第2話 税収銀貨八枚の領地
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第2話 税収銀貨八枚の領地
「レオン様。……レオン様」
肩を揺すられて、目を開けた。
荷台の板が、背中に食い込んでいる。
三日。
幌のない荷馬車で、北へ運ばれた。
雨が二度降った。
どちらも、そのまま濡れた。
起き上がろうとして、失敗した。
手が、思ったように動かない。
指の先が、白かった。
「……着いたのか」
「はい」
ミリアが手を差し出した。
俺はそれを取らずに、荷台の縁をつかんで立った。
ミリアの手が、行き場をなくして下りた。
三日のあいだ、必要なこと以外、ほとんど話していない。
灰色の空。
崩れかけた木柵。
荒れた街道。
人影の少ない集落。
手入れされていない畑。
地図で見ていたより、悪い。
衰退した土地には、共通点がある。
人がいない。
金がない。
未来がない。
そして、誰も変えようとしない。
前世なら、こう呼んだ。
赤字案件。
だが、いまの俺は、それを立て直しに来た人間ではない。
押しつけられた債務者だ。
「ようこそバルド領へ」
出迎えた老人が、頭を下げた。
「領主代理のダレンと申します」
「レオン・バルドだ」
「お待ちしておりました」
そう言ったダレンの服は、擦り切れていた。
歓迎の言葉とは裏腹に、袖口が語っている。
この領地に、金はない。
「三代、お待ちしておりました」
ダレンは続けた。
「三人とも、来られました」
「……」
「そして、三人とも、帰られました」
責める口調ではなかった。
天気の話をするような声だった。
そちらのほうが、こたえた。
「領主館へご案内します」
案内された建物を見て、ミリアが足を止めた。
屋根が、一部落ちている。
窓には、板が打ちつけられている。
廃屋だ。
「修繕費がありませんので」
ダレンは、申し訳なさそうにも見えない顔で言った。
「隠さないんだな」
「隠して、何になります」
俺は、少しだけ息を吐いた。
現実を隠さない人間は、扱いやすい。
前世で、そう学んだ。
まだ、そのくらいは考えられるらしい。
◇◇◇
領主館の一室に通された。
暖炉に、火は入っていなかった。
「帳簿を」
俺が言うと、ダレンが一冊を差し出した。
受け取って、開いた。
指が震えていた。
寒さのせいだと思うことにした。
俺が探していたのは、領地の経営状態ではない。
保存食の、受け入れ記録だ。
四万七千食。
伝票の上では、この土地へ運ばれたことになっている。
現物がここにあるなら、俺は横領犯ではなくなる。
ページをめくった。
一分。
二分。
三分。
ない。
保存食の受け入れ記録は、一件もなかった。
この帳簿の上では、四万七千食は届いていない。
俺は、顔を上げた。
考えられる形は、三つだ。
一つ。本当に届かなかった。
どこかで、荷が別の場所へ流れた。
二つ。届いたが、受け入れの記録が消された。
三つ。王都の伝票が、初めから作り話だった。
四万七千食など、最初から存在しない。
どれでも、俺の罪状は変わらない。
だが、調べる場所は、それぞれ違う。
まず、この帳簿が信用できるかどうかだ。
「ミリア」
「はい」
「年間税収を読み上げてくれ」
帳簿を渡した。
ミリアがページに目を落とした。
そして、動きが止まった。
「……銀貨八枚」
「もう一度」
「銀貨八枚です」
「八十枚ではなく」
「八枚です」
「八百枚ではなく」
「八枚です」
ミリアは、そのページを二度読み直した。
書記官の癖だ。
数字が信じられないとき、彼女は必ず二度読む。
三年、隣で見てきた。
いまは、その癖を見ているのが、少し苦しかった。
「負債は」
ダレンが、最後のページを開いた。
「金貨十二万枚」
ミリアが、俺を見た。
「レオン様、それは領地の……」
「俺のだ」
「え?」
「赴任と同時に、領主個人へ移った」
ミリアの顔から、色が消えた。
「……帰りましょう」
小さく、呟いた。
「どこへ」
ミリアが黙った。
「帰る先が、俺にはない」
「私は」
「君にはある」
ミリアは、何も言わなかった。
◇◇◇
俺は、帳簿を遡った。
五年前。
八年前。
十年前。
遡るほど、数字が増えていく。
十二年前。
年間税収、金貨四百枚。
銀貨八枚と比べて、何十倍ではない。
五千倍だ。
この領地は、豊かだった。
そして。
手が止まった。
十二年前の記録の、その先。
ページが、ない。
破れているのではない。
切られている。
綴じ目の際で、刃物で、まっすぐに。
何枚も。
丁寧に。
誰かが、ここだけを抜き取った。
背筋が冷えた。
一瞬、まったく別のものを思い出した。
地下鉄で目を閉じてから、財務省の席で目を開けるまでの間。
あそこも、こういう形をしている。
俺は、首を振った。
疲れている。
関係があるはずがない。
「ダレン」
「はい」
「十二年前に、何があった」
ダレンは、帳簿を見た。
切り口を見た。
そして、口を開きかけて。
閉じた。
「……いろいろ、ありまして」
それ以上は言わなかった。
言えない、という顔だった。
俺は、深追いしなかった。
だが、書き留めた。
この領地は、最初から死んでいたわけではない。
誰かが、殺した。
そして誰かが、この帳簿に手を届かせて、十二年前を切り取った。
何を、読ませたくなかった。
「食料備蓄は」
「三日分です」
「冬まで」
「四十八日です」
俺は、天井を見た。
屋根の穴から、灰色の空が見えた。
「ほかには」
「今月末に、徴税官が参ります」
「払えなければ」
「差し押さえです」
「何を」
「土地と、住民を」
ミリアが息を呑んだ。
「住民まで?」
「前例があります」
ダレンは、それ以上は言わなかった。
部屋が、静かになった。
なるほど。
だから、この土地の人間は、あの顔をしているのか。
未来がないからではない。
奪われる日が、決まっているからだ。
◇◇◇
俺は立ち上がった。
窓の外を見る。
入り江がある。
その向こうに、森。
山。
使われていない土地。
地図で見たとおりだった。
金はない。
だが、資源はある。
三年前の俺なら、ここで図を引き始めていた。
いまは、そこまで手が届かない。
ただ、見えることは見えた。
それだけは、まだ残っているらしい。
「レオン様」
ミリアが聞いた。
「本当に、立て直せるんですか」
俺は、少し考えた。
「分からない」
「え」
「分からない」
もう一度、言った。
三年前なら、できると答えていた。
いまは、言えなかった。
「だが、逃げない」
「……なぜです」
「逃げれば、この土地の人間が差し押さえられる」
俺の借金でだ。
三代前の領主たちには、帰る家があった。
俺には、ない。
それは、この土地にとって、たぶん初めての条件だった。
そのときだった。
扉が、勢いよく開いた。
「大変です!」
若い男が飛び込んでくる。
「何事だ」
ダレンが立ち上がった。
「北の森から、ゴブリンです!」
「またか」
「今度は数が違います!」
「何匹だ」
「五十匹以上!」
部屋の空気が、止まった。
「レオン様」
ミリアの声が、細かった。
「税収、銀貨八枚」
「ああ」
「負債、金貨十二万枚」
「ああ」
「食料、三日分」
「ああ」
「ゴブリン、五十匹」
「ああ」
「……終わってませんか」
俺は、帳簿を閉じた。
「終わっている」
ミリアが、目を見開いた。
「認めるんですか」
「数字がそう言っている」
俺は、立ち上がった。
膝が、少しふらついた。
「だが、終わった帳簿を開くのが、前の仕事だった」
「戦える者は、何人いる」
ダレンが答える。
「十二人です」
十二人。
五十匹。
勝てる数ではない。
だが、逃げれば、その十二人ごと差し押さえられる。
「広場に集めてくれ」
ダレンが、言いにくそうに口を開いた。
「……集まりはするでしょう」
「なんだ」
「従うかどうかは」
ダレンは、目を伏せた。
「この三代で、誰も、従わなくなりましたので」
俺は、上着の裾を直した。
官服ではない。
荷馬車で三日、濡れたままの、ただの布だ。
命令する根拠が、何ひとつなかった。
それでも、扉へ向かった。
北の森が、灰色の空の下で、黒く沈んでいた。
(第3話 戦力十二人、ゴブリン五十匹)
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