十七話「守られる者」
アストラ本部、森羅隊執務室。
神楽坂玲は、自分が提出した任務報告書を読み返していた。
既に承認された報告書である。
修正する必要はない。
それでも玲は、同じ箇所から先へ進めずにいた。
自分が下した判断。
その結果、碧が前へ出なければならなくなった。
『玲』
向かいの席から声をかけられ、玲が顔を上げる。
「はい、碧様」
『昨日から、何度も同じ報告書を見ているね』
天城・イワノワ・碧は、責める様子もなく玲を見つめていた。
「……私の判断が正しければ、碧様にご負担をかけずに済みました」
『そうかもしれない』
碧は淡々と答えた。
玲は視線を落とす。
その様子を見て、碧が静かに言葉を続ける。
『でも、あの任務で玲が判断を誤ったことと、私が玲を信頼していることは別の話だ』
「ですが――」
『次に必要な場面が来れば、私はまた玲へ指揮を任せる』
玲が顔を上げる。
碧の表情は、いつもと変わらない。
慰めるために口にした言葉ではなかった。
『玲の判断が常に正しいとは思っていない。私の判断も同じだ』
「碧様が、ですか?」
『もちろん』
碧は僅かに首を傾けた。
『私が迷ったとき、玲が意見をくれたことは何度もある。玲が見つけ、私が見落としていたものもある』
玲には思い当たる場面があった。
だが、それを碧が失敗だと認識していたとは思っていなかった。
『玲が間違えたときは、私が支える』
碧の声は穏やかだった。
『私が間違えたときは、玲に支えてほしい』
「私が……碧様を」
『うん』
碧は迷うことなく頷いた。
『私はそのつもりで、玲を隣に置いている』
玲は答えられなかった。
碧は自分を守らなければならない存在だと思っているのではない。
互いに支え合う相手として、隣へ置いている。
その信頼が、今の玲には重かった。
嬉しくないはずがない。
碧に必要とされることは、玲が何より望んできたことだった。
だからこそ。
その信頼へ、自分は本当に応えられているのか。
玲の中に残っていた疑問は、消えるどころか、さらに深くなっていた。
◇
同日、午前。
森羅隊の訓練が開始された。
複数の状況が同時に発生することを想定した指揮訓練。
玲は訓練場全体を見渡し、隊員たちへ指示を送っていた。
「前方の対応を優先してください。右側はまだ持ちます」
「了解!」
「後方の二名は移動を。正面へ集まりすぎています」
玲の指示を受け、隊員たちが配置を変える。
碧は隊員たちとともに訓練へ参加していたが、玲の判断には口を挟まなかった。
玲も碧の動きだけを追わない。
訓練場全体を見て、必要な場所へ必要な人員を動かしていく。
やがて、訓練終了を告げる音が鳴った。
想定されていた目標は、すべて達成されている。
「終了です。各自、星素残量を確認したあと休憩してください」
隊員たちが緊張を解く。
玲は小さく息を吐いた。
大きな判断の遅れはなかった。
碧に助けられることもなく、最後まで指揮を執ることができた。
『お疲れさま、玲』
「碧様も、お疲れさまでした」
『いい指揮だった』
「ありがとうございます」
玲は頭を下げる。
失敗を引きずり、何もできなくなったわけではない。
次は間違えない。
そのために考え、訓練し、備えることもできる。
それでも、胸の奥にあるものは晴れなかった。
今日、自分の指揮が成立したのは、訓練だったからではないのか。
本当に命が懸かった状況で。
自分の判断一つに、仲間の生死が委ねられたとき。
また碧に頼らずにいられるのか。
◇
訓練を終えた玲は、執務室へ戻る途中で九条桜と奏の姿を見つけた。
『玲。お疲れさまです』
「桜隊長。奏さんも、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
奏は普段と変わらない様子だった。
先日の任務で大量の星素を消費した影響も、既に残っていないように見える。
「奏さん。一つ、聞いてもよろしいですか」
「はい」
「先日の任務で、リプレイを使ったと聞きました」
奏の表情が僅かに変わる。
「……はい」
「危険な状態だったとも」
『奏がいなければ、全員が崩落へ巻き込まれていました』
桜の言葉に、奏が視線を落とす。
「ほかに方法がなかったんです」
「怖くはなかったのですか」
奏は少し考えてから答えた。
「怖かったです」
迷いのない答えだった。
「失敗するかもしれなかったし、途中で星素が尽きるかもしれませんでした」
「それでも、使ったのですね」
「桜隊長たちに死んでほしくなかったからです」
奏が桜を見る。
桜もまた、静かに奏を見つめ返していた。
「自分が皆さんを守らなければならないとは、思いませんでした」
「では、なぜ?」
「目的は、私が守ることではありません。全員が助かることです」
玲は僅かに目を見開いた。
「私一人でできないなら、桜隊長たちに助けてもらいます。私にできることがあるなら、私がやります」
奏の言葉は単純だった。
誰が守る側で、誰が守られる側なのか。
奏は、そこにこだわっていない。
必要ならば助けを求める。
必要とされれば、自分の持つ力をすべて使う。
「奏さんは、強いですね」
「私がですか?」
奏は不思議そうに自分を指した。
『ええ。奏は強いですよ』
「桜隊長まで……」
奏が困ったように眉を下げる。
玲は二人へ一礼し、その場を離れた。
奏の考えは正しい。
全員が生きて帰ること以上に、大切なものなどない。
助けられることは、恥ではない。
玲も、それは分かっている。
碧に助けられることが嫌なのではなかった。
碧に守られることを当然だと思い、最初からその手を当てにする自分になりたくない。
碧が自分を隣に置いてくれているからこそ。
その隣で、守られることしかできない存在ではいたくなかった。
◇
午後。
玲は一人で、過去の戦闘記録を確認していた。
画面に映っているのは、獅堂空。
空が地面を蹴った瞬間、映像からその姿が消える。
次の記録では、既に敵の背後へ立っていた。
別の映像を再生する。
そこでも同じだった。
攻撃を認識してから防ぐのでは間に合わない。
動き始めてから絶対静界を展開しても、空は既にそこにはいない。
広い空間を止めれば、逃げ場は奪える。
だが、空を捉え続けるには、それだけの範囲を維持しなければならない。
消費する星素も膨大になる。
玲は映像を巻き戻した。
空が踏み込む。
消える。
現れる。
もう一度。
踏み込む。
消える。
現れる。
玲は映像を止めた。
空を止めるには、空より速く動く必要はない。
必要なのは、空が動いたあとに追うことでもない。
玲は端末を閉じる。
椅子から立ち上がったとき、その目に迷いは残っていなかった。
◇
アストラ本部、第八訓練場。
空は壁際に立ち、天衝隊員たちの訓練を眺めていた。
床を蹴る音。
拳と防具がぶつかる音。
飛び交う星素を目で追いながら、ときおり短い指示を飛ばしている。
『踏み込む前に相手を見るな。次にどこへ動くかバレてんぞ』
「はい!」
『そっちは力みすぎだ。肩の力抜け』
「了解!」
空の言葉を受け、隊員たちが再び動き始める。
その様子を見つめていた空が、訓練場の入口へ顔を向けた。
神楽坂玲が立っている。
『玲?』
玲は訓練の邪魔にならないよう、入口の脇で待っていた。
『どうした。碧と一緒じゃねえのか?』
「空隊長に、お話があります」
玲の声は、いつもと変わらず落ち着いている。
だが、その表情には固い決意があった。
空は訓練中の隊員たちへ声をかける。
『十分休憩だ。水分取っとけ』
「了解!」
隊員たちが訓練場の端へ下がっていく。
空は玲の前まで歩み寄った。
『それで、話ってのは?』
玲は真っ直ぐに空を見上げる。
「空隊長。私と、一対一で戦ってもらえませんか」
『……お前が、あたしと?』
空の表情から、僅かに笑みが消えた。
「はい」
『勝てると思ってんのか?』
玲は一瞬だけ唇を結んだ。
勝てるなどと虚勢を張るつもりはない。
「思っていません」
その言葉とは裏腹に、玲の目に諦めはなかった。
空の目が僅かに細くなる。
『なら、なんでだ』
「このままでは、また碧様に助けられます」
玲の拳に、力がこもる。
『助けられんのが嫌なのか?』
「違います」
玲は即座に否定した。
「碧様に救っていただけることを、当然だと思う自分になるのが許せないんです」
握り締めた拳が震えている。
「碧様の隣に立つ以上、守られるだけの者ではいたくありません」
空は、しばらく玲を見つめていた。
神楽坂玲が、勝てないと分かっている相手へ自分から戦いを申し込む。
それがどれほどの覚悟を意味するのか、空にも分かっていた。
やがて、空の口元が大きく持ち上がる。
『おもしれぇ。やろう』
空は即座に戦術通信端末を起動した。
◇
同時刻、第十二訓練場。
堂前蓮司たちは、対人戦を想定した訓練を行っていた。
床や壁へ打ち込まれた杭から鎖が延び、訓練場の各所を区切っている。
その最中、蓮司の戦術通信端末が作動した。
《おい蓮司! 今すぐ第十二訓練場を開けろ!!》
「今使ってんだよ」
《なら、すぐ終わらせろ》
「お前、今度は何を始める気だ」
《玲と一対一でやる》
「神楽坂と?」
《ああ》
「なんでそんな話になってんだよ」
《玲から申し込んできた》
蓮司の動きが止まった。
「……神楽坂が、自分から?」
《そう言ってんだろ》
蓮司は短く息を吐いた。
神楽坂玲が、自分から空へ一対一の勝負を申し込む。
それだけで、ただの訓練ではないことが分かる。
「分かった。開ける」
《早くしろよ》
「ただし、神楽坂を壊すな。訓練場もだ」
《玲は壊さねえよ》
「訓練場もだっつってんだろ」
《そっちは知らねえ》
「おい!」
空は一方的に通信を切った。
蓮司は応答の消えた端末を見つめ、深いため息をつく。
「……また大変なこと始めやがったな、あいつ」
周囲へ展開されていた鎖が、星素の粒子となって消えていく。
「訓練は中止だ。全員、片づけろ」
「何かあったんですか?」
「ここで空隊長と神楽坂が一対一でやる」
隊員たちの動きが、一斉に止まった。
「空隊長と……神楽坂副隊長が?」
「ああ。巻き込まれたくなかったら急げ」
その一言で、全員が慌ただしく撤収を始めた。
◇
第八訓練場。
通信を終えた空が、玲へ顔を向ける。
『第十二を空けさせた。行くぞ』
「はい」
空が先に歩き出す。
玲は、その背中を追った。
第十二訓練場は、屋内訓練施設の中で最も頑丈に造られている。
空が戦うなら、ほかの場所では保たない。
勝てるとは思っていない。
それでも、ただ負けるために挑むつもりはなかった。




