海王の栖
それは、まるで、海中に現れた、巨大な壁のように見えた。
大きな、潮目の層。
水の流れや温度が全く違うのじゃ。目に見える形で、「あちら側」と「こちら側」が、くっきりと分かれておる。
こちら側は、穏やかな潮の流れ。しかし、あちら側は、荒れ狂う激しい潮の流れ。
それが、はっきりと、肌で分かる。
これは、境界じゃ。
この先の海域は、わしらの住むせかいではない。境界のすぐそばにおるだけでも、異質な水のプレッシャーが、ビリビリと伝わってくる。
「な……なんじゃ、これは」
「《海王の栖》さ」
ここまで案内してきた《大牙》は、そう、緊張したような声でこたえる。
「へへ……おれもここに来るのは久しぶりだがよ……いつ来てもここは、おっかねえですぜ」
わしも、同感じゃ。
この壮大な潮の流れには、畏れのようなものを抱かずにはおれない。
わしが人間のままだとしても、そうだったじゃろう。いわんや、この小さな魚のからだでは、なおさらじゃ。
「《大牙》よ。なんじゃ、その《海王の栖》とは」
「おれも、うわさできいただけだから、詳しくはしらねえ。ただ、なんでもこの向こう側にはこのあたり一帯をおさめる海王さまが住んでおられるという話ですぜ、先生」
こんなものを作り出す、海王さまってのは、すげえんですねえ。と、《大牙》は言う。
かれはこれを、海王さまとやらの力と思っているらしい。
まあ、わしも、それを否定する気はない。
わしには、人であったころの知識がある。じゃから、この潮の境界が、大自然の作り出した現象であるとわかる。
しかし、わかっておっても、こんなものをみせられては、神の仕業と思っても、不思議はないわい。
そして《大牙》は、数秒のあいだその潮目を見つめると、意を決したように、
「先生。ここいらには、下手な雑魚どもは近寄らねえ。近づいても、こんな海王さまの住まいの目と鼻の先で、殺生なんてめったなことじゃおきねえ。だから、治療をしてもらえるなら、ここでお願いできねえですかい」
こんな、ものすごい海流がすぐそばにあるのに、ここで治療をせよとは。
潮目など、この海の中では、頻繁に変わるものじゃ。もし、あの向こう側に流れる激しい海流にさらされては、おそらく、わしだけではなく、《大牙》とてひとたまりもあるまい。
しかし。
しかし、わしの中の勘のようなものが、《大牙》の言葉にしたがうべきだと言うておる。
なにより、この子どもの周りを囲っておる、黒いもやのようなもの。
これは、悪いものじゃ。
これは、なまなかな処置では、取り除くことができん。
それがなぜか、当然のことのようにわかる。
理屈ではなく、感覚でもなく、知識としてわかる。
これがある限り、虫どもはきっと、子どもの周りに戻ってくる。
じゃが、この場所なら。
巨大なちからにあふれた、この場所ならば――
このもやを、退治することができる、かもしれん。
聖域。
なぜか、そういう言葉が、頭に浮かんだ。
わしの口は、しぜんと《大牙》にこたえておった。
「わかった、やってみよう。さあ、子どもをそこへ寝かせてやってくれ」
潮目の近くまで泳いでゆき、《大牙》に指示を出す。
わしのすぐ横には、こちら側と全く違う潮の流れ。《海王の栖》が、そびえたって居る。
そばに寄れば今まで以上に、強烈な潮の流れを感じた。
ふふ。
こわいのう。
しかし、見よ。
ここにおると、こどもの周りにまとわりついていた黒いもやが、少しずつ、千切れるようにかたわらの海流に飲まれて、小さくなってゆくのがわかる。
「うむ。ここなら安心じゃ。息子さんのそばに寄る虫も、この海流の流れで散っていってしまうじゃろう」
「ほ、本当かよ、先生」
「ああ。あとは、わしが虫を吸い出せばええだけじゃ。……おそらく、な」
まわりを見る。
確かに、《大牙》の言う通り、このあたりに魚影はない。
そりゃそうじゃ。これだけ圧倒的な水の流れ。そばにおるだけで、まともな魚なら恐怖することじゃろう。うっかりして流れに呑まれれば……。
しかし、まあ、それだけのことじゃな。
わしにとっては、やること自体は、普段と変わらん。
目の前では、《大牙》の子がくるしそうに、えらを開閉しておる。
待っておれ。いま、助けてやるぞ。
わしは丁寧に、ゆっくりと子どもの鱗ををさぐり、その傷跡に口をつけた。
意識を、集中させる。
――クリーニング
あとは、本能にまかせればいい。
いつものように虫を吸い出して、食べるだけじゃ。
ひょい。
ぱく。
〈 レベルが上がりました 〉
〈 技能《クリーニング》のレベルが上がりました 〉




