十一 最初のごはん
ナゴォの家は、山側にあった。ドラマに出てきそうな丸太小屋だ。
「ここらの家は小さいでなぁ。キョーコォさんらの寝るとこはぁ、屋根裏部屋でもええかなぁ。今、ちぃとお、かかぁが腰を痛めとってぇ、しばらく掃除しとらんがぁ。好きに使ってくれてぇ、構わんしぃ」
「ありがとうございます。掃除はもちろん、こちらでさせていただきます」
洞窟の地面に寝ることを考えたら、屋根と床があるだけでもありがたい。
杏子が深々と頭を下げると、ナゴォは人の良い笑顔でいやいやと手を振った。
「掃除してくれたらぁ、ありがたいのはワシらじゃぁ」
腰痛で外に出てこなかったナゴォの妻も、にこにことうなずく。その頭にはぬいぐるみのクマみたいな耳がついていた。年は本来の杏子とそう変わらないだろう。日本人とは少し違う顔立ちだから断言はできないけれど。
「ほんとうに。こんな強そうなマレビトさんが出てらっしゃるなんて、ありがたいことですね」
「あ。なんでも言ってくださいね。家事でも力仕事でも、できることはなんでもお手伝いします」
杏子は力をこめて請けあう。
本来の五十歳なら不可能な力仕事も、今の身体ならできるはずだ。この仮の肉体にどのくらいの力があるのか、ちょっと知りたい気もする。
ナゴォ夫妻はお昼ごはんもだしてくれた。
シチューとパンの簡素な食事。肉はかけらしかないけれど、じゃがいも、カブ、にんじん、たまねぎ、ブロッコリーなど野菜たっぷりのシチューの匂いでお腹がぐうぐう鳴りだす。
──こんなにお腹がすくなんて、すごく久しぶり……
杏子の日常では、鳴るほどお腹がすくことなんかない。家事の合間にちょこちょことおせんべいやクッキーやアメなんかを口に入れてしまうから。この前お腹が鳴ったのがいつだったのか、思い出せないくらいである。もしかすると授乳期が最後だったかもしれない。
お腹をすかせないのは、圭太も同じ。自室でパソコンやスマホをいじりながら、炭酸ジュースとスナック菓子をのべつ幕なしに食べていた。
シチューを食べながら、杏子はナゴォ夫妻にお礼を言い、美味しいと連発し、圭太の様子を気にかける。子育てをすると、このくらいを同時にすることは常態となるのだ。
思ったとおり、野菜嫌いの息子もむさぼるようにシチューをかきこんでいた。美少女の外見にそぐわないがさつな食べ方だけれど、杏子は胸が温かくなる。
──このまま、野菜を好きになってくれないかな……
ここでの記憶は残らないと案内人が言っていたことはすっかり忘れて、願ったり。
気がついたら木のボウルはからになっていた。大柄な男の身体には全然足りない。
おかわりをもらえないか頼みかけて、気がつく。
ナゴォ夫妻はシチューをたべていない。小さなパン一つを二人で分けあっている。
──自分達の食事を、わたし達に出してくれたんだ!
ここまで来る間、コンビニどころか店は一つも見当たらなかった。ファミレスも宅配ピザもない。ここでは自分で畑を作り、家畜を飼い、それで初めて食べ物が手に入るのだ。
そういう大切な食事を、ナゴォ夫妻は赤の他人の杏子と圭太に提供してくれたのである。
夫妻の優しさに感謝と申し訳なさがわきあがる。そのとき圭太がつぶやいた。
「……オレ、足んねーかも……肉とか……?」
杏子にだけ聞こえる音量は、母親への要求だ。
ひきこもり始めからずっと、圭太はこうして要求を出す。杏子以外の人がいるところでは極端に小さな声で、しかもはっきりとは言わない。それでも赤ちゃんのころから世話してきた杏子には、圭太の言いたいことを察するのは難しくなかった。
たとえば、今の言葉を翻訳すると『シチューとパンでは物足りないから、唐揚げかハンバーガーを出せ』となる。
どうやら圭太はナゴォ夫妻の昼食をもらったことを有難いとは思っていないらしい。たぶん、今食べたのが夫妻の昼食だと、気づいていないのだろう。
この十七年で初めて、杏子は意図的に圭太の要求を無視した。というか気がつかなかったふりをした。ちょっとだけ胸が痛いのは、罪悪感なのか、母性本能なのか。
「御馳走様でした。本当に美味しいシチューでした。ありがとうございます」
頭を下げる。
「え……? オレ、まだ……」
傍らの小声と服を引く感触、どちらも気がつかなかったふりで通す。
ナゴォは人の良い笑顔になった。
「いやぁ。すまんのぉ。マレビトさんはぁ、たいがい腹を空かせとるからぁ、老人の昼飯じゃぁ、足りんじゃろぅ」
すまなそうなナゴォに杏子は小さく両手を振る。
「いえいえ、とんでもない! 充分にいただきました。こちらこそ、御二方のお食事をいただいてしまって、申し訳ありません」
ここまで言えば圭太も理解できるだろう。自分の食べたものが誰のもので、唐揚げもハンバーガーもここにはないということを。
もう十七歳なのだから。
そこで杏子は思いついた。
「そうだ。こんなものがあるんですけど」
リュックから乾燥肉の塊をだす。
「これ、ちょっと臭いがきついし、料理の方法もわからないので、使えるかわからないのですけれど……」
ナゴォ夫妻の目が僅かに大きくなる。
「なんとまあ、立派な鹿の干し肉をぉ」
鹿。
佳代子がジビエとか言っていたものだろうか。野生動物の肉。臭みがあったのはそのせいだろう。もちろん、杏子は食べたことも、まして料理したこともない。
「なんか、荷物に入っていて……良かったら、召し上がってください」
「ほう。珍しいのぉ。物持ちなマレビトさんとはぁ」
ナゴォが初めてリュックを見やった。杏子は急いで応える。
「あ、いえ。あとは大したものはなくて。着替えとか、鍋とか、コップとか毛布で……」
「……魔法のカードとか……」
圭太のつぶやきはたぶん、ナゴォ達まで届いていない。
──あと〈多幸運〉のおはじきと……そうだ、あれもあった!
杏子は腰の巾着袋を手探りして、一番小さい銅色のコインを出した。小さいといっても日本の五百円玉くらいで、それが十円玉の色をしている。
「あの。これって、ここで使えるお金でしょうか?」
「うへ。そんなん隠してたのかよ、母さん……」
相変わらず圭太の声は、息を吐くのと変わらない音量だ。
ナゴォは気づかない様子で、コインをつまむ。
「普通の銅貨だのぉ。マレビトさんがたまに金を持っとるっちゅう話は、隊商の人に聞いたことがあったのぉ」
「あの。どのくらいの価値がありますか?」
「銅貨五枚でぇ、服一枚分の布と交換できるのぉ。鞣し革ならぁ、靴一足分でぇ、銅貨十枚かのぉ」
ちらりと圭太の足元を見る。
華奢なサンダルは山に向かない。この村で暮らすなら、圭太用に靴と服が必要だ。手持ちの銅貨で足りるだろうか。銀貨も少しあるし、金貨も一枚あるけれど、ここで出してみせて大丈夫だろうか。
まだ少し不安だ。
「ああ、娘さんの服と靴ね」
思いついたようにナゴォの妻が手を叩く。
「キョーコーさん達に使ってもらう屋根裏に、古くて着なくなった服や靴があるから、良かったら自由に使ってくださいな」
「いいんですか! それは、ありがたいです! なにからなにまで、すみません」
「いえいえ。構いませんよ。ただ、村を出た息子達の服と靴だから、ちょっと大きいかもしれませんけれど。それに、あたしが腰を悪くしてから、一度も屋根裏に上がっていなくて、埃だらけなんですから」
心苦しそうな顔へ、杏子は頭を下げる。
「とんでもありません! 見知らぬわたし達を泊めていただいて、食事を御馳走していただいて、そのうえ服まで……いくら感謝しても足りません」
「はあ? オレ、足んねーつってんのに、なに言っちゃってんの?」
つぶやくように毒づいた圭太は、もしかすると、なにもわかっていないのかもしれなかった。




