言わないでよう」
思いきり冗談めかして手を伸ばす。親しげに肩でも叩こうとしたのだけれど、相手が大きすぎて届かない。かわりに肘をぽんぽんと叩いた。
「美人さんならともかく、おばさんと長話したって、楽しくもなんともないでしょ?」
のんびりクイズなんかやってる暇はない。それが本音だけれど、杏子みたいなおばさんにそれを言われたら不機嫌になるのが男の常だ。バカみたいだと思っても面子を立ててあげるのが、結局早い。
うまくいったようだ。
フランケン顔の案内人は諦めたように息を吐く。
「植物状態となり、大脳からの信号が肉体ではなくこちらに接続されるようになった場合、その人間が回復できるか否かは、他者の感謝を得ることで決まります」
「……誰かに感謝されればいいってこと?」
困惑して眉を寄せると、案内人は大きくうなずいた。
「現在以降に会う他者の、心からの感謝に限られます。そのため、水谷杏子様は、まったく違う外見の仮の肉体で、まったく違う世界へ送られることになります。ここは、その準備、説明、及び仮の肉体のパラメーターを決定する場所なのです」
ぐるりと手をまわして三方の壁を示す。
「……仮の肉体? 違う世界って……?」
急に話が飛びすぎて杏子はついていけない。それを見て案内人は少し考えてうなずいた。
「水原杏子様は、このようなゲームを御存知ありませんか? 画面上のキャラクターを動かして怪物を倒し、世界を救う。そんなゲームです」
それくらいは知っている。遊んだことだってある。若いころ、そのたぐいのゲームの発売日の行列がニュースになっていた。
「……『ドラクエ』とか……?」
案内人は大きくうなずいた。
「それです。水原杏子様はそのようなゲームの主人公となり、『感謝の水晶』というものを集めてください。水晶の数により、蘇生状態の良し悪しの確率が決定されます」
杏子の口がだらしなく開く。
自分で言ったとおり、杏子の頭は優秀ではない。筋道立てて物事を理解するのも苦手だ。若いころからずっと、目の前のことに対処するだけで生きてきた。じっくり考えたのは結婚だけだ。
それでも今は理解しなくてはならない。しなければ自分と圭太は、無事に生き返ることができない。
だから杏子は質問した。わからなければわかるまで聞き続ける。
案内人はあり得ないくらい忍耐強かった。
夫のように「何度も言ってるだろ!」などと言わないし、娘の華世のような生返事もしない。何度でも言いかたを変えて説明してくれる。
こんな男性は初めてだ。
見当違いの質問は一つか二つまで。それ以上は不快にさせる。杏子は若いころにそれを学んだ。嫌な顔を無視して質問できるようになったのは、子育てに入ってからである。男性の顔色は、子供の安全より優先順位が低い。
それでもやはり気をつけてはいる。ヘソを曲げられると厄介だから。
案内人は、初めての『心ゆくまで尋ねることのできる男性』だった。
思うままに話を進めたり、止めたり、戻ったりしていると、なにかが溶けだしていく気がする。自分でも知らないうちに溜まっていた心の中の澱のようなもの。忘れたと思っていたストレスが流れだしていくような爽快感がある。
ようやくだいたいの状況を理解したとき、杏子はここ数十年で一番元気になっていた。
わかったのはこんなこと。
杏子と圭太は交通事故により植物状態となっている。植物状態とは、大脳からの信号が身体ではなくこの場所に繋がっている状態のことを言う。
その信号を身体へ繋ぎ直すことは可能。ただし、ある条件をクリアしなくては、決して、絶対に、どう頼んでも、後遺症がでる。
その条件とは『他者からの感謝』である。ひどく抽象的なようだが、内容は具体的だ。
これから今より性能の良い仮の肉体を作り、杏子の大脳からの信号を繋ぐ。仮の肉体は地球ではないどこかの世界にあり、それを杏子がコンピューターゲームのように動かす。その世界の住人が心から感謝してくれると、小さな水晶が出てくる。それを集めるのだ。
「後遺症のない奇跡の生還を果たすなら、半年で百個が目安です」
案内人はにこやかに教えてくれた。
「ですが、なるべく早い御帰還をお勧めします。時間に比例して必要な水晶の数は増えますので。また一人の相手からはひとつしか出ません。さらに、現実世界で回復の望みなしと判断され亡くなられた場合、大脳からの信号が切れますので、『感謝の水晶』を何百個所持していても、その時点で死亡なさいます」
植物状態の人間は適切な世話を受けられればかなり長いこと生存できるらしい。けれどそれは家族の大きな負担になる。回復の望みのない重荷を背負えなんて、夫はともかく娘には言えない。
それに圭太の問題もある。大検を取って大学、そして就職といった将来のことを考えたら、一年、いや半年以内にどうにかしなければならない。
ただ水晶の数が少ないと、その数に応じてさまざまな後遺症が残る。それも家族の負担となるだろう。
「また蛇足ですが、別世界での経験は仮の肉体の仮の脳に蓄えられますので、元の身体への再接続が完了しますと、記憶は失われます。ただ、稀に少々影響が残ることもあり、『事故によって性格が変わった』と言われているようです」
案内人の言葉に杏子はうなずいた。
大きな事故や手術の後で性格が変わったという話は、聞いたことがある。もしかすると短期間の植物状態は、思ったより多いのかもしれない。
それから、この部屋についてもようやく理解できた。杏子がこれから入る仮の肉体の条件を決める場所なのだ。
案内人に言われて初めて気がついたのだが、この部屋にはドアも窓もない。ただの箱である。それは、杏子の大脳の信号が身体との接続が切れ、こちらへ伸びてきたときに、受け入れ先として案内人の周囲に作られたからという理由らしい。その細かい科学理論や次元論は理解できなかったし、する気もなかった。
大切なことは、一つ。
「つまり、アレね? 心から感謝されるタイプの主人公を作ればいいのね?」
「その通りです。これから行かれる世界は、文明レベルは異なりますが、生態・価値観・哲学などの面で、水原杏子様のお住まいの地球と似ております。そして、住人は地球の人々ほど複雑な心を持ってはおりません。そうでなくては感謝の水晶を獲得することが、極端に難しくなりますので」
案内人は手元のスマホへ目をやる。
「そうですね。昔話の登場人物に近い、とお考えください」
それは明るい材料だ。杏子は新たな目で周囲を見回した。
「ふうん。こっちのパラなんとかは、選べないのね。なんでかしら?」
長く話し合ったせいで、口調はかなり気安くなっている。
パラメーターについても話を聞いてはいたけれど、実はあまりよくわからなかった。わかったのは、それが仮の肉体の作成の基礎になるということ。それさえわかっていれば問題ないと、案内人も言ってくれた。
杏子は《選択不能パラメーター》と書かれている壁に近づく。ダーツの的のような円盤がずらりと並んでいる。よく見ると、ダーツの的ではなく、ルーレットだ。バラエティ番組によくある罰ゲームを決めるときに回すものに似ている。等間隔の放射線ではなく、幅がばらばらなのも、それっぽい。
「どうして太さに違いがあるの?」
振り返って尋ねると、案内人の巨体が滑るように近づいてきた。
「確率ルーレットです。水原杏子様がお選びになる二つ以外のパラメーターは、偶然によって決定されます。能力や装備品などで、平凡なものほど確率が高く、極端なものは確率が低く設定されています。水原杏子様が中央の銀のテーブルに選択したパラメーターを載せ、決定された瞬間に、それ以外のすべてのルーレットが回り始めます」
「つまり、自由にならないってことね」
壁に目を走らせながら、杏子はつぶやく。否定の声はない。
確率ルーレットには簡単なタイトルがついていた。
《装備》《記憶力》《言語力》《危険感知力》《動物親和力》《植物親和力》《昆虫親和力》《同族親和力》《異性への魅力度》《同性への魅力度》《毒耐性》などなど。《○○技術》や《○○知識》とかのタイトルは数十個ずつもあった。
なるほど、これらを一つ一つ決めるのは大変だ。できることなら、全部を高得点にしたいけれど。
子供のころから杏子は勉強も運動も得意ではなかった。定位置は真ん中より少し下。一度くらい優秀な人の気分を味わってみたい。
つらつらと考えていると、不意に一つのタイトルが目に飛び込んできた。
《世界》
そのルーレットは、珍しくほぼ三等分になっている。それぞれに〈剣と魔法〉〈宇宙と超能力〉〈混沌〉と書かれていた。
「なに? この《世界》って……」
胸騒ぎがする。
杏子の頭の上からルーレットを見た案内人は、こともなげに答えた。
「仮の肉体が作られる世界です。水原杏子様に選んでいただけるパラメーターではありません。行く先は偶然によって決定されます。どの世界でも、先程の説明は有効ですので、お気になさらないでください」
「待って! でも、《世界》……三つもあるじゃないの」
大きな声を出しても、案内人の穏やかな表情に変化はない。
「はい。植物状態となったすべての人を一つの世界に送ると、過密になってしまいます。感謝の水晶を奪う争いが起こりやすくなるのです。もっとも奪っても無駄なのですが。我々を信じない人々は少なくないのです」
「でっ、でも、そうしたら、わたし、圭太と会えないかもしれないじゃない……」
「三分の一の確率ですね。偶然。運命。人生にはつきものです。水原杏子様はまず、御自身のことをお考えになることをお勧めします」
──三分の一? 三分の二は圭太と別の世界ってこと? そんなの冗談でも嫌だわ!
五年もの間、母親の杏子としか話ができなかった圭太を一人にするなんて、絶対にできない。そんな酷いことは許されない。
杏子は小走りに奥の壁へ駆け寄った。《選択可能パラメーター》のルーレットへ手を振る。
「いますぐ、こっちを詳しく説明して!」
なにか方法があるはず。圭太のそばにいてあげられる方法が。
幼稚園児の圭太の姿が浮かぶ。デパートの迷子センターで泣いていた圭太。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で抱きついてきた。
あのときの安堵感を忘れたことはない。
杏子は唇を噛む。
焦る杏子に気づかないのか、案内人は淡々と説明を始めた




