五十話「七環神域」
赤黒い星素と、ターコイズブルーの星素が激突した。
衝撃が地下区画を駆け抜ける。
床が沈み、壁面へ亀裂が走った。
迅は碧の目前まで踏み込んでいた。
風を受け流し。
熱を散らし。
雷による硬直を抑え。
薄れかけた適応を、必要なものから作り直す。
碧へ届くためだけに、星脈を変化させ続けている。
「今度こそ――」
迅の拳が、碧へ迫る。
だが、その指先が触れるより先に。
大地が震えた。
風が止まる。
床を流れていた水も。
壁面を這っていた植物も。
空気中に残る熱も、雷も、冷気も。
すべてが一度、動きを止めた。
「……なんだ?」
迅が足を止める。
碧の一本の星脈に重なる、七柱との接続。
そのすべてが、同時に最大まで開かれていく。
七環神威――全力開放。
『七環神域』
声とともに、地下区画の景色が変わった。
碧を中心として、七つの自然現象が広がっていく。
床が隆起する。
大気が渦を巻く。
水が地面を覆い、炎熱がそれを蒸発させる。
生まれた水蒸気が風へ乗り、冷気に触れて白い霜へ変わる。
霜の内側を雷光が走る。
砕けた床の亀裂から、植物が一斉に芽吹いた。
七つの力が、別々に存在しているのではない。
大地が水の流れを変える。
水が熱を受けて大気へ混ざる。
冷気が水分を凍らせる。
雷が湿った空気を伝う。
植物が大地へ根を張り、風の流れに沿って伸びる。
一つの現象が、次の現象を生む。
終わりのない循環。
地下区画そのものが、碧の星脈へ組み込まれていた。
「これが……」
迅の身体へ、前方から風が吹きつける。
同時に、足元を水が流れた。
水へ触れた脚を冷気が凍らせ、その内側へ雷が走る。
「ぐっ……!」
迅の星脈が、風へ適応する。
身体を押し流す力を受け流す。
だが、風に合わせた直後には、足元の氷へ対応しなければならない。
冷気へ適応すれば、雷が筋肉を硬直させる。
雷へ星脈を合わせれば、薄れた熱への適応を炎が破る。
一つずつではない。
すべてが、常に別の現象へ変わり続けている。
どれを受けたのか。
次に何が来るのか。
その境目すら存在しなかった。
迅が腕を振るい、足元の氷を砕く。
植物の蔓が、その右腕へ巻きついた。
引き千切ろうとした瞬間、蔓の表面を水が走る。
その水を通じて、雷が迅の身体へ流れ込んだ。
「があっ!」
迅の身体が仰け反る。
雷へ適応する。
その間に、大地が足元から隆起した。
身体が押し上げられ、天井へ向かって放り出される。
空中で風が向きを変えた。
迅の身体を、今度は真下へ叩き落とす。
床へ激突する直前。
迅は両腕を前へ出した。
大地へ触れる。
衝撃へ星脈を適応させる。
骨へ到達する力を外側へ逃がし、床を転がりながら立ち上がった。
口元から血が流れる。
「まだだ……」
迅は碧を睨む。
碧は、最初に立っていた場所から動いていない。
周囲の七つの力が、呼吸するように明滅している。
迅のアダプトが弱いわけではない。
一度適応した性質は、時間の経過だけでは失われない。
触れた力も。
受けた攻撃も。
星脈へ刻まれ、生き残るための形となる。
だが、新しいものへ適応するほど、古い形は薄れていく。
碧は、その限界を知っている。
三年前から、迅の力を知っていた。
だから、初めから一つの力だけで押し切ろうとはしていない。
七つの現象を循環させ、迅の星脈へ休む間もなく変化を求め続けている。
「俺の力を……知ってるからって……」
迅が床へ手をつく。
「勝ったつもりになるな!」
赤黒い星素が噴き上がった。
すべてへ適応する必要はない。
今、動きを止めているものだけ。
碧へ到達するまでに必要な力だけ。
それ以外は捨てる。
迅が風へ身体を合わせる。
正面から押し戻そうとする力を受け流し、前へ進む。
足元から植物が伸びる。
避けない。
左脚を裂かれながら、そのまま踏み込む。
傷口へ冷気が突き刺さった。
星脈を合わせない。
脚が動く限り、痛みは無視する。
雷が肩へ落ちる。
右腕が痺れる。
それでも、左腕は動く。
「碧!」
迅が拳を振り上げる。
大地が正面へ隆起した。
右へ避ける。
そこへ水流が押し寄せる。
身体を流される前に床を蹴り、さらに前へ。
炎熱が視界を覆う。
皮膚が焼ける。
呼吸が止まる。
それでも、炎の向こうにいる碧から目を逸らさない。
一歩。
さらに一歩。
碧との距離が縮まっていく。
◇
資材保管区画。
空の拳が、シュダルの顔面へ迫る。
触れる寸前。
空の右腕が、外側へ逸らされた。
拳に込めた衝撃まで軌道を変え、背後の壁へ突き刺さる。
壁面が大きく陥没した。
「何度繰り返しても同じです」
シュダルは動かない。
「貴女の拳が私へ触れることはありません」
空は壁から腕を抜いた。
そのとき。
地下から伝わってきた星素に、大気が震えた。
ターコイズブルーの光が、床の亀裂から僅かに漏れ出す。
施設全体を覆うほど巨大でありながら、力の範囲は地下区画へ正確に限定されている。
空が足元を見る。
『碧のやつ……迅相手に、あれを出すのか』
「何か気になりますか?」
『別に』
空はシュダルへ視線を戻した。
『あっちは碧に任せた』
「では、こちらへ集中することです」
シュダルが右手を上げる。
崩れた壁面から、複数の金属片が浮かび上がった。
空へ向かって放たれる。
空は一歩も退かない。
拳を振るう。
金属片が粉砕された。
細かな破片が周囲へ飛び散り、その一部がシュダルへ向かう。
だが、すべてが接触する直前に軌道を変えた。
右。
左。
上方。
それぞれ異なる方向へ弾かれる。
空は、その流れを見ていた。
『一度に逸らせんのは、そこまでか』
シュダルの目が僅かに細くなる。
「何を――」
空が床を蹴った。
正面。
シュダルの顔面へ拳を放つ。
リジェクションが、その軌道を右へ逸らした。
空は逆らわない。
拳を引かず、逸らされた勢いのまま身体を回転させる。
左脚による蹴撃。
シュダルの脇腹へ迫る。
今度は左へ逸らされる。
空は床へ片手をついた。
流された脚を軸に身体を反転させ、右脚を振り下ろす。
三方向目。
シュダルの頭部を狙った踵が、上方へ弾かれた。
「無駄です!」
シュダルが後方へ下がる。
だが、空は既に床へ着地していた。
四度目。
真正面から踏み込む。
拳ではない。
空の肩が、シュダルの胸部へ迫る。
周囲の空間が歪んだ。
リジェクションが、新たな進行方向を作ろうとする。
間に合わない。
空の肩が、シュダルの胸部へ触れた。
「なっ――」
接触した。
その事実をシュダルが理解するより早く、空が身体を押し込む。
シュダルの身体が後方へ吹き飛んだ。
床を転がり、崩れた資材へ背中から激突する。
「がっ……!」
肺から空気が押し出される。
シュダルは胸部を押さえながら顔を上げた。
空が、目の前まで歩いてくる。
『触れねえ能力かと思ったけど、大したことねえな』
「……何をした」
『逸らせる方向と数に限界があんだろ』
空が拳を握る。
『一回ごとに力を作り直す時間もいる。だったら、その前に次をぶつけりゃいい』
「それだけで、私のリジェクションを……」
『それだけだ』
シュダルの表情が歪む。
誰にも触れられない。
そう名乗った自分へ、空は正面から触れた。
能力を破るための特殊な技を使ったわけではない。
圧倒的な速度で、処理できる限界を超えただけ。
シュダルにとって、それは能力を否定されるよりも耐え難い事実だった。
◇
地下記録保管区画。
玲の身体から、赤い星素が広がった。
そのすべてが、瀬川一人へ収束する。
「絶対静界・朱」
瀬川の身体が止まった。
床へ踏み出しかけていた右脚。
保存媒体へ伸ばしていた左手。
体内を流れていた星素さえ、完全に静止する。
「……これが、神楽坂玲の」
声を出すことはできる。
意識も残っている。
だが、身体は指先一つ動かない。
「対象を一人に絞った絶対静界か」
「ご存じでしたか」
「資料で見ただけだ。実際に受けるのは初めてだけどな」
「でしたら、抵抗が無意味なこともお分かりでしょう」
瀬川の周囲には、複数の《護殻》が残っている。
先に生成され、瀬川の星素から切り離された構造物。
術者本人が止められても、それらまで消えることはない。
だが、新たに動かすことも、形を変えることもできない。
玲は瀬川の隊服へ収められた保存媒体を見る。
「記録を返していただきます」
その瞬間。
地下区画の空気が大きく震えた。
玲が顔を上げる。
壁を隔てた先から、七つの自然現象が同時に広がっている。
大地。
大気。
水。
炎熱。
雷。
氷雪。
植物。
それぞれ異なる力が、一つの循環を形成していた。
「これが……碧様の本気……」
玲は息を呑む。
七環神威を使う碧の姿は、何度も見てきた。
その力を誰より近くで支えてきた。
それでも。
七柱との接続を最大まで開き、周囲の環境すべてを支配する碧の姿を目にする機会は多くない。
瀬川も、壁の向こうへ意識を向ける。
「迅……」
「心配ですか」
「別に」
返答は早かった。
だが、その視線は迅のいる方向から動かない。
◇
迅の左拳が、碧へ迫る。
碧が大気を圧縮する。
放たれた衝撃を、迅は正面から受けた。
胸部の骨が軋む。
身体が後方へ押し戻される。
それでも、両足は止まらない。
「俺は……」
迅が風圧の中を進む。
「ずっと、お前たちの隣に立てなかった!」
碧の周囲で、大地が動く。
迅の足元を塞ぐように岩壁が隆起する。
迅は拳を叩き込んだ。
岩壁を粉砕する。
砕けた破片の向こうに、碧の姿が見えた。
「空も、桜も、お前も!」
炎熱が噴き上がる。
迅は腕で顔を覆い、その中へ踏み込む。
「最初から俺とは違った!」
碧は、炎の向こうから迅を見つめている。
「どれだけ追っても、どれだけ強くなっても……!」
迅の星脈が、熱へ適応する。
その代わりに、風への適応が薄れる。
横から吹きつけた突風が、迅の身体を大きく揺らす。
倒れない。
右足を踏み込み、強引に姿勢を戻す。
「俺だけが、お前たちの隣へ行けなかった!」
『違う』
碧の声が、七つの現象を越えて届く。
「何が違う!」
『君が立たなかった』
迅の表情が止まる。
『私たちは、君を隣から遠ざけていない』
「黙れ……」
『空も、桜も、蘭も』
「黙れ!」
『私もだ』
「黙れと言ってるだろ!」
迅が床を蹴る。
残る星素のすべてを、脚と右腕へ集める。
何へ適応しているのかも、もう分からない。
星脈は変化を繰り返し、原形を失いかけている。
身体の各所から血が流れる。
それでも迅は、碧へ向かう。
『迅』
「呼ぶな!」
『君は、私の敵なのか』
三年前。
校門の前で、答えられなかった問い。
立場ではない。
所属でもない。
迅自身が何を選ぶのか。
碧は、同じ答えを三年間待ち続けていた。
迅の足元を、冷気が凍らせる。
蹴り砕く。
雷が右肩を撃ち抜く。
構わず腕を振り上げる。
植物が左脚へ巻きつく。
引き千切る。
水流が身体を押し戻す。
床へ爪を立て、前へ進む。
迅が顔を上げた。
「……今の俺は」
赤黒い星素が拳へ集まる。
「お前の敵だ!」
『分かった』
碧の足が、初めて前へ出た。
『なら、私は君を止める』
迅が拳を振り抜く。
同時に。
碧の姿が、迅の視界から消えた。
「な――」
大地が碧の足場を押し出す。
風がその身体を運ぶ。
水が床との摩擦を消し、雷が反応を加速させる。
炎熱が進路上の空気を広げ、冷気が背後の大気を収縮させる。
植物が迅の右腕へ絡みつき、その軌道を僅かにずらした。
七つの力が、一人の動きへ収束する。
碧が、迅の懐へ立っていた。
『君が来られないのなら』
碧の掌が、迅の胸部へ触れる。
『今度は私が行く』
七環神域を満たしていた力が、一点へ集まった。
爆発ではない。
七つの現象が、迅の星脈へ同時に流れ込む。
適応する順番は存在しない。
選ぶ時間も与えられない。
迅の星脈が、すべてへ適応しようと変化を始める。
風。
大地。
水。
熱。
雷。
冷気。
植物。
作り変わる。
崩れる。
作り直す。
その速度へ、星脈そのものが耐えられない。
「がっ……!」
迅の身体から、赤黒い星素が弾け飛んだ。
右腕から力が抜ける。
膝が落ちる。
碧は迅の胸部へ触れたまま、出力を止めた。
殺すための力ではない。
迅の星脈が壊れる直前で、七柱との接続を閉じる。
七環神域が消えた。
地下区画を満たしていた自然現象が、一斉に静まる。
迅の身体が前へ倒れた。
碧が両腕で受け止める。
「……また、届かなかった」
迅の声は弱い。
『届かなかったのではない』
碧が迅を支える。
『君が、途中で立つことをやめただけだ』
「……同じだ」
『違う』
迅は言い返さなかった。
既に意識を保つことすらできない。
碧の腕の中で、目を閉じる。
赤黒い星素が消えた。
◇
七環神域が解除された直後。
地下区画全体へ、大きな亀裂が走った。
碧が迅との戦闘で破壊したものではない。
長年放置されていた施設が、星素の急激な変化へ耐えられなかった。
天井が崩れる。
隣接する作業区画から、複数の声が上がった。
「まだ人が残っています!」
玲が振り返る。
崩落しかけた通路の先。
避難の遅れた施設職員が、降り注ぐ瓦礫の下に取り残されている。
絶対静界・朱は、瀬川一人を完全に止めている。
だが、一人へ力を収束させている間、広範囲の固定はできない。
瀬川を拘束し続けるか。
崩落を止めるか。
玲が選ぶまでに、時間はかからなかった。
「絶対静界・朱――解除」
瀬川の身体に、自由が戻る。
同時に玲が両手を広げた。
「絶対静界」
赤い星素が地下区画へ広がる。
落下していた天井。
崩れかけた壁面。
職員へ向かっていた瓦礫。
すべてが空中で停止した。
瀬川は逃げなかった。
先に生成していた《護殻》が、取り残された職員の周囲へ移動する。
白い外殻が折り重なり、落下物から人々を守る。
玲が瀬川を見る。
「それが、あなたの答えではありませんか」
「何の話だ」
「あなたが、誰を守りたいのかです」
瀬川は答えない。
その視線が、碧に支えられた迅へ向く。
次の瞬間。
迅の足元へ《護殻》が滑り込んだ。
白い構造物が身体を包み、碧の腕から迅を引き離す。
碧が右手を動かす。
だが、その先で施設職員を守る《護殻》が大きく軋んだ。
崩落は続いている。
玲も絶対静界を解除できない。
瀬川が迅を抱え上げた。
「悪いな。こいつは連れて帰る」
『瀬川』
「今は追わない方がいい」
瀬川が崩れかけた天井を見る。
「ここであんたが動けば、残った連中が死ぬ」
碧は追わなかった。
瀬川の言葉に従ったのではない。
迅を捕らえることより、目の前の人間を守る方を選んだ。
瀬川は迅を背負い、管理用通路へ向かう。
「神楽坂玲」
「何ですか」
「その問いには、まだ答えられない」
「そうですか」
玲は崩落を止めたまま、瀬川を見る。
「でしたら、次にお会いしたときに伺います」
「次も止める気か」
「当然です」
瀬川の口元が僅かに動く。
笑ったのか。
それとも、呆れただけなのか。
玲には分からなかった。
瀬川はそれ以上何も言わず、迅と記録媒体を持って管理用通路の奥へ消えた。
◇
資材保管区画。
シュダルの通信装置から、朔夜の声が流れた。
《シュダル。撤退してください》
シュダルは胸部を押さえながら立ち上がる。
「まだ終わっていません」
《記録の一部は確保しました。必要な観測結果も得られています》
「私の任務は、獅堂空を退けることです」
《違います》
朔夜は即座に否定した。
《あなたの任務は、記録回収のための時間を作ることでした。既に達成されています》
「私が、この女に触れられたまま退けと?」
《勝敗は作戦に含まれていません》
シュダルの周囲へ、星素が溢れ出す。
「私にとっては含まれている」
《感情で任務を変更しないでください》
「黙りなさい」
シュダルが通信装置を外す。
「私は、誰にも触れられない」
空へ顔を向ける。
「そうでなければならない」
シュダルの星素が膨れ上がる。
周囲の瓦礫が一斉に弾かれた。
壁。
床。
天井。
あらゆる方向へ、リジェクションの力が広がっていく。
施設そのものを、自分から遠ざけようとしている。
空は動かない。
『だからなんだよ』
シュダルの目が見開かれる。
『一回触られたくらいで、何をそんなに騒いでんだ』
「貴女に何が分かる!」
『分かるわけねえだろ』
空は興味がないように答えた。
『お前が誰で、何でそんな能力にしがみついてんのかなんて、あたしには関係ねえ』
「……貴女は」
シュダルの顔から、薄い笑みが消える。
「生まれながらに、すべてを与えられた貴女には……!」
《空》
蘭の声が、通信から届いた。
《シュダルの照合が取れた》
空はシュダルから目を離さない。
《本名、中峰康太。三十七歳。国立星律士官学校二十三期》
シュダルの星素が大きく揺らぐ。
《卒業後は星務庁へ入庁。特別回収官として、危険指定された星能者の拘束任務に従事》
「その名を口にするな」
《星務庁の記録では、六年前の任務で殉職。だけど、遺体は確認されてない》
「黙れ!」
リジェクションが暴発した。
床が捲れ上がる。
壁面が外側へ押し潰される。
シュダル自身を中心として、周囲のすべてが拒絶されていく。
だが、星素の流れが不規則だった。
外へ向かうはずの力が、途中で反転する。
逸らした瓦礫が別の瓦礫へ衝突し、再びシュダルへ向かう。
本人の意思と、星脈の動きが一致していない。
《何、これ……。星脈の流れが、本人の意思と一致してない》
蘭の声に、初めて戸惑いが混ざる。
シュダルが頭を押さえた。
「私は……誰にも……」
星素が、さらに膨れ上がる。
怒り。
屈辱。
否定されることへの恐怖。
抑え込まれていた感情が、星脈へ流れ込んでいく。
だが、力へ変換されているのではない。
逆だった。
星脈が感情を取り込み、シュダルの意識を塗り潰している。
《暴走した星脈に……自我を失ってるの?》
『ああ』
空が構える。
『星脈に感情を食われやがった』
《そんなことが……》
『ギフト持ちに稀に起きる星脈暴走だ』
シュダルが顔を上げた。
先ほどまで空へ向けられていた理性は、もう残っていない。
視界に入るものすべてを、自分から遠ざけようとしている。
リジェクションが無差別に広がった。
避難通路の壁が崩れる。
移送中の施設職員たちが悲鳴を上げた。
「空!」
遼河が叫ぶ。
「このままでは避難経路が持たない!」
『遼河の兄貴! 残ってる連中を先に飛ばせ!』
「座標が安定しない!」
「私が固定します!」
千景が床へ両手をついた。
空間系クラフト――「界錨」。
歪み続ける空間の中へ、移送先へ繋がる一点を固定する。
銀色の光が、床へ杭のように打ち込まれた。
「遼河隊長!」
「十分だ!」
遼河が両手を広げる。
固定された座標を中心に、空間が開いた。
資材保管区画と、地上の避難地点を繋ぐ短距離の門。
「全員、走れ! 振り返るな!」
施設職員たちが門へ向かう。
その背後で、リジェクションが壁面を引き剥がした。
巨大な破片が、避難する人々へ向かう。
空がその間へ入った。
拳を振るう。
破片が粉砕される。
砕けた瓦礫はリジェクションによって外側へ弾かれ、誰もいない通路へ突き刺さった。
《空、シュダルの出力が上がり続けてる!》
『分かってる』
《このままだと、星脈が先に壊れるよ》
空がシュダルを見る。
暴走する星素の中。
力の流れが、一点へ集まっている。
胸部の奥。
そこから全身へ星素が送り出され、周囲へ拒絶の力として広がっている。
あれが、暴走した星脈の収束点。
壊しすぎれば死ぬ。
弱すぎれば止まらない。
空が一歩踏み出した。
『一撃で、楽にしてやる』
シュダルが空へ手を向ける。
リジェクションが正面から押し寄せた。
空の身体が外側へ逸らされる。
右。
空は逆らわない。
逸らされた先の壁を蹴る。
左。
再び力を受け流し、天井へ着地する。
上方。
天井を踏み抜き、真正面へ落下する。
リジェクションが新たな方向を作ろうとする。
その前に。
空の拳が、シュダルの胸部へ触れた。
『寝てろ』
星脈の収束点だけを狙う。
スカイブルーの星素が、針のように一点へ突き抜けた。
シュダルの身体は吹き飛ばない。
床も砕けない。
拳から放たれた力のすべてが、暴走する星脈の流れだけを断ち切った。
周囲へ広がっていたリジェクションが消える。
シュダルの目から力が抜けた。
「私は……」
その先を言葉にする前に、身体が崩れ落ちる。
空が片腕で受け止めた。
《生命反応を確認。星脈出力、急速に低下しています》
『拘束班を寄越せ』
《もう向かってる》
『死なせんなよ。こいつには聞きてえことが山ほどある』
◇
施設職員の避難が完了した。
崩落した区画は玲の絶対静界によって固定され、残された者も全員救助された。
施設の中核設備は損傷したが、完全な崩壊は免れている。
カシオペアのシュダル。
本名、中峰康太。
星脈暴走によって意識を失った状態で、アストラが身柄を拘束した。
一方。
封印区画からは、研究記録の一部が持ち出された。
黒瀬迅と瀬川直人の姿もない。
迅は碧に敗れた。
だが、瀬川によって回収され、逃走している。
完全な勝利ではなかった。
◇
封印区画へ続く通路。
拘束班へシュダルを引き渡した空が、地下から戻ってきた碧と玲を見つける。
二人だけだった。
空の足が止まる。
『迅は』
碧が答える。
『瀬川が連れていった』
空の表情が変わった。
『何で迅を逃した!』
「空隊長、碧様は――」
『玲には聞いてねえ!』
空が碧へ詰め寄る。
『あたしは、お前なら迅を止められると思ったから任せたんだぞ!』
『止めた』
『なら、何でここにいねえ!』
『瀬川が迅を回収したとき、区画内に避難の遅れた者が残っていた』
『……』
『追えば、彼らを見捨てることになった』
碧は空から目を逸らさない。
『私は迅を追うより、残された者を守る方を選んだ』
空の拳に力が入る。
それが正しい判断だったことは、空にも分かっている。
自分でも、同じ状況なら同じ選択をする。
それでも、納得できるわけではなかった。
『碧なら、連れ戻せると思ってた』
『……』
『だから、あたしはあいつをお前に任せたんだ』
『戦いには勝った』
碧が静かに答える。
『だが、連れ戻せなかった』
空は何も言わない。
迅へ聞きたいことがあった。
三年前、なぜ何も言わずに消えたのか。
なぜ緋環にいるのか。
空や桜や碧を、今はどう思っているのか。
全員が生きて戻ったあとで、迅の胸倉を掴んで問い詰めるつもりだった。
だが、迅はまたいなくなった。
三年前と同じように。
何も残さず、目の前から消えた。
『くそっ……!』
空は壁を殴らなかった。
握りしめた拳を、震えるほど強く押さえ込む。
玲が口を開く。
「瀬川を止めきれなかったのは、私の判断です」
『玲』
「私が絶対静界・朱を解除しました。解除しなければ、取り残された者たちを守れませんでした」
『分かってる』
空が低く答える。
『お前らの判断が間違ってたなんて言ってねえ』
「では、なぜ――」
『分かってても、腹が立つんだよ!』
空の声が通路へ響いた。
『迅にも。瀬川にも。あいつらを使ってる朔夜にも』
そして。
『何も聞けねえまま、また逃がした自分にもだ』
玲は言葉を失った。
碧だけが、空を見つめ続けている。
『次は、あたしも行く』
空が碧へ告げる。
『今度こそ迅を逃がさねえ。あいつが何も答えねえなら、答えるまでぶん殴る』
『君らしいな』
『お前が大人しすぎんだよ』
『私は、聞きたい答えを一つ得た』
空の目が細くなる。
『なんて答えた』
『今の自分は、私の敵だと』
空の表情から、僅かに怒りが消える。
代わりに、別の感情が浮かんだ。
『……そうかよ』
『ああ』
『だったら次は、遠慮しなくていいな』
空が踵を返す。
『敵なら、一回ぶん殴ってから話を聞く』
「通常は、拘束してから聴取するべきです」
玲が指摘する。
『うるせえ。順番なんかどうでもいい』
「よくありません」
『玲、お前どっちの副隊長だよ』
「碧様の副隊長です」
『知ってるよ!』
碧が二人の横を通り過ぎる。
『戻るぞ』
『待て、碧。話は終わってねえ』
『シュダルの身柄と、持ち出された記録を確認する方が先だ』
『迅の話も先だろ!』
『逃げた迅は、今ここにはいない』
『そういうとこが腹立つんだよ!』
空の声が、崩れた通路へ響く。
碧は振り返らない。
だが、その歩みは僅かに遅くなっていた。
三年前。
何も答えずに消えた迅が、初めて自分の意思を言葉にした。
今の自分は、碧の敵だと。
それは、望んでいた答えではない。
それでも。
答えのないまま途切れていた四人の時間が、僅かに動き始めていた。




