第86話 水の棟梁
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男は一言も話さなかった。
図面を脇に抱え。
黙って船に乗り込む。
誰も口を開かない。
川の音だけが聞こえていた。
「いよいよですね」
ミリアは期待に胸を膨らませていた。
◇◇◇
予定地へ着くと。
男は岸辺に下り立った。
男は図面を開かなかった。
まず。
川へ近づく。
水を手ですくう。
流れを眺める。
足元の土を握る。
石を拾う。
そして。
空を見上げた。
ミリアが小声で聞く。
「何をしてるんですか?」
ヴォルグが笑う。
「土地と話しとる」
「……土地と?」
「職人は図面ではなく」
「土地を見る」
◇◇◇
男はダンへ近づいた。
「春」
「一番水が多い日は」
ダンは迷わず答える。
「この岩まで来る」
男は頷く。
「一番少ない日は」
「膝くらいだ」
「流れが一番速いのは」
「雪解けだ」
「岸は削れるか」
「毎年な」
短い問答だった。
だが。
二人の間では。
全てが通じていた。
職人と漁師。
言葉より先に。
水を知る者同士だった。
◇◇◇
ようやく。
男は図面を広げた。
俺が昨夜描き直した図面ではない。
最初の図面だった。
ロイドが思わず言う。
「そっちか」
男は初めて口元を緩めた。
「これで良い」
全員が驚く。
ミリアが目を丸くする。
「えっ?」
「でも」
「それじゃ水が流れないって」
男は首を振る。
「流れる」
「水路と水車で十分流れる」
「え!」
俺は驚きで思わず声が出た。
その図面は。
昨日。
全員で無理だと結論を出した図面だ。
川に近づければ春に流される。
川から離せば船が着かない。
高くすれば水車が届かない。
全部確かめた。
全部駄目だった。
◇◇◇
「しかし」
俺は男に聞いた。
「川の水位が変わる」
「川幅も変わる」
「いったいどうすれば」
男は答えなかった。
代わりに。
歩き出した。
川から離れる方向へ。
「あの……」
ミリアが戸惑う。
「川はあっちですよ?」
男は止まらない。
川辺を離れ。
葦の茂みを抜け。
土手を登っていく。
全員が顔を見合わせた。
そして。
慌てて後を追う。
男は土手の上に立った。
川を見下ろす。
予定地を見下ろす。
そして。
さらに奥。
土手の向こう側の平地を見た。
そこは。
川から遠く離れた。
ただの原っぱだった。
男は肩の袋から杭を取り出した。
そして。
おもむろに。
一本打ち込んだ。
カン。
乾いた音が響く。
「土地は変えられん」
もう一本打つ。
カン。
「川も変えられん」
三本目。
カン。
「ここが加工所の入り口だ」
全員が固まった。
ダレンが恐る恐る言う。
「あの……」
「ここ」
「川から離れすぎでは」
ロイドも眉をひそめる。
「船はどうする」
「水はどうする」
「水車を回す水すらないぞ」
男は答えない。
イサクが腕を組んだ。
「爺さん」
「この職人」
「本当に大丈夫か」
ヴォルグは。
ただ笑っていた。
何かを知っている笑いだった。
◇◇◇
男は棒を拾い。
地面へ線を描き始めた。
長い一本の線。
土手を斜めに貫く線。
その先に。
見覚えのある建物の並び。
そして円。
俺は思わず見入る。
あの図面と。
同じ配置だ。
だが。
場所が違う。
全部が。
川ではなく。
この原っぱに描かれている。
男は振り返らない。
「領主」
「図面は悪くない」
「悪いのは」
「図面を川へ合わせたことだ」
男は棒の先で。
長い一本の線を叩いた。
「川へ建物を寄せるな」
そして。
ゆっくりと。
こちらを振り返った。
「水を」
「建物へ連れて来い」
風が土手を渡った。
誰も。
動けなかった。
水を。
連れて来る。
川は動かせない。
それは全員が知っている。
なのにこの男は。
水を連れて来いと言った。
ミリアが呆然と呟く。
「水って」
「連れて来られるものなんですか……?」
男は。
もう何も言わなかった。
ただ。
土手に打った三本の杭が。
夕日に長い影を落としていた。
(第87話 図面は生きている)
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