第105話 帳簿にいない三十七人
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「帳簿を」
「一冊持ってこい」
俺が言うと。
鉱山管理者が。
首を傾げた。
「今からですか?」
「ああ」
「救助へ向かうのでは?」
「その前に必要だ」
新しい帳簿が。
机の上へ置かれる。
何も書かれていない。
白い紙。
俺は。
最初の頁を開いた。
「ミリア」
「はい」
「線を引け」
「何のです?」
「名前」
「年齢」
「住んでいた場所」
「家族」
「坑道へ入った日」
「負傷の有無」
「帰還確認」
ミリアが。
炭を止める。
「でも」
「三十七人の名前は」
「誰も知らないんですよね?」
「ああ」
「だから」
「空欄を作る」
「空欄?」
「この空欄が」
「すべて埋まるまで」
「救助は終わらない」
◇◇◇
「ヴォルグ」
「何じゃ」
「宣言してくれ」
「何をじゃ」
「今日」
「ノースの鉱山で働いていた者は」
「契約の有無にかかわらず」
「全員」
「正式な鉱夫として扱う」
鉱山管理者たちが。
息をのむ。
「正式に?」
「ああ」
「賃金を保証する」
「怪我の治療費も」
「ノースが払う」
「死亡した場合は」
「家族へ補償する」
「家族がいなければ?」
「本人が指定した者へ払う」
「借金は?」
「ほかの鉱夫と同じく」
「一か月止める」
ヴォルグが。
新しい帳簿を見る。
「三十七人を」
「今から雇うということか」
「違う」
「昨日まで」
「人として数えられていなかった者を」
「今日」
「数え直す」
◇◇◇
ヴォルグは。
集まった鉱夫と。
その家族の前へ立った。
「聞け!」
低い声が。
鉱山の入口へ響く。
「第七坑道にいる者は」
「日雇いではない」
「ノースの鉱夫じゃ」
「契約書がなくとも」
「名簿に名がなくとも」
「今日」
「鉱山で働いていた者は」
「全員」
「わしが雇った者として扱う」
人々が。
顔を上げる。
「賃金は払う」
「借金の取り立ても止める」
「怪我をすれば」
「治療費を払う」
「家族にも」
「必要な金を出す」
「だから」
ヴォルグは。
第七坑道を見る。
「必ず」
「生きて戻れ」
◇◇◇
鉱夫たちは。
すぐには声を上げなかった。
信じてよいのか。
分からない顔をしている。
ヴォルグが。
腰から印章を外した。
新しい帳簿の。
最初の頁へ。
強く押しつける。
ノース鉱山。
総責任者。
ヴォルグ。
赤い印が。
白い紙へ残った。
「これで」
「逃げられませんよ」
ミリアが言う。
「ああ」
「わしがな」
ヴォルグは。
小さく笑った。
◇◇◇
救助班が。
排水路へ入った。
先頭は。
第七坑道を知る鉱夫。
その後ろに。
盾を持つ兵士。
さらに。
名前を書き取るための。
鉱山管理者が続く。
「管理者も行くんですか?」
ミリアが聞く。
「ああ」
「三十七人を」
「帳簿の外へ置いた者だ」
「自分の目で」
「一人ずつ確認させる」
「罰ですか?」
「仕事だ」
◇◇◇
救助班が入ってから。
半刻。
坑道の奥から。
金属音が響いた。
コン。
コン。
二回。
音は聞こえている。
だが。
救助班からの報告はない。
「遅いですね」
ミリアが言う。
「ああ」
「ゴブリンは?」
「九十一匹のままです」
「増えてはいない?」
「はい」
だが。
減ってもいない。
坑道の奥には。
まだ。
九十一匹がいる。
◇◇◇
やがて。
排水路から。
一人の伝令が戻った。
「三十七人を」
「発見しました!」
周囲から。
安堵の声が上がる。
「全員生きているか」
「負傷者はいます」
「ですが」
「全員返事をしました」
「名前は?」
伝令が。
折り畳んだ紙を出す。
「最初の十二人です」
ミリアが。
新しい帳簿を開く。
「読みます」
「オットー」
「三十八歳」
「家族は?」
「妻が一人」
「子どもが三人」
ミリアが。
一つずつ書く。
「次」
「マルク」
「二十五歳」
「住まいは?」
「西の共同宿舎」
「家族は?」
「故郷に母親が」
「名前は?」
「分かりません」
「空欄にするな」
俺は言った。
「本人が戻ってから聞く」
「はい」
◇◇◇
十二人。
名前。
年齢。
家族。
住まい。
働き始めた日。
これまで。
どこにも残っていなかった情報が。
帳簿へ刻まれていく。
ミリアの手が。
止まる。
「レオン様」
「何だ」
「この人」
「名前を言いたくないと」
伝令が。
困った顔で頷く。
「借金取りに」
「見つかるからだそうです」
「伝えろ」
「これは」
「取り立てるための帳簿ではない」
「では」
「何のためです?」
ミリアが聞く。
「帰ってきたことを」
「確かめるためだ」
◇◇◇
二度目の伝令が。
戻ってくる。
さらに十三人。
帳簿の空欄が。
埋まっていく。
二十五人。
残り十二人。
その時。
坑道の奥から。
ゴブリンの叫び声が響いた。
「来ます!」
排水路の入口を守る兵士が。
盾を構える。
暗闇の向こう。
赤い目が。
一つ。
二つ。
次々と現れる。
「入口を狭めろ!」
鉱石用の荷車を。
横へ倒す。
鎖でつなぐ。
通れる幅を。
一人分だけ残す。
ゴブリンが。
荷車へ飛びつく。
槍が。
隙間から突き出される。
一匹。
倒れる。
だが。
後ろから。
さらに押し寄せる。
「救助班は!」
「まだです!」
「何人戻った!」
「まだ誰も!」
ここを抜かれれば。
三十七人の退路が。
消える。
「追うな!」
俺は叫ぶ。
「入口だけ守れ!」
「一匹倒すより」
「一刻稼げ!」
◇◇◇
槍が。
何度も突き出される。
盾が。
ゴブリンの爪を受ける。
荷車が。
大きく揺れた。
「鎖が切れます!」
「予備を回せ!」
「ありません!」
「鉱石を載せろ!」
「重くして」
「動かなくする!」
近くに積まれていた鉱石が。
荷車へ投げ込まれる。
一つ。
二つ。
十個。
荷車が。
地面へ沈む。
ゴブリンが押しても。
動かなくなった。
「持ちます!」
「そのまま守れ!」
◇◇◇
排水路から。
声が聞こえた。
「戻ります!」
最初の男が。
這うように出てくる。
「名前を!」
ミリアが叫ぶ。
「オットー!」
「確認!」
帳簿の。
帰還欄へ。
印をつける。
二人目。
「マルク!」
「確認!」
三人目。
四人目。
一人ずつ。
名前を呼ぶ。
一人ずつ。
帰還を記録する。
帳簿に名前があるから。
戻った者が分かる。
戻っていない者も。
分かる。
◇◇◇
二十人。
二十五人。
三十人。
「残り七人です!」
担架が。
排水路から運び出される。
足を折った男。
肩を裂かれた男。
意識を失った男。
「名前は!」
「ラルフ!」
「確認!」
「次!」
「ヨハン!」
「確認!」
残り五人。
残り三人。
そして。
三十六人目が。
排水路から出てきた。
「あと一人です!」
「誰だ」
ミリアが。
帳簿を追う。
「名前がありません」
「何?」
「最後の一人だけ」
「名前を聞けていません」
◇◇◇
排水路の奥から。
剣がぶつかる音がした。
最後の一人が。
後ろに残り。
ゴブリンを止めている。
「班長です!」
鉱山管理者が叫ぶ。
「日雇いを集めた」
「班長です!」
「名前は!」
「知りません!」
管理者の声が。
震える。
「毎日」
「人数だけを」
「報告させていました」
帳簿には。
一つだけ。
空欄が残っている。
名前も。
年齢も。
家族も。
何もない。
「救助班を戻せ」
俺は言った。
「ですが」
「ゴブリンが」
「一人残っている」
「なら」
「まだ救助は終わっていない」
◇◇◇
「待て」
ヴォルグが。
排水路の前へ出る。
「わしも行く」
「通れるのか」
「誰に言っておる」
ヴォルグが。
剣を抜く。
「十年前」
「わしの息子も」
「帳簿にいなかった」
周囲が。
静かになる。
「鉱夫ではなかった」
「閉じ込められた者を」
「助けに入っただけじゃ」
「だから」
「坑道で死んでも」
「鉱山の死者には」
「数えられなかった」
「ヴォルグ……」
「妻もじゃ」
ヴォルグは。
暗い排水路を見る。
「息子を追って」
「坑道へ来た」
「二人とも」
「最初に出てきたゴブリンに」
「殺された」
ヴォルグの手が。
剣を強く握る。
「死者の帳簿には」
「二人の名はない」
「じゃが」
「死んでいなかったことには」
「ならん」
◇◇◇
「今度は」
ヴォルグが言った。
「名を知らぬまま」
「誰かを残さん」
ヴォルグと。
兵士四人が。
排水路へ入る。
しばらくして。
激しい音が響いた。
剣。
爪。
盾。
岩を叩く音。
そして。
静かになった。
長い時間が過ぎる。
やがて。
排水路の奥から。
ヴォルグが現れた。
肩を貸した男と。
一緒に。
「名前は」
ヴォルグが聞く。
男は。
荒い息を吐きながら。
答えた。
「ニコ」
「ニコ・バランです」
ミリアが。
最後の空欄へ。
名前を書く。
「年齢は?」
「四十五」
「家族は?」
「いない」
「本当に?」
ニコが。
少し考える。
「妹が」
「南の町に」
「名前は?」
「エマ」
ミリアが。
すべてを書き終える。
「帰還確認」
最後の欄へ。
印をつけた。
三十七人。
全員。
帳簿へ載った。
三十七人。
全員。
生きて戻った。
◇◇◇
「報告です!」
記録係が。
駆け込んでくる。
「第七坑道のゴブリン」
「八十四匹!」
ミリアが。
顔を上げる。
「減っています」
「ああ」
「七匹倒したからですか?」
「それだけではない」
倒した数は。
七匹。
九十一から。
八十四。
計算は合う。
新しく湧いたゴブリンが。
一匹もいない。
これまでは。
倒しても。
次の報告では増えていた。
だが。
今は。
減ったままだ。
◇◇◇
「名前を」
「帳簿へ書いたから」
「ゴブリンが止まったんですか?」
ミリアが聞く。
「帳簿には」
「そんな力はない」
「では」
「なぜ?」
「帳簿に書くということは」
「責任を持つということだ」
誰が働いている。
誰が戻っていない。
誰を助ける。
誰の家族を守る。
それを。
分かるようにする。
「人を」
「数字の外へ置かない」
「その約束を」
「実際に守った」
「だから」
「町の人たちが」
「信じ始めたんですね」
「ああ」
「今度は」
「見捨てられないかもしれないと」
◇◇◇
坑道の前では。
三十七人の名前が。
一人ずつ呼ばれていた。
家族がいない者にも。
水が渡される。
毛布が渡される。
治療する者が。
駆け寄る。
正式な鉱夫も。
日雇いも。
誰も分けられていない。
ヴォルグが。
その光景を見る。
「領主さん」
「何だ」
「十年前」
「わしには」
「これができなかった」
「今からやればいい」
「遅くはないと?」
「死んだ者は戻らない」
「だが」
「名前は戻せる」
ヴォルグが。
ゆっくりと。
頷いた。
「息子と妻の名も」
「帳簿へ戻す」
「ああ」
「十年前」
「本当に死んだ者を」
「全員調べろ」
「今度こそ」
「誰も」
「いなかったことにするな」
◇◇◇
敵は。
まだ。
八十四匹いる。
だが。
もう。
増えてはいない。
無限だった敵が。
有限になった。
なら。
あとは。
一匹ずつ。
減らせばいい。
(第106話 増えない敵)
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