第三話
とくん、と。
掌の下で、もう一度脈打った。
ゲオルグは剣身から手を離せなかった。
人の鼓動にしては間隔が長い。強さもない。耳を澄ませても音は聞こえず、触れている掌にだけ、かすかな震えとして伝わってくる。
とくん。
間違いない。
ゲオルグは茎を包むように握った。
温かい。
ほんの少し汗ばんだ人肌の温度。
目を閉じると、寝床に横たわっていたヘルマの姿が浮かんだ。
頬に触れたとき。
水を飲ませたとき。
抱き起こしたとき。
あの冷え切った身体よりも、むしろ病が重くなる前の娘に近い温度だった。
「……お前なのか」
口から漏れた。
答えはない。
剣身を走る血管のような筋も動かない。
それでも、ゲオルグはもう一度その表面を撫でた。
鍛冶師なら絶対にやらない触れ方だった。
刃物は刃物だ。
出来を確かめるなら光へ翳し、歪みを見る。刃先を調べ、焼きの具合を確かめる。
こんなふうに触れるものではない。
わかっているのに、手が離れなかった。
親指で茎の側面を撫でる。
また脈打った。
これが、残響なのか。
ゲオルグは息を吐いた。
何日ぶりなのか、自分でもわからないほど深い息だった。
そのとき、工房の扉が叩かれた。
ゲオルグの肩が動く。
工房の主が扉を開けるのを待つことなく、扉が外から押し開けられる。
冷えた空気が流れ込み、床に積もった煤が薄く舞った。
入ってきた男を見た瞬間、ゲオルグの顔からわずかに残っていた緩みが消えた。
血鉄の仮面。
人の顔を模して作られているが、目と口の部分には細い穴しかない。黒ずんだ銀色の表面には、乾いた血管のような筋が浮いていた。
その後ろから男が三人続いた。
全員が武器を帯びている。
先頭の男は工房へ入るなり、鼻を鳴らした。
「随分と濃いな」
ゲオルグは剣身から手を離した。
男は炉を見た。
金床を見る。
最後に作業台へ目を向けた。
「これか」
一歩、近づいてくる。
ゲオルグが間へ入った。
「何の用だ、『収穫者』」
仮面の奥から笑うような息が漏れた。
「わざわざ説明が要るのか?」
「ここは俺の工房だ」
「だから来た」
男はゲオルグ越しに剣身を見ている。
「宮室に仕える鍛冶師の炉から、これほど上等な血鉄の臭いがすれば確認に来る。当然だろう」
「確認は済んだだろう。帰れ」
「そうはいかん」
『収穫者』は手袋をした指でゲオルグの肩を押した。
弱い力だった。
退け、という意味だけの動作。
ゲオルグは動かなかった。
『収穫者』の顔は仮面で見えない。
だが、その下で眉をひそめたのがわかるようだった。
「退け」
「触るな」
「何?」
「それに触るなと言った」
しばらく沈黙があった。
『収穫者』が小さく首を傾げる。
「お前、何か勘違いしていないか」
ゲオルグは答えない。
「お前は宮室から仕事を受けている鍛冶師だ。そして私は、この地区で血鉄と血鉄製品の収集を任されている」
「知っている」
「なら話は早い」
『収穫者』は剣身を指した。
「献上品として回収する」
「断る」
即答だった。
後ろにいた男たちが動いた。
『収穫者』だけは動かない。
「もう一度言ってみろ」
「断る」
「理由は?」
「俺の娘だ」
仮面の奥から、短い息が漏れた。
「娘?」
「そうだ」
『収穫者』は作業台へ顔を向けた。
剣身を眺める。
「ああ」
何かを思い出したような声だった。
「病気の娘がいたな」
ゲオルグの拳が握られた。
『収穫者』は気づいていないのか、気にしていないのか、そのまま話した。
「では、あれを炉へ入れたのか」
「…………」
「なるほど。それなら納得できる」
『収穫者』が一歩近づいた。
ゲオルグも同じだけ動く。
「見事な色だ。ここまで濁りのないものは珍しい」
その言葉に、胃の奥がざらついた。
「触るな」
「品質を確かめるだけだ」
「帰れ」
「しつこいな」
『収穫者』の声から、わずかに退屈そうな響きが消えた。
「完成品ではないようだが?」
視線が剣身の根元へ向く。
「柄がない」
「まだ完成していない」
「なら都合がいい。宮室の工房で仕上げさせれば済む」
「駄目だ」
「なぜだ」
「俺が仕上げる」
「血鉄が残っていないだろう」
ゲオルグは黙った。
『収穫者』は炉の底へ目をやった。
「見ればわかる」
「俺が死んだら、俺を継ぐ」
今度は後ろの男たちまで黙った。
『収穫者』がゆっくりゲオルグへ向き直る。
「お前を?」
「ああ」
「柄にするのか」
「そうだ」
「その老いぼれた身体を?」
ゲオルグの目が細くなった。
『収穫者』は肩を揺らした。
笑ったらしい。
「馬鹿馬鹿しい」
ゲオルグの奥歯が鳴った。
「刃は上等だ。極上と言ってもいい。それにわざわざ粗悪な血鉄を継ぐつもりか」
「俺の勝手だ」
「違う」
『収穫者』の声が低くなった。
「血鉄は貴重な資源だ。まして、それほどの品質ならなおさらだ。鍛冶師一人の感傷で扱いを決められるものではない」
「感傷だと」
「娘だったから何だ」
ゲオルグの身体から力が抜けた。
抜けたのではない、動かないように押さえ込んだ。
『収穫者』の喉元へ手を伸ばす自分が頭に浮かんだからだ。
「炉へ入れた時点で素材だ」
男はそう言った。
「それがお前たち鍛冶師の仕事だろう」
ゲオルグは何も言わなかった。
言えば、別のものが口から出そうだった。
「持っていけ」
『収穫者』が部下へ命じた。
一人が前へ出る。
ゲオルグはその胸を突き飛ばした。
男がよろめく。
剣を抜く音がした。
ゲオルグは構わず作業台の前へ立った。
「誰にも渡さん」
『収穫者』が溜息をつく。
「抵抗するなら、お前も今すぐ炉へ入れてやるぞ」
仮面が炉の方を向いた。
「もっとも、お前のような煤まみれの老いぼれでは、釘が何本取れるかも怪しいがな」
「やってみろ」
『収穫者』の首が止まった。
「……何?」
「俺を炉へ入れてみろと言っている」
ゲオルグは前へ出た。
何日も眠っていない。両腕は槌を振るい続けたせいで鉛を詰めたように重い。
それでも退かなかった。
「その代わり、ヘルマには指一本触れるな」
『収穫者』が片手を上げた。
それだけだった。
左右から腕を取られた。
ゲオルグは一人の顔面へ肘を振ろうとしたが、動きが遅い。
鳩尾へ拳が入った。
息が詰まる。
膝が折れたところで、背中へ体重をかけられ、床に顔を打ちつける。
口の中が切れ、血の味が広がる。
「離せ!」
身体を捻るが、すぐに腕が背中へ回された。
肩が軋む。
もう一人に首を押さえられ、頬が煤だらけの床へ擦りつけられた。
「離せ……!」
足をばたつかせても届かない。
『収穫者』の靴が視界へ入った。
ゆっくり作業台へ向かっている。
「触るな!」
ゲオルグが叫ぶ。
『収穫者』は止まった。
「妙だな」
剣身を見下ろしている。
「何がだ……」
「この血鉄だ」
手袋越しに茎へ触れた。
ゲオルグの身体が跳ねた。
「触るなっ!」
部下に腕を捻り上げられ、肩に痛みが走った。
『収穫者』は意に介さない。
「これほど綺麗に仕上がるとは思わなかった」
その言葉が引っかかった。
ゲオルグは動きを止めた。
「……何?」
「いや、期待はしていた。だから仕込んだわけだが」
『収穫者』が胸元へ手を入れる。
取り出したものは、小さな透明の瓶だった。
中に無色の液体が入っている。
水と見分けがつかない。
「何だ、それは」
『収穫者』は瓶を指先でつまんだ。
炉の火を透かす。
「ルビゴーの涙」
聞いたことのない名だった。
「何を……言っている」
「錆血病だよ」
工房から音が消えた。
炉は燃え続け、炭も爆ぜている。
それなのに何も聞こえなかった。
「病人を待つだけでは効率が悪い」
『収穫者』は瓶を軽く振った。
透明な液体が内側を濡らす。
「なら、作ればいい」
ゲオルグの頬が床についたまま固まった。
「《《井戸の水は美味かったろう》》?」
井戸。
その言葉だけが頭に残った。
木の杯に注いだ澄んだ水。
ヘルマの痩せた背中を支えた自分の腕。
「――ゆっくり飲め」という自分の言葉。
ゲオルグの唇が震えた。
『収穫者』が言った。
「最高級の血鉄を育てるには、うってつけの養分だった」
何かが胃から込み上げた。
今度は飲み込めなかった。
ゲオルグは床へ吐いた。
胃にはほとんど何も残っていない。
酸っぱい液体が煤を濡らす。
「貴様……」
喉が痙攣した。
「貴様が……」
『収穫者』は答えない。
その沈黙が答えだった。
ゲオルグの呼吸が速くなる。
「俺も……」
声がうまく出ない。
「俺も、同じ水を飲んでいた」
「そうだろうな」
「なら、なぜ……」
『収穫者』がゲオルグを見る。
「なぜ俺じゃない」
部下に押さえられた指が床を掻いた。
爪の間へ煤が入る。
「なぜ……俺じゃなくて、この子なんだ」
『収穫者』はしばらく黙っていた。
質問の意味が理解できないようだった。
やがて仮面の奥から鼻で笑う音がした。
「そりゃあそうだろう、老いぼれ」
瓶を胸元へ戻す。
「何十年も血鉄の煤を吸ってきたんだ。お前の身体には、とっくに錆血病への耐性がついている」
ゲオルグの目が見開かれた。
「お前の汚い血では、いくら飲ませてもろくに錆びん」
『収穫者』が剣身へ視線を戻した。
「若く澄んだ血だからこそ、綺麗に錆びつく」
ゲオルグは何も言えなかった。
何百人も炉へ入れた。何百人もの肉が焼ける煙を吸い、煤を浴び、血鉄を打ってきた。
「……俺が」
声が漏れた。
床しか見えない。
「俺が、飲ませた」
誰も答えない。
「毎日……俺が……」
指先から力が抜けた。
部下が押さえつける必要すらないほど、ゲオルグの身体は動かなくなった。
「さて」
『収穫者』の声がした。
「事情もわかったところで、職務を続けるとしよう」
ゲオルグは顔を上げなかった。
「献上品を回収する」
靴音が、作業台へ近づいていく。
「……やめろ」
声にならなかった。
『収穫者』の手が剣身へ伸びる。
「やめろ」
聞こえなかったのか、男は止まらない。
手袋をした指が茎へ近づく。
ゲオルグの掌に、剣身へ触れたときの温もりが蘇った。
それだけは。
それだけは、まだここにある。
「触るな」
『収穫者』の指が茎へ触れた。
ゲオルグの中で何かが切れた。
「触るなあああああッ!」
身体を起こした。
押さえていた男の顎へ後頭部を叩き込む。
骨の当たる鈍い音。
拘束が緩んだ。
ゲオルグは腕を引き抜き、もう一人を振り払った。
立ち上がったのか、転がったのか、自分でもわからない。
作業台へ飛びつく。
手袋など探さない。
右手で茎を掴み、左手は刃元へ回した。
握る。
刃が掌へ沈み、肉が裂ける。
痛みが来るより先に、指へ力を込めた。
刃がさらに深く食い込む。
肉の奥で硬いものに刃が当たる。
遅れて激痛が腕まで突き抜けた。
「ぐぅッ!」
血が湧き出す。
指の間から溢れ、手首を伝った。
どくどくと流れ、緋色の剣身へ落ちた。
血管のような紋様を覆い、刃を赤く濡らしていく。
離せば取られる。
なら、手などどうなってもいい。
『収穫者』が一歩退いた。
ゲオルグは剣身を持ち上げる。
柄などない。
血で滑る。
それでも、握った。
胸の奥で心臓が暴れている。
掌からは別の脈が伝わる。
自分のものなのか。
剣のものなのか。
もうわからなかった。
ゲオルグは『収穫者』を睨んだ。
「娘は……」
口元から血の混じった唾が落ちた。
両手から流れた血が、床へ滴る。
「娘は、血の一滴たりとも渡さん!」
ゲオルグは血に濡れた剣を振りかざした。




