第2章 月明かりの下で
王都の喧騒から離れた侯爵邸は、以前と変わらぬ静けさを保っていた。
しかし、その静けさはどこかよそよそしい。
エレノアが玄関をくぐった瞬間、使用人たちの視線がわずかに揺れた。
それは敬意ではなく、戸惑いと、ほんの少しの距離感。
――もう“未来の王妃”ではない。
その事実は、屋敷の空気すら変えてしまうらしい。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
迎えたのは侍女のミレイユだった。
彼女だけは以前と変わらぬ様子で、深く一礼する。
「ただいま戻りましたわ、ミレイユ」
エレノアは微笑む。
その一瞬だけ、胸の奥が少し軽くなった。
応接室に通されると、父である侯爵がすでに待っていた。
書類の束に目を落としたまま、顔を上げない。
「……聞いた」
短い言葉。
「はい」
「婚約は正式に破棄された」
「その通りでございます」
やり取りは淡々としている。
だがその奥には、失望と、計算と、わずかな苛立ちが滲んでいた。
「我が家としては損失だ」
侯爵はようやく顔を上げる。
「王家との繋がりを失っただけでなく、お前のスキルも……正直、使い道が見えん」
はっきりと言い切る。
遠回しな配慮すら無い。
(まあ、そうでしょうね)
エレノアは内心で頷く。
「今後の扱いについては追って決める」
「はい」
それだけで話は終わった。
引き止められることも、労われることもない。
エレノアは一礼し、静かに部屋を後にした。
自室に戻ると、ようやく息を吐く。
広い部屋。
整えられた家具。
窓から差し込む夕暮れの光。
何も変わっていない。
それなのに――どこか、自分の居場所ではなくなったような感覚があった。
「お嬢様……」
ミレイユが心配そうに声をかける。
「大丈夫ですわ」
エレノアは振り返る。
「少し考え事をしたいだけですもの」
その言葉は本心だった。
悲嘆に暮れるよりも先に、思考が動き始めている。
――これからどうするか。
それを決めなければならない。
机の上に置かれた小さな水晶。
それは娯楽用の簡易魔導端末。
貴族の間でも、最近は一般的になりつつある品だ。
エレノアはそれを手に取る。
指先に、微かな反応。
(これが……“Vtuber”のスキル)
意識を向けると、水晶が淡く輝いた。
視界の端に、見慣れない情報が浮かび上がる。
――接続可能。
――映像投影準備。
――配信開始可能。
「……まあ」
思わず小さく声が漏れる。
(本当に、繋がるのですね)
それは単なる道具ではない。
スキルと連動した“何か”。
エレノアは椅子に腰掛ける。
少しだけ、迷う。
だがすぐに首を振った。
「考えていても仕方ありませんわね」
軽く息を整える。
背筋を伸ばし、姿勢を正す。
そして――意識を集中させる。
「……配信、開始」
水晶が強く光る。
次の瞬間、エレノアの前に半透明の画面が展開された。
視聴者数:1
「……一人、ですのね」
思わず苦笑が漏れる。
だが、その“1”は確かに存在している。
誰かが、見ている。
それだけで、胸の奥に不思議な感覚が生まれた。
「ごきげんよう」
自然と口から言葉が出る。
「……ええと、本日は……その……初めての配信、でございます」
少しだけ言葉が詰まる。
普段の社交とは違う。
相手の顔が見えない。
どの距離感で話せばいいのか分からない。
視聴者数:2
「……増えましたわ」
驚きが、そのまま声に出る。
画面の端に、小さな文字が流れる。
『初見です』
「初見……」
エレノアはその言葉を繰り返す。
「いらっしゃいませ……で、よろしいのでしょうか」
少し考え、頷く。
「ようこそお越しくださいました。ルナ・ルミナスと申します」
――ルナ。
自分で名乗っておきながら、少しだけくすぐったい。
だが同時に、不思議としっくりくる。
視聴者数:3
『貴族?』
『喋り方おもしろ』
コメントが流れる。
「貴族……ええ、そうですわね。一応そのような身分でございます」
答えながら、エレノアは気づく。
(……楽しい?)
まだ三人。
それでも、確かに“会話”が成立している。
顔も知らぬ相手と。
肩書きも関係なく。
ただ言葉だけで。
「面白い、と仰っていただけるのは光栄ですわ」
少しだけ、声が弾む。
それに合わせるように、視聴者数が4へと増えた。
小さな変化。
だが、それは確かに“反応”だった。
エレノアの胸の奥で、何かが静かに灯る。
それはまだ微かな火。
けれど――消える気配はなかった。
夜は静かに更けていく。
月明かりが窓から差し込み、部屋を淡く照らす。
その中で、エレノア――いや、ルナは言葉を紡ぎ続けていた。
ぎこちなく。
時に戸惑いながら。
それでも確かに、誰かと繋がりながら。
――これはまだ、始まりに過ぎない。
だが彼女は、すでに感じ取っていた。
この力は、決して“外れ”ではないと。




