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おばさんクエスト  作者: 如月天音
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二 記憶

 数時間前。

 杏子はリビングのテーブルで化粧をしていた。

──どこで、なにを、間違えたんだろう……

 カサカサの肌に化粧水をはたきこみつつ、何百回も繰り返した問いを繰り返す。考えても仕方がないとか、過去ではなく未来を考えようとか、いろいろ人に言われたけれど、考えずにはいられない。

 杏子はいたって普通に子育てをしてきたつもりだ。

夫は地方公務員。贅沢はできないが人並みの暮らしができる給料を稼いでくれる。真面目で融通のきかない人だけれど、杏子が頼めば家族サービスもしてくれた。子供達は遊園地にも動物園にも水族館にも行っている。近場だったけれど夏には家族旅行もした。

 その他大勢に埋もれるタイプである杏子も夫も、普通であることを大事にしてきた。だから周囲と比べて、子育てにおかしなところは一つもなかったはず。

 その証拠に、長女の華世は普通に成人した。普通に大学を卒業し、普通に就職して、通勤に便利な場所に一人暮らしをしている。

 乳液を指の腹でぐいぐい押しこみ、杏子は圭太に聞こえないようこっそり溜め息をつく。溜め息なんか聞かれたら、圭太は出かけるのをやめてしまうかもしれない。それだけは避けたい。

 乳液がなじんだのを確かめて、下地クリームを顔に伸ばす。

 圭太。

 杏子の長男。華世の弟。十七歳。

 水原家の最大の問題。

──でも、まだ、ひきこもりなんかじゃない……

 杏子は自分に言いきかせる。

 圭太が学校へ行かなくなってから、まだたった五年しかたっていない。中学には二ケ月通ったし、今はちょっと休憩しているだけ。

 それに杏子とは話すことだってある。父親とは喋らないけれど。

 外出だって、全然しないわけじゃない。この五年でコンビニに三回行った。

 調整色を頬と鼻の脇に入れながら、杏子は思い返す。

 初めのころは、軽く考えていた。

ちょっと厭なことがあったのだろう。一日くらい学校に行きたくない日もあるだろう。子供の気持ちを思いやるのも母親だ、と。

杏子自身は中高生のころ、ズル休みなんて絶対に許してもらえなかった。大人はなにもわかってくれないと絶望したことを憶えている。そのとき、自分の子供には決して無理強いしないと心に決めたのだ。

でも、五年はちょっとだけ長い。

杏子が焦りだしたのは、圭太が中学を卒業してからだ。

義務教育だというのに、中学校はなにもしてくれなかった。それどころか、卒業式の翌日に、最低レベルの通知表と卒業証書を送って寄越したのである。

 学校は不登校児を抱えたくないだけなのではないか。義務教育のくせに、義務を放棄するなんて信じられない!

 杏子は学校に怒鳴りこみたかった。出席日数の足りない圭太は留年させるべきで、卒業はおかしいではないかと。

 あとで知ったのだけれど、義務教育の『義務』は『国が子供に教育をする義務』『子供が学校へ行く義務がある』という意味ではなくて、『保護者が子供に教育を受けさせる義務がある』ということだった。つまり圭太の場合、杏子と夫に義務があったのである。

 ファンデーションで小じわを塗りつぶす杏子の胸に、二年前の衝撃が蘇る。

 もちろん圭太は高校受験はしていなかった。

 そして杏子は死に物狂いで情報を探した。カウンセラーとか精神科とかスピリチュアルとか、圭太のためになりそうなことなら、なんでも試した。

 夫は頼りにならない。

 穏やかで、争いが苦手で、真面目。そこがいいと思って結婚したし、一度だって浮気や暴力はなかった。美人でもなく小太りでくたびれたおばさんの妻を大事にしてくれる。その点で夫に不満はないし、幸せだと思う。

 けれど夫は面倒事は仕事だけにしたいと考えている。杏子が圭太の心配を相談しても、穏やかにうなずいて言うのだ。

「それじゃあ、僕が定年退職したら、小さなアパートを建てようか。その収入があれば、圭太も暮らしていけるだろう」

 確かにそんなことを勧めた記事も見たことはあるけれど、それはひきこもったまま四十歳五十歳になった子供を持つ人々への提言だった。杏子はそこまで諦めてはいない。圭太はまだ十七歳なのだ。大検だか高認だかに受かれば、大学に行くことができる。まだまだ遅くない。

 夫が諦めた理由はわかっている。

 一年前、杏子の頼みで夫は圭太に意見した。なんでもいいからやりたいことをしてみろとか、その程度の説教とも言えない話だ。

 廊下で振り返った圭太はものも言わずに握った右手で壁を殴りつけた。マンションの薄い壁はボール紙のように破れ、穴が開いた。

 小さかった息子はいつの間にか、大男になっていたのである。

 杏子もぎょっとしたけれど、生来優しくて争いごとの嫌いな夫はすっかりびびってしまった。それ以来、夫は圭太にかかわらない。

もちろん杏子だって圭太の腕力が怖くないわけではない。あの力で殴られたら吹っ飛ばされる。

ただそれは圭太に限ったことではない。圭太よりずっと背の低いひょろひょろの男だって、簡単に杏子を吹っ飛ばすことができる。大人の男女の腕力にはそれくらい差があるのだ。

矛盾するようだけれど、だからこそ杏子の恐怖は夫ほどではなかった。力の弱い生き物として過ごしてきた長い経験がある。

杏子は鏡を覗きこんだ。

コンシーラーでもシミやホクロが消えなくなったのは、いつからだったか。どんなに目を凝らしても、鏡から見返してくるのはくたびれたおばさんの顔。

ほんの二十年前は一晩中遊んでも、この顔よりずっと張りのある顔だったのに。ディスコの悪い空気も不摂生も、歳月ほど身体を蝕まない。

数年前から更年期障害も始まっていた。突然のほてり、めまい、老眼、関節の軋み、抜け毛。こんなふうにくよくよと考えるのも、更年期のせいなのだろうか。

短くまばらな睫になんとかビューラーをあて、少し考えてマスカラはやめる。

フリースクールの職員や他の保護者から厚化粧の謗りを受けたくない。母親への悪感情は、圭太に不利かもしれないと考えてしまう。このフリースクールは、ありとあらゆる困難と苦闘の末に辿りついた、圭太と社会の間の扉だ。閉ざしてはならない。

 眉毛をおとなしめに描き、アイシャドウもアイラインもチークも口紅も控えめに入れる。職員に反感をもたれない地味なおばさん顔になっているかチェックして、杏子はメイク道具を片づけた。流行遅れのスーツをハンガーからはずす。

 圭太の中学の入学式用に買ったスーツは、だいぶきつい。けれどきちんとした服はこれしかなかった。ずっと、服を買う心の余裕がなかったのだ。

──みんな、おしゃれしてるのに……

 バブル世代の杏子の友人は、年をとってもいつも綺麗にしている。同世代には若造りする人も多いけれど、杏子の周囲はみな年を重ねた容姿に似合うおしゃれを楽しむタイプだ。

 昔から仲間の中心だった佳代子は美人で要領がよく、外科医と結婚した。二人の子供達も優秀で手がかからないらしい。大学と高校に行ってしまい手が離れすぎて淋しいからと、昔の仲間を温泉に誘ってくれた。湯布院の近くに別荘を買ったとかで、こちらの持ち出しは交通費のみという、破格の旅行である。

 だが杏子は断るしかなかった。圭太を置いて出かけるなんて無理だから。

「十七歳なんて、二日三日放っといたって大丈夫よ。親がいなければ、大喜びだわ」

 佳代子、それに厚美や富希江は口を揃えたけれど、圭太は普通の十七歳じゃない。部屋の前に持って行ってあげなければ食事もできないのだから。三日も放っておくなんて不可能だ。飢え死にしてしまう。

──圭太が親離れしてくれてたら……

 そう考えたのは、その時が初めてではない。正直に言うと、一日一回くらい考える。

 佳代子の別荘は最高だったらしい。温泉が引いてあって露天風呂もあって、家政婦やシェフまでいたとか。厚美と富希江が興奮して電話で喋るのを聞くうちに、杏子は虚しくなった。

 自分だけが楽しいことから遠ざけられている。このまま一生、圭太の世話で終わるのか。

──いっそ、ノストラダムスの大予言が当たってくれたら良かったのに……

 小学生のころにブームだったノストラダムスによれば、杏子が三十半ばのときに世界は終わったはずだ。

当時、圭太は可愛い赤ん坊だった。今みたいにこのままずっと家に籠もるのかとか、どこか遠くで幸せに暮らしていてくれたらいいのにとか、酷いことを考えたりはしていなかった。

 世界が終わっていたら、息子を邪魔に思う心が自分の中にあるなんて、気がつかないでいられたのに。

 更年期障害が始まってからは、さらに辛くなった。圭太の存在がなにかの罰のようだ。口を半開きにしてパソコンの画面を凝視している圭太は、身震いするほど醜い。

 だけどもちろん、そんな思いとスーツは別問題だ。親兄弟にも、ましてフリースクールの他人にも、息子のことを賢しらに言われたくない。

 だから杏子はウエストをガードルで締めつけて、きついスカートのホックを留める。

 フリースクールへの道程はびっくりするほど順調だった。

 圭太は黙ってスマホをいじりつつも、ちゃんと杏子についてくる。

──もしかすると、圭太もこのままじゃいけないって、気がついたのかも……

希望と期待で、想像が勝手に羽ばたく。

来年大検を取ったらちょうど大学一年の年齢だ。高校までのことは忘れて、アルバイトや合コンやスキーなんかに夢中になる圭太。失恋や就活で苦しんだりするけど、なんとか暮らせる仕事を見つけ、素直で優しい女性と結婚。幸せな家庭を築く。

圭太に望むのは、それだけだ。大金持ちになるとか、女優並の美人妻なんて、考えたこともない。『普通であること』が最も幸福なのだ。バブルの時代を知っているからこそ、杏子はそれを疑ったことがない。

フリースクールのビルの前で、杏子達は声をかけられた。

「あら、水原さん! いらしたの」

 前回立ち話をした吉沢親子である。圭太よりだいぶ背の低い息子は、やはり母親の背中側でスマホをいじっており、挨拶もしない。

 杏子の背後で、圭太がちょっと動いたのがわかった。会釈したに違いない。あちらの子よりはまだ社会常識がある。

 少しだけ良い気分になって、杏子はにこやかに会釈した。

「あら、吉沢さん。お帰りですの? ウチはちょうど今からで……」

 目をあげた杏子はぎょっとする。吉沢母の顔が大きく歪んでいた。その後ろで小柄な息子が感情に乏しい顔をあげかけている。

「なにか……」

 言いかけたところにひどい衝撃が襲った。


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