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五話「午後八時の境界」

 星歴一〇〇九年。


 午後六時十二分。


 心導隊を乗せた車両は、街の中心部から遠ざかるように西へ進んでいた。


 窓の外では、夕日に照らされた建物が次第に低くなっていく。整備された街並みはやがて途切れ、代わりに閉鎖された工場や倉庫が目立ち始めた。


 雨宮奏は後部座席に座り、膝の上へ置いた戦術通信端末を見つめていた。


 画面に表示されている時刻は、十八時十二分。


 残り、一時間四十八分。


 視線を上げると、向かいに座る九条桜と目が合った。


『どうかしましたか?』


「別に」


 奏は短く答え、再び端末へ目を落とす。


『午後八時のことなら、心配しなくても大丈夫ですよ。十九時四十五分には現場から離脱できるよう、予定を組んであります』


「まだ何も言ってません」


『顔に書いてあります』


「桜隊長は精神系ですけど、感知はできませんよね」


『奏のことは、星能を使わなくても分かります』


 穏やかに微笑む桜から、奏は顔を背けた。


 その隣で、柊木伊織が小さく笑う。


「敵に心を読まれないようにする訓練より、桜隊長に隠し事をする訓練の方が難しそうね」


「伊織さんまで何なんですか」


「褒めてるのよ」


「どこがですか」


 車両の後方では、水城斗真が装備を確認していた。


 年齢こそ二十一歳と若いが、希少な空間系クラフトの星能者である。その表情には、普段よりも明らかな緊張が浮かんでいた。


「雨宮副隊長。本当に、前の事件と同じ声が残っていると思いますか」


「行ってみないと分からない。リフレインは、何でも聞ける星能じゃないから」


 場所や物へ焼きつくほどの、強い感情。


 奏の星能――リフレインが声として拾えるのは、それだけだ。


 誰が、いつ、何をしたのか。


 過去の出来事を自由に再現できるわけではない。


「ただ、あの黒い装置と同じ星素波形が検出されたなら、何もないとは思えない」


《その認識で合ってるよ》


 全員の戦術通信端末から、扇原蘭の声が流れた。


《前日の商業施設で回収された装置から、微弱な信号が断続的に発信されていたの。発信源を追った結果、辿り着いたのが今回調査する旧西央放送局だよ》


 車内の端末へ、建物の見取り図が表示される。


 三階建ての旧放送施設。


 十二年前に閉鎖され、現在は国の管理下に置かれている。電力供給も止まっているはずだった。


《内部から星素反応は検出されてないよ。ただ、地下の一部が図面と一致しないの。増築されたか、意図的に情報を消されたみたい》


「罠の可能性は?」


《高いと思う。だから心導隊にお願いしてるの》


『承知しました。ですが、奏の離脱時刻は変更しません』


《もちろんだよ。十九時四十五分になったら、調査の途中でも車両へ戻ってもらうから》


「まだ現場にも着いてないのに、帰る話ばかりしないでください」


 奏が不満を漏らす。


 桜は微笑んだまま、それ以上は何も言わなかった。


     ◇


 午後六時二十八分。


 旧西央放送局は、錆びた鉄柵の向こうに建っていた。


 壁面の塗装は剥がれ、局名が書かれていた看板も半分以上が落ちている。割れた窓の奥には、夕日の届かない暗闇が広がっていた。


「心導隊、進入します」


 伊織を先頭に、隊員たちが建物へ入る。


 桜と奏は中央。


 斗真と二名の隊員が後方を固めた。


 非常灯すら点灯していない廊下を、装備の照明だけが細く照らしていく。


 奏は一歩進むたびに、壁や床へ意識を向けていた。


 何も聞こえない。


 だが、静かすぎる。


 長く放置された建物なら、寂しさや恐怖、誰かが侵入した痕跡くらいは残っていてもおかしくない。


 それすら、ほとんど感じられなかった。


「変です」


『何がですか?』


「ここには、何も残ってなさすぎる」


 桜が足を止める。


「誰かが使っていたなら、感情が残ります。使っていなかったとしても、閉鎖されたときの職員の声くらいは聞こえるはずです」


「痕跡を消す星能……?」


 斗真の問いに、奏は首を横へ振った。


「分からない。でも、空っぽにされたみたい」


《奏。二階の第三収録室を調べてくれる? 信号が最後に確認された場所なの》


「了解」


 一行は階段を上がり、第三収録室へ向かった。


 重い防音扉を開く。


 室内には、古びた机と数脚の椅子が残されていた。壁際には、時代遅れの音響機器が並んでいる。


 その中央に、一台だけ場違いなものがあった。


 手のひらに収まるほどの、黒い装置。


 商業施設の西側機械室で回収されたものと同型だった。


「全員、触らないで」


 奏が制止する。


 ゆっくりと装置へ近づき、手をかざした。


 星脈を流れる星素が、感覚を研ぎ澄ませていく。


 最初に届いたのは、浅い呼吸だった。


 次に、歯が噛み合わないほどの震え。


 誰かが怯えている。


 暗闇の中で、必死に声を押し殺している。


「いやだ……」


 奏の口から、無意識に言葉が漏れた。


『奏?』


「違う。私じゃない」


 聞こえている。


 男か、女かも判別できないほどに擦れた声。


「帰りたい」


「助けて」


「開かない」


 幾つもの感情が重なっていた。


 一人ではない。


 何人もの非星能者が、ここへ連れてこられていた。


 そして、その奥から。


 冷たい女の声が聞こえた。


「午後八時まで待て」


 奏は目を見開いた。


「……午後八時まで待て」


『誰の言葉ですか?』


「分からない。女の声です。全員に、そう命令してる」


 桜の表情から、微笑みが消える。


『蘭。この施設への電力供給を、もう一度確認してください』


《正規の送電は十二年前に停止してるよ》


『内部電源は?』


《少し待ってね》


 短い沈黙。


 奏は黒い装置から手を離し、室内を見回した。


 壁に埋め込まれた時計は止まっている。


 表示している時刻は、八時ちょうどだった。


《地下から微弱な電力反応が出てる。外部回線には繋がってないから、独立した発電設備があるみたい》


「図面にない地下ですね」


 伊織が床へ視線を落とす。


『探しましょう。奏、声を追えますか?』


「やってみます」


 再び意識を集中させる。


 恐怖。


 焦燥。


 閉じ込められた者たちの感情は、床の下へ続いている。


「この真下です。でも、入口は別の場所にある」


《一階北側の資料保管庫へ向かって。壁の厚さに不自然なところがあるの》


 蘭の指示で、一行は収録室を出た。


     ◇


 資料保管庫の奥には、巧妙に隠された扉があった。


 斗真が周囲を確かめ、扉の向こうへ意識を集中させる。


「空間に歪みがあります。大きなものではありませんけど、外から内部を探知しにくくしている」


『解除できますか?』


「隔離そのものは無理です。でも、ここに自分の無響室を重ねれば、歪みの境界を可視化できます」


『お願いします』


 斗真が片手を前へ伸ばす。


「無響室」


 直径数メートルの範囲から、音が消えた。


 靴底が床へ触れる音も、装備が擦れる音も聞こえない。


 外界から切り離された静寂の中に、薄い膜のような揺らぎが浮かび上がる。


 伊織がその境界を指でたどった。


「ここ。扉の右側に解除装置が隠されてる」


 伊織が星能「盲点」を発動する。


 彼女の存在感が薄れ、視線で追っていても意識から抜け落ちそうになる。扉に仕掛けられた監視装置さえ、伊織を侵入者として認識できない。


 壁面の一部を外し、内部の操作盤へ手を伸ばした。


 扉の施錠が解除される。


 その先には、地下へ続く階段があった。


《現在時刻は、十九時三十一分だよ》


 蘭の報告に、奏が唇を結ぶ。


《奏の現場離脱まで十四分。地下区画の安全を確認できなかったら、予定どおり調査を中断するからね》


「今、声が一番強くなってるんです。ここで止めたら――」


『奏』


 桜の静かな声が遮った。


『今は進みます。ただし、十九時四十五分までです』


「……分かっています」


 階段を下りた先には、細長い通路が延びていた。


 左右に並ぶのは、分厚い鉄製の扉。


 奏が最初の扉へ近づく。


 触れるより早く、声が流れ込んできた。


「助けて」


「身体が熱い」


「何かが、中に入ってくる」


 奏は反射的に扉を開けようとした。


 しかし、電子錠は反応しない。


「中にいます! 一人じゃない、何人も!」


《生命反応を捉えたよ。八人いる》


『解錠を急いでください』


「俺が隔離空間を剥がします!」


 斗真が扉の前へ両手をかざす。


 伊織と隊員たちが、隣の制御室を探る。


 奏は次の扉へ手を当てた。


 同じ声。


 同じ恐怖。


 そして、全員の記憶の底に、あの女の声がある。


「午後八時まで待て」


「八時になれば、あなたの星が目を覚ます」


「恐れる必要はない」


「それは、初めからあなたの中にあったもの」


 奏の呼吸が止まった。


「桜隊長。この人たち、全員です」


『何がですか?』


「八時になったら、星能を強制的に発現させられる」


 桜がすぐに時刻を確認する。


 十九時三十八分。


『蘭。救援部隊は?』


《一番近い部隊でも、到着まで二十二分かかるの》


「間に合わない」


『では、私たちで止めます』


 桜は迷わなかった。


『伊織さん、制御室を。斗真さんは隔離を解除してください。残りの二人は収容者の救出準備を』


「桜隊長は?」


『ここに残ります。扉が開いた瞬間、精神干渉を行います』


「感知も防壁もできないのに?」


『できません』


 桜はあっさりと認めた。


『ですから、奏。中にいる方々の感情を、できる限り正確に教えてください』


 奏は目を閉じた。


 八人の声を、一つずつ拾い上げる。


 恐怖の強い者。


 既に意識が混濁している者。


 怒りを植えつけられている者。


 何かの言葉を、頭の中で繰り返している者。


 奏は全てを桜へ伝えた。


 時刻は、十九時四十三分。


 解除作業は終わっていない。


《奏、離脱準備に入って》


「まだです」


《あと二分だよ》


「あと二分あります」


『奏』


「桜隊長は、私に甘えすぎです」


 奏は扉へ手を当てたまま言った。


「感知は私に任せきり。相手の感情も、攻撃の予兆も、全部私が教えないと分からないくせに。ここで私を帰したら、この人たちをどうやって助けるんですか」


『はい』


 桜は否定しなかった。


『私は、あなたに甘えています』


 その返答に、奏が振り向く。


『あなたの耳を信頼しています。あなたの判断に、何度も助けられてきました。今も、あなたが必要です』


「だったら――」


『ですが、あなたを頼ることと、あなたを夜通し働かせることは別です』


 桜は奏の前へ立った。


 穏やかな口調は変わらない。


 それでも、その言葉には決して譲らない意志があった。


『あなたを必要としているからこそ、守らなければならない決まりです』


「子供扱いしないでください」


『あなたは心導隊の副隊長です。同時に、十四歳の子供でもあります。どちらか一方だけを都合よく選ぶつもりはありません』


 時刻が、十九時四十五分へ変わる。


《雨宮奏副隊長。現時刻をもって、任務から離脱して》


 奏は奥歯を噛んだ。


 ここで拒めば命令違反になる。


 何より、桜が自分のために下した判断を無駄にしてしまう。


「……必ず、生きて戻ってください」


『もちろんです』


「感知できないからって、無茶しないでください」


『善処します』


「それ、信用できません」


『では、約束します』


 桜が微笑む。


『明日の朝、あなたへ結果を報告します』


 奏は一度だけ扉へ目を向け、隊員の一人とともに階段を上がった。


 その背中が見えなくなるまで、桜は見送っていた。


     ◇


 午後八時。


 奏を乗せた車両が、施設の敷地から出る。


 同時に。


 旧西央放送局の全ての照明が、一斉に点灯した。


 地下通路へ、耳障りな電子音が響く。


「――目を覚まして」


 女の声だった。


 次の瞬間、八つの鉄扉が内側から弾け飛んだ。


『全員、伏せてください!』


 桜の声と同時に、鉄片が通路を横切る。


 隊員たちが身を伏せ、その頭上を鋭い刃が通過した。


 部屋から出てきた八人の男女は、全員が苦痛に顔を歪めていた。


 腕が金属へ変質している者。


 皮膚から炎を噴き出している者。


 異常に膨張した筋肉で、壁を殴り壊す者。


 発現した星能に統一性はない。


 それぞれの人生と渇望から生まれた力が、無理やり肉体の外へ引きずり出されている。


《八人全員の星素量が急上昇してる! 星脈の崩壊も始まってるよ!》


『斗真さん!』


「分かってます!」


 斗真が床へ片膝をつく。


「無響室、最大展開!」


 地下通路を覆うように、音のない空間が広がった。


 天井に設置された放送装置から、女の声が途切れる。


 追加の命令が遮断された。


 だが、既に与えられた命令は消えない。


 一人の男が、金属と化した腕を桜へ振り下ろす。


 桜は半歩だけ身をずらした。


 拳が頬をかすめ、背後の壁を砕く。


 次の攻撃が来る。


 奏がいれば、殺意から軌道を読めた。


 今は、見て判断するしかない。


 桜は男の目を正面から見つめた。


『あなたの怒りを、少しだけいただきます』


 精神系ギフトが発動する。


 男の中から、膨れ上がっていた怒りが収奪された。


 振り上げた腕が止まる。


『そして、眠りを差し上げます』


 穏やかな眠気を付与された男が、床へ崩れ落ちた。


 桜は倒れる身体を受け止め、静かに横たえる。


 右側から炎が迫った。


「桜隊長!」


 隊員の声を聞き、桜は身を翻す。


 炎を噴き出す女性が、泣きながら叫んでいた。


「来ないで! 殺したくない! でも、止められない!」


『大丈夫です』


 桜は炎の熱に頬を焼かれながら、女性へ歩み寄った。


『あなたは、誰も殺していません』


「来ないで!」


『あなたが奪われたものを、私が取り戻します』


 女性の心へ植えつけられた破壊衝動を収奪する。


 同時に、恐怖を押さえ込むための平静を付与した。


 炎が弱まる。


 隊員が即座に女性を保護し、星脈鎮静剤を投与した。


《左奥の人、星素出力が上がってるよ!》


 蘭の警告。


 筋肉を異常膨張させた男が、斗真へ向かって走っていた。


 今の斗真は無響室の維持に集中している。回避できない。


 伊織が「盲点」で男の認識から斗真を外そうとする。


 しかし、効かない。


「目で狙ってない! 命令された対象を追ってる!」


 桜が二人の間へ入った。


 男の拳が迫る。


『――ナイトメア・ケージ』


 男の足が止まった。


 その瞳から、現実の光が消える。


 本人が最も恐れる悪夢へ、精神を閉じ込める星能。


 本来なら敵を完全に無力化するための技だ。


 だが桜は、一秒も経たずに解除した。


 男の身体が傾く。


『申し訳ありません』


 桜はその巨体を支えた。


『少しだけ、怖い思いをさせました』


 攻撃の意思を失った男へ、隊員が鎮静剤を打つ。


 残る五人にも、桜は一人ずつ異なる干渉を行った。


 怒りを奪う。


 恐怖を和らげる。


 身体を動かす衝動を眠気で覆う。


 心そのものを壊さないよう、必要な感情まで奪わないように。


 奏の残した情報を頼りに、最小限の干渉だけを重ねていく。


 最後の一人が床へ横たわったとき、桜は壁へ手をついた。


 呼吸が乱れている。


 短時間に八人もの精神へ別々の干渉を行ったため、星素を大きく消耗していた。


《八人全員の星素出力が低下したよ。生体反応も確認できてる》


「生きてる……」


 斗真が、その場へ座り込む。


 桜は呼吸を整えながら尋ねた。


『星脈の状態は?』


《損傷はあるけど、崩壊には至ってないよ。全員、生存できる可能性が高いみたい》


 誰かが小さく息を吐いた。


 喜びの声を上げる者はいない。


 八人を助けただけだ。


 彼らをここへ連れてきた者は、まだどこかにいる。


『伊織さん。制御室には何がありましたか?』


「……見てもらった方が早いです」


     ◇


 地下の制御室。


 壁一面に、写真が貼られていた。


 男。


 女。


 学生。


 会社員。


 年齢も職業も共通していない。


 ただ一つ、全員が星能者登録のない非星能者だった。


 写真は、二十七枚。


 それぞれの下には、生活歴、家族構成、職業、そして星脈検査の数値が記されている。


「これ……アストラの情報じゃありませんよね」


 斗真がつぶやく。


《違うよ。星能者登録にも、一般の星脈検査結果までは記録されないの》


『では、別の場所から流出した情報ですね』


《その可能性が高いね》


 桜は机の上に置かれた資料を開く。


 そこには、赤い円環の印が押されていた。


 完全な円ではない。


 一部が欠けた輪が、何かを呑み込もうとするように描かれている。


 その下に、短い文章があった。


 ――星を持たぬ者など存在しない。


 ――眠れる星を開き、あるべき力を与える。


 桜は無言で資料を閉じた。


《写真の人たちを照合したよ。二十七人のうち、十二人に捜索願が出されてる》


『救出した八名も含まれていますか?』


《全員含まれてるよ。残る四人は、まだ見つかってないの》


「他の十五人は?」


《今のところ捜索願は出てない。ただ、安全も確認できてないよ。既に何らかの処置を受けているかもしれない》


 地下室に、重い沈黙が落ちる。


『蘭。この事件を、偶発的な星能発現として扱うべきではありません』


《私もそう思う》


『ギフトでも、通常のクラフトでもない。外部から星脈を開かれ、本人の意思に反して発現させられた星能です』


《本部長と医療部へ報告するね。正式決定までの暫定呼称が必要なの》


 桜は、救出された八人の姿を思い浮かべた。


 望んだ力ではない。


 積み重ねの果てに得た力でもない。


 ただ誰かの目的のために、命ごと引きずり出されたもの。


『――強制クラフト』


 桜が告げる。


『そう呼びましょう』


     ◇


 翌朝。


 午前七時四十八分。


 アストラ本部の医療区画前で、奏は壁にもたれていた。


 昨夜、帰宅を命じられたあとも、ほとんど眠れなかった。


 廊下の奥から、桜が歩いてくる。


 頬には小さな治療用の保護材が貼られていた。


「怪我してるじゃないですか」


『かすり傷です』


「無茶しないって約束しましたよね」


『生きて戻ると約束しました』


「屁理屈です」


『申し訳ありません』


 反省しているようには見えない。


 奏は頬を膨らませたまま、医療区画の扉へ目を向けた。


「八人は?」


『全員、生きています。星脈にも後遺症が残らない可能性が高いそうです』


 奏の肩から、わずかに力が抜けた。


「……そうですか」


『はい。奏のおかげです』


「私は途中で帰っただけです」


『いいえ』


 桜は奏の前へ立つ。


『あなたが八人の感情を正確に聞き分けてくれたから、私は必要な干渉だけを選べました。あなたがいなければ、全員を傷つけずに止めることはできなかったでしょう』


 奏は桜から顔を背けた。


「また、そうやって子供を褒めて」


『副隊長の働きを評価しているだけですよ』


「……どっちなんですか」


『どちらもです』


 奏は何かを言い返そうとして、やめた。


 ほんの少しだけ、口元が緩んでいる。


 桜はそれに気づいていたが、何も言わなかった。


「桜隊長」


『はい』


「昨日の女の声。あれ、八時まで待てって言ってました」


『そうですね』


「偶然だと思いますか」


 桜の表情から、笑みが消える。


 施設が動き出したのは、奏が任務を離脱した直後だった。


 感知を担う副隊長が、法令によって現場からいなくなる時刻。


 それを知っていたかのように。


『いいえ』


 桜は静かに答えた。


『あの方は、私たちの規則を知っています』


 医療区画の窓から、朝の光が差し込む。


 空には、白い幽星が浮かんでいた。


 その縁に滲む赤は、昨日よりもわずかに深くなっていた。

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