第89話 水を持つ者、鮭を持つ者
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三百金貨の話が決まっても。
ガロンは。
地面に描いた図面を見たままだった。
「話は終わったか」
「ああ」
「なら」
「次を決めろ」
ガロンは川を指差す。
「誰が水を守る」
次に。
ダンを見る。
「誰が鮭を運ぶ」
最後に。
ロイドへ目を向ける。
「誰が加工所を動かす」
金だけでは。
水路は動かない。
水だけでも。
加工所は動かない。
俺たちは。
再び領主館へ戻った。
◇◇◇
机の上へ。
一枚の紙を広げる。
俺は。
三つの名前を書いた。
ヴォルグ。
イサク。
ダン。
ミリアが覗き込む。
「三人で経営するんですか?」
「違う」
「役割を分ける」
ヴォルグの名前の横へ書く。
資金。
職人。
水路。
「ヴォルグには」
「職人と共に」
「水路と水車を造ってもらう」
「維持は」
「イサクと二人だ」
次に。
イサク。
販売。
塩。
樽。
運搬。
「ラング商会には」
「加工に必要な物を揃え」
「完成した鮭を売ってもらう」
最後に。
ダン。
鮭。
漁師。
川。
「ダンには」
「鮭と川を任せる」
ミリアが首を傾げた。
「でも」
「ダンさんは」
「お金を出していませんよ?」
ダンの眉が動く。
「違います!」
「そういう意味ではなくて!」
俺は紙を指した。
「元手は」
「金だけじゃない」
「鮭がなければ」
「水路も加工所も」
「何の価値もない」
ヴォルグが小さく笑う。
「その通りじゃ」
「水だけ流しても」
「金にはならん」
ダンがヴォルグを見る。
「鮭だけあっても」
「今のままじゃ腐る」
二人の視線がぶつかった。
水を持つ者。
鮭を持つ者。
どちらが上でもない。
どちらか一方では。
何も始まらない。
◇◇◇
「では」
ミリアが手を挙げた。
「誰が一番偉いんですか?」
イサクが笑う。
「普通」
「それを本人たちの前で聞くか?」
「大事なことです!」
俺は答えた。
「誰もだ」
「え?」
「誰か一人では」
「何も決められない」
水路の条件を変えるには。
ヴォルグとイサクの同意がいる。
だが。
二人が何を決めても。
ダンたちが鮭を出さなければ。
加工所は動かない。
逆に。
鮭があっても。
水路が止まれば加工できない。
「三人とも」
「一人では何もできない」
「だから」
「一人がすべてを握ることもない」
ヴォルグが俺を見る。
「ずいぶん」
「面倒な形にしたものじゃ」
「ああ」
「面倒だからいい」
「簡単に決められる仕組みは」
「簡単に奪える」
ダンが黙って紙を見つめた。
十年前。
決めた者と。
鮭を獲った者は。
別だった。
今回は違う。
鮭を持つ者を。
最初から外さない。
◇◇◇
イサクが腕を組んだ。
「鮭は」
「ラング商会へ売ってもらえるんだろうな」
ダンの表情が変わる。
「全部とは言わねえ」
「おい」
「待て」
俺は二人を止めた。
「まず」
「ロイドとの五千匹は」
「今まで通りだ」
「あの契約は変えない」
ロイドが頷く。
「今話しているのは」
「それを超えた分だ」
「加工所で新たに扱う鮭は」
「まずラング商会へ話を通す」
「価格が合えば」
「ラング商会が買う」
「合わなければ?」
イサクが聞く。
「漁師が決める」
イサクが顔をしかめる。
「優先権はあるが」
「独占ではないということか」
「ああ」
「十年前と同じ契約にはしない」
ダンが俺を見る。
「獲る量も」
「こっちで決める」
「もちろんだ」
「川と鮭を知らない者が」
「漁獲量を決めるべきじゃない」
イサクは。
すぐには答えなかった。
やがて。
小さく息を吐く。
「分かった」
「鮭が消えれば」
「うちも困る」
ダンが頷く。
握手はしなかった。
だが。
それで十分だった。
◇◇◇
「ところで」
ミリアが。
紙の三人の名前を指差した。
「イサクさんは」
「鮭を買うんですよね?」
「ああ」
「では」
「水路の使用料を上げたら」
「自分も困るのでは?」
イサクが口を開く。
だが。
その前に。
ヴォルグが笑った。
「ようやく」
「少しは頭が回るようになったか」
「少しとは何ですか!」
「褒めておる」
「絶対に違います!」
イサクは苦笑しながら。
ヴォルグを見る。
「そういうことだ」
「好き勝手にはできん」
「爺さんも同じだ」
ヴォルグは答えなかった。
ただ。
楽しそうに笑っていた。
◇◇◇
扉の横で。
話を聞いていたガロンが。
ようやく口を開いた。
「決まったか」
「ああ」
「なら」
「明日から始める」
全員がガロンを見る。
「もうですか?」
ミリアが声を上げる。
「今年の鮭は終わった」
ガロンは窓の外を見た。
「次の鮭は」
「来年の秋に来る」
「それまでに」
「全部を終わらせる」
ミリアが首を傾げた。
「一年もあるじゃないですか」
「ない」
ガロンは即答した。
「加工所は」
「夏のうちに試運転が必要だろう」
「冬は」
「土が凍る」
「春は」
「雪解けで川が暴れる」
「今のうちに」
「取水口と水路を」
「形にしておかなければ」
「来年の鮭には」
「間に合わん」
一年。
全部が一年遅れる。
借金を抱えたバルドにとって。
一年は。
命取りだ。
ミリアが青い顔で呟いた。
「一年あるのに」
「一年ないんですね……」
「そういうことだ」
ガロンは図面を取った。
「木を集めろ」
「石を運べ」
「川を知る者を出せ」
「水路を掘る者もいる」
ヴォルグが立ち上がる。
「職人は」
「ノースから呼ぼう」
イサクも続く。
「木材と鉄具は」
「こちらで揃える」
ダンは短く言った。
「川は」
「俺が見る」
ロイドが図面を持ち上げた。
「加工所は」
「俺が見る」
ダレンはすでに。
必要な人数を書き始めている。
ミリアも立ち上がった。
「私は?」
全員が止まる。
「私にも」
「何かありますよね?」
俺は少し考えた。
「人を集めてくれ」
ミリアの顔が明るくなる。
「任せてください!」
「ただし」
「勝手に人数を増やすな」
「信用がない!」
部屋に。
久しぶりに笑い声が戻った。
◇◇◇
翌朝。
俺たちは。
再び川辺に立っていた。
ガロンが。
最初の杭を手にする。
その場所は。
加工所の予定地ではない。
水が。
最初に通る場所だった。
ガロンは杭を打つ。
カン。
乾いた音が。
川辺に響く。
ヴォルグとイサクが水を持つ。
ダンが鮭を持つ。
ロイドが加工所を動かす。
そして。
誰一人。
一人では完成させられない。
「始めるぞ」
ガロンの声とともに。
来年の秋へ向けた戦いが。
始まった。
空を見上げる。
秋の雲が。
北から流れてきていた。
土が凍るまで。
あとどれだけあるのか。
それを知っているのは。
空だけだった。
(第90話 雪が来る前に)
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