十八話「極星を止めた者」
アストラ本部、第十二訓練場。
屋内訓練施設の中で、最も頑丈に造られた場所。
先ほどまで訓練を行っていた蓮司たちは、既に場外へ出ている。
訓練場の中央で、獅堂空と神楽坂玲が向かい合っていた。
「勝敗は、どちらかが戦闘不能になるか、敗北を認めた時点で決定する」
場外から蓮司が告げる。
「俺が続行不能と判断した場合も、そこで終了だ」
『分かった』
「異論ありません」
玲は静かに答えた。
空は構えを取っていない。
両腕を下ろしたまま、自然に立っている。
それでも玲には、僅かな隙も見つけられなかった。
「空隊長は、武器を使用しないんですか」
『あたしは元から素手だ』
「そうでしたね」
『お前は遠慮すんな。絶対静界でも何でも、好きに使え』
「そのつもりです」
玲の全身を星素が巡る。
空の口元が持ち上がった。
蓮司が右手を上げる。
「始め!」
その手が振り下ろされた。
「絶対静界」
玲を中心として、無色の境界が広がる。
周囲へ流れていた星素。
床を滑っていた細かな砂埃。
玲が指定したものだけが、一斉に動きを失う。
しかし。
玲の正面に、空はいなかった。
「遅え」
背後から声が聞こえた。
玲が振り向く。
空は絶対静界の外側に立っていた。
玲が空間を止めるよりも早く、展開範囲から抜け出している。
絶対静界を解除。
すぐさま空へ向けて再展開する。
空の姿が消えた。
今度は右。
玲が絶対静界を向ける。
左後方。
さらに展開範囲を広げる。
空は止まらない。
玲が絶対静界を完成させる僅かな間に、その外へ移動している。
『どこ止めてんだ?』
「あなたです」
『一回も入ってねえぞ』
「分かっています」
玲は絶対静界を解除した。
空がいる場所を追っても遅い。
空は玲が展開しようとする空間を察し、その外側へ先回りしている。
玲は周囲へ意識を広げた。
正面に空が現れる。
絶対静界を展開する。
空が右へ動く。
玲は追わなかった。
右ではなく、さらに先。
空が次に足を置く場所へ絶対静界を展開する。
空の進路が変わった。
左側へ回り込もうとする。
そこへ、次の絶対静界を重ねる。
前方。
右。
後方。
玲は空のいる場所ではなく、空が向かおうとする場所を止めていく。
空が初めて足を止めた。
『なるほどな』
玲は既に、次の展開を始めていた。
空の背後へ絶対静界が広がる。
右にも。
左にも。
逃げ道を塞ぎ、正面から空を捉える。
「捕まえました」
絶対静界が収束する。
その直前。
空が玲の視界から消えた。
「――っ!」
玲の肩へ、背後から手が置かれる。
『惜しかったな』
玲が振り返るよりも早く、空の掌が背中を押した。
僅かな動作。
それだけで玲の身体が前方へ弾き飛ばされる。
玲は床へ手をつき、受け身を取った。
勢いを殺しきれず、数メートル先まで滑っていく。
『今のは良かったぞ』
空が楽しそうに言う。
「捕らえていません」
『あたしに進路を変えさせた』
「それだけです」
玲が立ち上がる。
「褒めていただくには、まだ早いです」
『そうかよ』
次の瞬間、空が消えた。
玲の正面で床が鳴る。
拳が迫る。
「絶対静界!」
玲は自分の周囲へ絶対静界を展開した。
空の拳が、その境界の直前で止まる。
静止したのではない。
空自身が、絶対静界へ触れる寸前で動きを止めていた。
拳と境界の間には、指一本分にも満たない隙間しかない。
玲が範囲を広げる。
空の姿が消えた。
右脇腹へ衝撃。
「ぐっ……!」
玲の身体が横へ飛ぶ。
床へ倒れる直前、両脚で着地する。
顔を上げたときには、空が目の前にいた。
玲が腕を上げる。
空の拳が、その腕の上から玲を吹き飛ばした。
背中から床へ落ちる。
息が詰まる。
『立てるか?』
空は追撃せず、玲を見下ろしていた。
「……問題ありません」
玲が片膝を立てる。
『勝てねえって分かって来たんだろ』
「はい」
『なら、何をしに来た』
玲は床へ手をつき、立ち上がった。
「勝てないまま帰らないためです」
空の笑みが深くなる。
『いい答えだ』
空が地面を蹴った。
玲の目に、空の姿は映らなかった。
反射的に絶対静界を展開する。
間に合わない。
肩。
脇腹。
背中。
衝撃が連続して走る。
どこから攻撃されているのか認識するよりも早く、次の一撃が届く。
それでも空は、玲の身体を壊さないよう威力を抑えていた。
倒れるほど強くはない。
立ち続けられるほど軽くもない。
玲は何度も体勢を崩し、そのたびに踏みとどまった。
「絶対静界!」
広範囲へ静止を広げる。
空は既に外へ出ている。
範囲を狭め、再び展開。
届かない。
もう一度。
その前に、空の足が玲の足元を払った。
身体が浮く。
玲は空中で姿勢を変え、床へ着地した。
だが、顔を上げた瞬間には空の拳が眼前で止まっていた。
『今ので終わりだぞ』
「まだです」
『その星素残量でか?』
玲の戦術通信端末には、警告が表示されている。
絶対静界を繰り返したことで、残された星素は僅かしかない。
『広い範囲を止めれば、それだけ星素を食う。あたしを追って展開し続けても、お前が先に尽きる』
空は拳を下ろした。
『もう分かってんだろ』
「はい」
玲は呼吸を整えながら答える。
どこへ動くかを読んでも、空はその先を行く。
退路を塞いでも、僅かな隙間から抜け出される。
広い空間を止めれば、空を捉えるより先に自分の星素が尽きる。
これまでと同じ絶対静界では、空には届かない。
玲は目を閉じた。
空のいる場所を止める。
空が向かう場所を止める。
それでは遅い。
空間を介して空を捉えようとする限り、絶対静界が完成する前に逃げられる。
ならば。
止める空間を選ぶ必要はない。
初めから、止める対象を一つに絞ればいい。
玲が目を開く。
『まだやる気か?』
「もちろんです」
玲は空だけを見つめた。
周囲の床も、壁も、空気も必要ない。
意識のすべてを、目の前の一人へ集中させる。
玲から広がっていた星素が消えた。
空が眉を上げる。
『絶対静界を使わねえのか?』
「使います」
『どこにだ』
玲は答えなかった。
空が右へ移動する。
玲の視線が追う。
空はさらに加速した。
右。
左。
背後。
正面。
そのたびに玲は空を見失い、再び捉える。
空間を止めようとはしない。
ただ、空という一人の存在へ意識を繋ぎ続ける。
『何を狙ってやがる』
空が玲の背後へ回る。
玲は振り向かない。
それでも、意識は空から離さなかった。
空が拳を伸ばす。
玲の背中へ触れる直前、絶対静界を発動しようとする。
しかし、星能は完成しなかった。
集中が途切れる。
空の掌に押され、玲は床を転がった。
「……まだ」
立ち上がる。
額から汗が流れ、床へ落ちる。
空は攻撃を止めなかった。
玲が何をしようとしているのか。
その答えを引き出すように、何度も踏み込む。
玲は空だけを捉えようとする。
一度。
二度。
三度。
発動には至らない。
星素だけが失われていく。
膝から力が抜けた。
玲は片膝をつく。
「神楽坂!」
場外から蓮司の声が飛ぶ。
「もう星素が残ってねえ。ここまでだ!」
『待て』
空が蓮司を制した。
玲は片膝をついたまま、顔を上げている。
その目は、まだ空だけを見ていた。
『こいつは終わってねえ』
玲は床へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
身体は既に限界へ近づいている。
それでも、ここで終わるわけにはいかなかった。
碧の言葉が蘇る。
『玲が間違えたときは、私が支える。私が間違えたときは、玲に支えてほしい』
碧は、自分一人で立つことを求めているのではない。
誰の助けも借りずに戦えと言っているのでもない。
玲を信じて、隣へ置いている。
だからこそ。
守られるだけの存在ではいたくない。
碧が手を伸ばしてくれることを当然だと思い、その手を待つだけの自分にはなりたくない。
いつか碧が倒れそうになったとき。
その身体を支えるのは、自分でありたい。
「空隊長」
『なんだ』
「次で、終わらせます」
空の目に、鋭い光が宿る。
『やってみろ』
玲は残された星素を引き出した。
広げない。
空間へ流さない。
ただ一つの対象へ、すべてを集中させる。
空が腰を落とした。
玲の正面から、姿が消える。
右ではない。
左でもない。
背後へ回り込む動きでもない。
空は最短距離を一直線に踏み込み、玲との間合いを消した。
玲の視界を、空の姿が埋め尽くす。
右拳が振り上げられる。
避けられない。
絶対静界を広げても間に合わない。
玲は動かなかった。
空だけを見つめる。
空の拳が迫る。
玲の顔へ届く、その直前。
「絶対静界――朱」
空の拳が止まった。
玲の眼前。
あと数センチの位置で、完全に静止している。
右腕だけではない。
踏み込んだ脚。
前へ傾いた身体。
衝撃で揺れていた金髪。
獅堂空という一人の星能者、そのすべてが動きを失っていた。
訓練場の空気は流れている。
床を滑る砂埃も止まっていない。
場外にいる蓮司たちも動くことができる。
止まっているのは、空だけだった。
「空隊長が……」
誰かが呟く。
蓮司も言葉を失っていた。
四万Stの物理系を圧倒した極星。
力も、速度も、耐久も、すべてが物理系の頂点にある獅堂空。
その動きが、完全に奪われている。
玲は空を見つめた。
空は動かない。
速度で逃れることも。
力で振り払うこともできない。
「やっと……」
玲が一歩、空へ近づく。
「届きました」
その口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
次の瞬間。
玲の意識が途切れた。
全身から力が抜ける。
絶対静界・朱が解除され、玲の身体が前へ傾いた。
動きを取り戻した空が、倒れる玲を両腕で受け止める。
『玲』
返事はない。
玲は既に意識を失っていた。
呼吸を確かめた空が、小さく息を吐く。
『……今のは』
空は玲を抱いたまま、自分の右腕へ目を落とす。
『空間を止めたんじゃねえ。あたしだけを止めたのか』
これまで空にとって、神楽坂玲は天城・イワノワ・碧の傍らに立つ星能者だった。
絶対静界を持つ、碧の優秀な相棒。
だが、今は違う。
空の腕の中にいるのは、僅かな時間とはいえ、極星の動きを完全に奪った一人の星能者だった。
『……玲』
初めて、その名だけを見て呼ぶ。
『次は、倒れる前に完成させろ』
意識を失った玲に、その声は届かない。
『そのときは、あたしも本気で相手してやる』
空は腕の中の玲を見つめる。
その顔には、驚きでも獰猛さでもない。
次に戦うとき、この星能者がどこまで自分へ迫るのか。
それを心から待ち望むような、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。




