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Alexandrite  作者: 宮原 ソラ
マリー兄小話
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空蝉

※ルーがサヴァナに再会する以前の話です。

※三人称で書いています。


 遠い遠い、遥か彼方の異国の地に、空蝉、と呼ばれる古い物語がある。


 薄衣一枚残して()の人は立ち去った。だが、薄衣一枚でも残していってくれたのならマシではないか、と、ルーフレインなどは思うのだ。

 彼が捕まえたい女性は、鮮やかなまでに何一つ残さなかった。あの日、恥も外聞もかなぐり捨てて、宿中の人間に彼女が消えた方角を確かめてみたが、それすらも定かではなかった。

 本当に、黒い髪の女は夢か幻のように掻き消えてしまったのだ。夢や幻で終わらせるにはあまりにも生々しい痕跡を、焼印のごとくルーフレインの身と心に刻みつけて。


「教授! ピアソン伯! レポート用紙の上で染め物でもする気ですか!」


 教授秘書のジーナの悲鳴に、はっとする。学生から預かったレポート用紙の上に、手に持ったペンの先からインクがぼたぼたと漏れ落ちていた。

 しまった、とペンを慌ててインク瓶に突っ込んだが、時すでに遅かった。直し途中の論文が、青黒く斑に染まっている。

 ルーフレインはとっさに作成者の生徒の氏名を見た。よく質問に来る真面目な学生の名が記されてあった。

 後で有名店の菓子折りでも持って詫びに行こう、と彼は思った。いや、昼飯か晩飯でも奢ってやった方が喜ぶか……。

 いずれにせよ、人が苦労して作った提出物を不注意で台無しにするなど、曲がりなりにも教育者の立場にいる人間がやって良いことではない。


「教授……。なんかこの間から変ですよ。今みたいな妙な失敗は増えるし、時々明らかに上の空ですし」

「変、ね……。さしずめ俺はどう見える」

「そうですねぇ。重度の恋煩い、っていったところでしょうか」

「……!」


 さらりと返された答えに、ルーフレインは飲みかけていた茶を危うく吹き出しそうになった。吹いたらご自分で片づけて下さいね、と、追い打ちをかけるようにジーナの容赦のない一言が飛んでくる。


「雑用は教授秘書の仕事だろ……」

「他人の吹いたお茶の掃除は仕事のうちには含まれませんよ。まぁ、もっとバッチイもの普段から見て触っていますから? 別にいいですけどね」


 ジーナは三児の母だ。十歳、六歳、四歳の子供がいる。もう一人腹に入っているのではないかという豊満な体型の持ち主で、ルーフレインは採用面接の際、妊婦はちょっと……と断りを入れて、彼女に猛烈に怒られた苦い経験があった。

 罪悪感からとりあえず試用してみたら、ジーナは非常に優秀な秘書だった。雑用以外にも、研究の手伝いもむしろ楽しそうに引き受けてくれる。

 ジーナにしてみても、伯爵なんてどんな鼻持ちならない人種かと思ったら、ルーフレインは明るく気さくな性格だった。子供が熱を出した時、すぐ帰れ、と言って自分の馬車に彼女を放り込み、自宅まで送ってくれたことには驚いた。

 ジーナの貴族に対する偏見は、このルーフレインで百八十度変わったと言っても過言ではない。


「どこのどなたです? 若き物理学者を思い悩ませる羨ましい女性は」

「それがわからんから思い悩んでいる」

「は?」

「手掛かりは黒髪黒目の美女、ってだけなんだ。年のころはたぶん二十代の半ばくらい……」

「何ですか、その曖昧な手掛かりは」

「あ。あと、クヴェトゥシェ人との混血らしい」

「友好国のクヴェトゥシェ人との混血なんて、いったいフェルディナンドに何人いると思ってるんですか。私だって四分の一入っていますよ」

「嘘だろ……。あの美女と君が同一民なんて信じたくない」

「私だって痩せていた時は美女だったんです。……で、その黒髪の美人とはどういう切っ掛けで?」


 行きずりでベッドを共にした、などとはおくびにも出さず、単に街で知り合った一目惚れの相手なのだとルーフレインはジーナに語った。

 子供が何人生まれようと、夫が何人入れ替わろうと、女性はこの手の話が大好物のようで、ロマンスですね! と秘書はあくまでも嬉しそうである。


「そういえば、クヴェトゥシェの音楽と料理を楽しめる酒場があるんですよ。どなたか誘って行ってみてはいかがです?」

「俺が探しているのはクヴェトゥシェハーフの美女であって、音楽でも料理でもない」

「頭は良いのに、どうしてこういう事だけ知恵が回らないのでしょうねぇ……うちの教授は。クヴェトゥシェの屋台で麺を啜るような人ですよ? 同じくクヴェトゥシェ所縁の店に出入りしていたって不思議はないでしょうに」

「教えてくれ! その店!」


 意気込んで立ち上がった拍子に、若き物理学者は机の脚を蹴飛ばした。インクをたっぷりと湛えた瓶が、半ば飛ぶように倒れる。幸い生徒のレポート用紙に被害はなかったが、天板の一部と床がたちまち黒く染まった。

 ジーナに叱られると思い、ルーフレインは反射的に首を竦めたが、有能な秘書は溜息を吐いただけだった。新聞紙と雑巾を持ってきて、手際よく片付け始める。


「教授」

「何だ……」

「早くその黒髪の美女見つけて下さい」

「俺だってそうしたい」

「この調子ですと、そのうちとんでもない大失敗をやらかしますよ。インク瓶ひっくり返すくらいで済んでいるうちに、早々に憂いの元を断つのです」

「……俺は集中力を欠いていると思うか」

「はっきり言います。欠きすぎです」

「……だよな」

「そこで落ち込まないで下さい。必要とあらば学院長や理事にも容赦なく食ってかかる人が、なんて体たらくですか」

「仕方ないだろ。こんな事は初めてなんだ」

 ルーフレインは、眉間に寄った皺を伸ばすように手で揉んだ。どれほど難しい物理の難問を前にしても、ここまで途方に暮れたことはなかったように思う。

「どうすればいいかわからない……」


 行動あるのみですよ、と、ジーナが笑った。

 

「どんなに無駄に思える実験だって、ピアソン教授は骨身を惜しまず取り組むじゃないですか。恋愛だって同じです。本当に欲しいなら、貪欲に当たって行かないと成功はしませんよ」


 そういえば、恋愛に関しては貪欲に頑張った覚えはないな、と、ルーフレインは自らの過去を振り返る。

 見た目は「軽い」「遊び人」などと言われることの多いルーフレインだが、実際は、色恋事に関しては極度の面倒くさがりだった。いつも深く考えず受け入れて、そして「あなた本当に私が好きなの!?」と相手を怒らせて終わっていた。

 幸い極めて見目良く生まれついてきたので、恋人に不自由したことはない。女性は何をしなくとも向こうから勝手に寄って来てくれた。その寄ってきた中から、適当に選ぶだけだった。


(……天罰かよ)


 生まれて初めて自分から望んだ相手には逃げられるなんて、皮肉なものだ。


(とりあえず、クヴェトゥシェゆかりの店とやらに行ってみるか……)


 お供に誰を引っ張って行こう?

 やはりここはクヴェトゥシェ語が堪能な妹か。しかし妹を引っ張って行くとなると、もれなくその夫も付いてくる。何が悲しくて目の前で妹夫婦の新婚熱愛ぶりを見せつけられなければならないのだ。むかつく。

 では、学生時代からの腐れ縁カイルにするか。しかし奴は最近赤毛美人の侯爵令嬢と婚約したとかで、人生バラ色真っただ中である。気になる女に逃げられた身としては、そんな腹立たしい輩を協力者に引き入れたくない。


 全く。どういつもこいつも。

 ちくしょう、爆発しちまえ。


「私が一緒に行きます?」

「いや結構。一人で行く。君を連れて行ったら、あのガタイのいい旦那に後ろから襲われかねん」

「一応王宮の兵士ですからねぇ。うちの人。知恵はないけど力はあります。おまけに私にらぶらぶですし。太っても君は綺麗だって言ってくれるんですよぉ。あらやだ、私ったら」

「……不幸なのは俺だけかよ」


 周りが次々幸せになると、何だか取り残されたような気分になるから不思議なものだ。

 切実に、誰かが隣にいて欲しいと思う。


 いや。誰か、ではない。

 いて欲しいのは、ただ一人。

 黒い髪に黒い瞳の、あの夜の女。


(お互い良い夢を見たということで、終わりにしましょう)


 嫣然と微笑んで、薄衣一つ残さず立ち去った……空蝉よりも手強い(ひと)




マリー兄小話第三弾。


ルー小話は場面転換が激しく、一人称が厳しくなってきました……。

違和感あるかもしれません。申し訳ありません;;

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