第88話 三百金貨の水
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三百金貨。
誰も。
すぐには言葉を出せなかった。
今の予算へ。
さらに三百金貨を上乗せする。
簡単に用意できる金額ではない。
橋の管理権を売り。
領主館まで手放した。
ようやく。
加工所を建てられるところまで来た。
だが。
水路と水車がなければ。
加工所は動かない。
「ならば」
ヴォルグが。
地面に描かれた図面を見ながら言った。
「その三百金貨」
「わしが出してやろう」
「何?」
思わず声が出た。
ミリアもヴォルグへ詰め寄る。
「持っているんですか!?」
「ああ」
「今ここに!?」
「三百金貨を持ち歩く馬鹿がおるか」
「では」
「どこから出すんですか?」
「そのくらいなら」
「ノースから一日で届く」
ヴォルグは。
何でもないことのように答えた。
鉱山の男の桁は。
俺たちと違う。
「ただし」
やはり。
続きがあった。
ヴォルグは俺を見た。
「お前さんの考えたやり方を」
「使わせてもらう」
「俺のやり方?」
「橋じゃ」
ヴォルグは杖で。
地面の水路をなぞった。
「金を出す代わりに」
「権利を預かる」
「その代わり」
「三年間」
「水路と水車の管理権を」
「わしに譲れ」
部屋の空気が変わった。
いや。
ここは川辺だ。
それでも。
空気が変わったのが分かった。
水路と水車。
それは加工所の生命線だ。
水が止まれば。
鮭も。
加工も。
全部が止まる。
「待て」
イサクが前へ出た。
「爺さん」
「それはうちも欲しい」
「水路の使用料は」
「加工が増えるほど育つ商売だ」
「うちは鮭を売る側だぞ」
「水まで握られてたまるか」
ヴォルグは動じない。
「では聞くが」
「儲けの見えん水路に」
「三百金貨を即金で出せるのか」
イサクが詰まる。
「それに」
ヴォルグは俺へ向き直った。
「領主殿」
「一昨日のことを」
「もう忘れたわけではあるまいな」
「領主館のことか」
「ああ」
ヴォルグは穏やかに笑っていた。
「橋の管理権は」
「ラングの商人へ渡した」
「わしが買ったのは」
「ボロ屋敷だけじゃ」
「儲けの薄いものだけ」
「わしに払わせて」
「利益を生む権利は」
「別の商人へ渡す」
「それでは」
「少々」
「筋が通らんのではないか?」
「それにな」
ヴォルグの声が低くなる。
「あの時の貸しも」
「あったのう」
ガロンの紹介。
金額を決めなかった貸し。
早くも。
取り立てに来た。
「貸しを返せと言っているのか」
「どう解釈するかは」
「領主殿に任せるよ」
ミリアが俺とヴォルグを交互に見る。
「完全に脅しですね」
「人聞きの悪い娘じゃ」
「いや、そうでしょう!」
「元気なのは良いことじゃ」
完全に子供扱いだった。
◇◇◇
俺は考えた。
ヴォルグに全部を渡せば。
水を握られる。
イサクに渡せば。
ヴォルグは金を引く。
職人も引くかもしれない。
どちらか一方。
それを決めること自体が。
間違っている気がした。
だが。
答えが出ない。
その時だった。
「いい加減にしろ」
低い声だった。
川の音の中でも。
はっきりと聞こえた。
ダンだった。
こちらを見ず。
川を見たまま立っている。
「水だ」
「権利だ」
「金だ」
一つずつ。
吐き捨てるように言った。
「やってることは」
「十年前と」
「同じじゃねえか」
誰も。
言葉を返せなかった。
ロイドの顔から笑みが消えた。
イサクも黙ってダンを見ている。
十年前。
鮭を獲る者を置き去りにして。
金と権利だけが取引された。
その結果。
バルドは借金を背負い。
町は壊れた。
「領主」
ダンが俺を見た。
「あんたは頭がいい」
「だが、私欲がないだけで」
「考え方は」
「あいつらと同じになりかけてる」
胸を突かれた。
その通りだった。
俺も。
水路の管理権を誰へ渡すかしか考えていなかった。
誰が金を出すか。
誰が水を管理するか。
誰が使用料を受け取るか。
そればかりだ。
「水車があっても」
ダンが言った。
「水が流れても」
「鮭がなけりゃ」
「何も動かねえ」
地面に描かれた図面を。
静かに指した。
「半分ずつにしろ」
ヴォルグの眉が動く。
「何をじゃ」
「金も」
「権利もだ」
それだけだった。
説明も。
説得もない。
ダンはヴォルグとイサクを見る。
「そうしないなら」
声がさらに低くなる。
「俺は」
「鮭を出さない」
脅しではなかった。
ダンは本当に鮭を出さない。
十年前。
自分たちの鮭を。
自分たちの知らないところで値踏みされ。
奪われ。
すべてを失った男だ。
ヴォルグもイサクも黙っていた。
ダンはそれ以上何も言わなかった。
再び川へ目を戻した。
◇◇◇
だが。
その一言で。
俺の中にあったものがつながった。
ダンは。
契約の仕組みを提案したわけではない。
バルドを救うには加工所が必要。
それを分かった上で。
言ったのだ。
誰か一人に。
加工所の生命線を握らせるな。
鮭を獲る者を。
もう二度と置き去りにするな。
一人へすべてを渡すから。
危険になる。
ならば。
俺は考えた。
皆の視線が集まる。
◇◇◇
一人では。
何も決められない形にすればいい。
「百五十金貨ずつだ」
俺は言った。
全員が俺を見る。
「ヴォルグが百五十金貨」
「ラング商会が」
「百五十金貨を出す」
イサクがすぐに反応した。
「百五十金貨なら」
「用意できる」
ヴォルグは何も言わない。
「水路と水車の管理権も」
「半分ずつだ」
「使用料の利益も」
「修繕費の負担も半分」
「契約期間は三年」
「三年後」
「水路と水車は」
「バルド領へ移す」
ヴォルグが俺を見た。
「二人の主人を持たせるつもりか」
「違う」
「主人を」
「一人にしないという事だ」
俺は地面に二本の線を引いた。
「料金を変える時も」
「設備に手を入れる時も」
「水を止める時も」
「すべて」
「二人の同意が必要だ」
イサクがヴォルグを見る。
「つまり」
「片方だけでは」
「料金一つ変えられない」
「ああ」
俺は続けた。
「合意できなければ」
「今までの条件を維持する」
「一方が反対したからといって」
「水を止めることもできない」
ヴォルグの目が。
わずかに細くなる。
「互いに」
「互いの首へ縄をかけるわけか」
「違う」
俺は答えた。
「互いに」
「縄を引かせないためだ」
長い沈黙。
やがて。
イサクが笑った。
「乗った」
ヴォルグは。
すぐには答えなかった。
杖の先で。
地面の図面を二度叩く。
そして。
「……よかろう」
短く言った。
だが。
その目は。
図面ではなく。
俺を見ていた。
この老人が欲しいのは。
水路でも。
水車でもない。
この土地へ入り込む。
三百金貨の水は。
流れ始めた。
だが。
その水が。
どこへ向かうのかは。
まだ。
誰にも分からなかった。
(第89話 水を持つ者、鮭を持つ者)
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