第二話
ゲオルグは娘を抱いたまま、炉の前に立っていた。
腕の中から伝わる重さは、あまりにも頼りない。
かつては両腕で抱き上げれば首にしがみつき、降ろせと足をばたつかせた。その身体から肉が削げ落ち、今では片腕でも支えられそうなほど軽くなっている。
炉口から噴き出す熱風がヘルマの髪を揺らした。
「……お父さん」
胸元から声がする。
ゲオルグは娘を見下ろした。
「なんだ」
ヘルマは炉の奥で白く燃える炎を見ていた。
「ちゃんと、剣にしてね」
「…………」
「約束」
ゲオルグは答えようとした。
喉が動かなかった。
代わりに腕へ力を込め、ヘルマの身体を、もう一度だけ胸へ抱き寄せた。
ざざ、と耳元で音がした。
首筋から剥がれた黒い粒がゲオルグの肩へ落ちる。
娘の匂いがした。
薬草と汗。寝床に染みついた古い布の匂い。その奥に、錆血病を患ってから濃くなった鉄臭さがある。
記憶に焼き付けようとした。
次にこの匂いを嗅ぐときには、もう違うものになっている。
「……ああ」
ようやく声が出た。
「約束する」
ヘルマが小さく頷いた。
ゲオルグは、今まで何百人と送り込んできた炉へ向き直った。
身体のどこを持てば暴れられても落とさないかを知っている。炉口へ入れるときは顔を背けてはならないことも。
途中で手を止めれば余計に苦しませることだって知っていた。
一息にやる。
いつもそうしてきた。
だから今回も同じようにする。
そう決めた。
腕を伸ばす。
ヘルマの身体が炎へ近づいた。
その瞬間、娘の指がゲオルグの服を強く掴んだ。
病に侵されてから、一度も感じたことのないほどの力だった。
ゲオルグの腕が止まる。
ヘルマ自身も驚いたように、自分の手を見た。
身体が震え、歯が小刻みに鳴っている。
「…………」
口を開きかけ、ヘルマは唇を強く噛んだ。
服を掴んでいた指を一本ずつほどいていく。
最後の一本だけが、なかなか離れなかった。
「すぐだ」
ゲオルグは言った。
ヘルマが顔を上げる。
「すぐに終わる」
嘘だった。
人間は炉へ入れられても、すぐには死なないことをゲオルグは知っている。
それでもヘルマは頷いた。
「うん」
ゲオルグは娘から手を離した。
白い炎がヘルマを呑む。
最初に燃えたのは髪だった。
黒い髪が一瞬だけ大きく膨らみ、赤い火をまとった。焦げる音がした直後、炎は衣服へ走った。
ヘルマの背が反る。
歯を食いしばっているのが見えた。
声は出なかった。
両手が宙を掻く。
ゲオルグは炉口の前から動かなかった。
見ていなければならない。
自分が入れたのだ。
目を逸らすことだけは絶対に許されない。
ヘルマの口が開いた。
「――ぁ」
細い声だった。
次の瞬間、それが絶叫に変わった。
「ぁあああああああッ!」
ゲオルグは砕けそうになるほど、奥歯を嚙み締めた。
炉の中で娘の身体がのけ反る。
炎を吸い込んだのだろう。
叫びが唐突に咳へ変わった。
「がっ……ぁ、ぐ……ッ」
ヘルマが喉を押さえようとする。
指は届かなかった。
炎が口の中へ入る。
唇が焼け、舌が縮む。
喉から出ていた声がひしゃげた。
「ぁ――……」
それきりだった。
口はまだ開いている。
身体も動いている。
それなのに、もう声だけが聞こえない。
代わりに炉が鳴っていた。
ごう、ごう、と。
ゲオルグは拳を握った。
爪が掌へ食い込む。
焼けた髪の臭いが鼻へ届いた。
すぐに別の臭いが重なる。
何度も嗅いだ、人間の肉が焼ける臭い。
皮膚が焦げ、脂が熱せられる甘ったるい悪臭が工房へ流れ出す。
ゲオルグの胃が縮んだ。
これまでは吐いたことなどなかったが、今日は違う。
喉まで上がってきたものを飲み込む。
炉の中で黒く縮れていく腕を知っている。
幼い頃、その手を引いて歩いた。
今、炎に包まれている肩も知っている。
知っている身体が焼けていく。
やがて、動かなくなった。
ゲオルグはそれでも炉口を閉じなかった。
まだ終わっていない。
ここからが鍛冶師の仕事だった。
◇
人間が血鉄へ変わるまでには時間がかかる。
火を強くすればいいわけではない。
熱が足りなければ血肉が残る。上げすぎれば血鉄まで損なう。
ゲオルグはふいごを踏んだ。
炎を見て、色を確かめ、また踏む。
炉の中で、ヘルマだったものが崩れていく。
肉が縮み、骨が露出する。
黒く炭化した表面の下から脂が流れ出し、火を受けて青白く燃えた。
臭いはさらに濃くなる。
鼻から吸うまでもない、口を閉じていても舌にまとわりつく。
ヘルマの身体だったものの、そのすべてが熱気に混じり、喉の奥へ貼りついた。
目が痛み、涙が滲む。
悲しいからではない。
煙のせいだ。
ゲオルグはそう言い聞かせながら、ふいごを踏み続けた。
やがて骨の形も失われていき、炉の底には赤黒いものが集まり始める。
ヘルマの血には、普通の人間より多くの錆が沈んでいた。
錆血病。
娘の命を奪ったものが、今度は炎の中で血肉から選り分けられていく。
赤黒かった塊は熱を受けるたびに濁りを失った。
不純物が燃える。
表面が赤く、赤くなっていく。
異様なほどに、赤い。
ゲオルグは火鋏を握った。
炉の底から塊を引き出す。
重みが鋏から腕へ伝わった。
これがヘルマだった。
それ以外の言葉が浮かばない。
金床へ置いた。
じり、と表面が鳴る。
ゲオルグは槌を取る。
振り上げた槌は、振り下ろされる前に止まった。
赤い塊を見下ろす。
先ほどまで娘だったものだ。
ここに槌を振り下ろさなければならない。
ちゃんと剣にすると約束した。
(ちゃんと、剣にしてね)
ヘルマの声を胸の中で反芻し、ゲオルグは槌を振り下ろした。
がん、という音が鳴り、腕まで衝撃が抜けた。
血鉄が潰れる。
火花が散り、前掛けへぶつかった。
もう一度。
がん。
手応えが違う。
老人を打ったときとは違った。
硬い。だが、脆くない。
槌の面を押し返すような粘りがある。
錆血病の血鉄は上質になる。
その話を初めて聞いたのがいつだったか、ゲオルグは覚えていない。
今までなら、素材の性質として見ていた。
だが、今日は、娘を殺した病が、娘を優れた鉄にしているという事実がたまらなく不快だった。
がん。
槌を打ち込む。
塊が伸びる。
がん。
また伸びる。
三度目に振り下ろしたとき、妙な感触が掌へ返った。
硬いものを打った感触。
骨。
そう思った瞬間、景色が変わった。
まだ小さかったヘルマを抱き上げている。
眠った娘の膝裏へ腕を入れた。
軽い。
けれど今ほどではなかった。
頬がゲオルグの胸に押しつけられ、小さな息が服を温めている。
――お父さん。
槌が止まった。
金床の上には赤い血鉄がある。
ゲオルグは荒く息を吐いた。
「……ヘルマ」
返事はない。
当たり前だ。
槌を握り直した。
打つ。
今度は止めなかった。
がん。
がん。
金床が鳴る。
火花が飛ぶ。
血鉄が薄く伸びていく。
形を整える。
端を返す。
火鋏で挟み、再び炉へ入れた。
白熱するまで待ち、引き出し、折る。槌で潰す。
自分が何をしているのか、嫌でもわかる。
娘だったものを伸ばし、二つに折り曲げている。
重なった血鉄を、また槌で一つに潰している。
がん、がん。
一打ごとに、娘の身体が形を失っていく。
いや、もう身体ではない。
そう考えなければ打てない。
だが、槌を握る手は知っている。
これはヘルマだ。
◇
夜が明けても、ゲオルグは槌を置かなかった。
工房に朝日は入らない。
時間を教えるものは炉の火と、自分の身体だけだった。
喉が焼けている。
水を飲んでも痛みは消えない。
目は赤く充血し、瞬きをするたびに、砂を噛んだようにざらついた。
手の皮が裂けていた。
槌の柄に血が付く。
それでも打った。
火が弱くなれば炭を足し、ふいごを踏む。
血鉄を焼き、取り出し、打つ。
ヘルマが硬くなれば、また炉へ戻した。
眠ったのかどうか、途中からゲオルグ自身にもわからなくなった。
気づけば水桶の水が黒く濁っていた。
炭の山が低くなっている。
床には煤が積もり、そこへ自分の足跡だけが何度も重なっていた。
腹は空かなかった。
食べ物を口に入れようとも思わない。
工房にはまだ肉の焼けた臭いが残っている。
何かを食えば吐くだろう。
眠気で身体が傾くたび、ゲオルグは炉の縁へ手を近づけた。
熱で意識を戻す。
失敗は許されない。
温度を誤っても、槌を外しても、ヘルマが駄目になる。
「……まだだ」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
火鋏を握り、血鉄を引き出した。
もう塊ではない。細長い形状になっている。
剣の輪郭が見え始めていたことを確かめ、ゲオルグはそれを金床へ置いた。
槌を振るい、刃になる部分を薄く延ばす。
背には厚みを残し、歪みを見つければ戻す。
再び熱し、叩き、研ぎ、また熱する。
作業を重ねるほど、ゲオルグの中から余計なものが削れていった。
悲しいとも、苦しいとも感じなくなった。
槌をどこへ落とすか、刃をどこまで延ばすか。
それだけを考えた。
そうしなければ、できなかった。
鍛冶師でいる間だけは、父親でなくて済んだ。
◇
どれほど経ったのか。
ゲオルグは炉の前に立っていた。
火鋏の先に、一本の剣身がある。
まだ赤熱している。
刃先から根元まで、濁りがない。
炉の炎を映しているのではなく、血鉄そのものが、内側から赤い光を孕んでいる。
ゲオルグは黙って見た。
美しい。
そう思ってしまった瞬間、胸の奥から吐き気が込み上げた。
娘を焼いた、その果てに出来上がったものを、美しいと思っている。
ゲオルグは歯を食いしばった。
だが、鍛冶師としての目は誤魔化せない。
これほどの血鉄を、彼は見たことがなかった。
刃の表面に、赤く、細い筋が走っている。
枝分かれしながら剣身を這い、ところどころで絡み合っている。
まるで血管のようだった。
ゲオルグが剣身を持ち上げた、そのとき、違和感に気づいた。
短い。
剣身ではない。
根元だ。
茎がある。
柄へ収めるための部分までは、どうにか取れたが、その先がない。
ゲオルグは作業台を見たが、血鉄は残っていなかった。
炉の底にもない。
すべて使った。
ヘルマの身体を余さず使って、ここまでだった。
あれほど痩せていたのだ。
わかっていたはずなのに。
ゲオルグは剣身を金床へ置いた。
柄がない。
これでは剣として完成しない。
木や角を使うこともできる。
老人の鍬ならそれでよかった。
だが、これは違う。
ヘルマは言った。
(私を剣にして)
ゲオルグは剣身を見つめた。
「……足りなかったか」
誰も答えない。
炉の中で炭が崩れた。
ゲオルグは自分の煤けた左手を見た。
指は節くれ立ち、皮膚は槌仕事で硬くなっていた。
長年、血鉄を打ってきた手だ。
しばらく見つめてから、拳を握った。
「待ってろ」
剣身へ向かって呟いた。
「俺が死んだら、継いでやる」
自分の血肉を血鉄にする。
それで柄を作る。
娘の刃へ、父親の柄を継ぐ。
いつになるかはわからない。
それまで、この刃だけは誰にも渡さない。
ゲオルグは水桶の前へ移動した。
最後の工程が残っている。
焼き入れ。
剣身をもう一度、炉へ入れる。
火の色を読む。
赤い。
まだだ。
さらに待つ。
刃全体へ熱が回る。
ゲオルグは瞬きもせず見続けた。
頃合いを見て、火鋏を動かす。
剣身を引き抜いた。
迷わず水へ入れる。
じゅうううう、と音を立て、水が爆ぜた。
白い蒸気が一気に立ち昇り、ゲオルグの顔を包んだ。
熱い。目を開けていられない。
頬が焼け、水滴が肌へ張りつく。
血鉄の熱を奪った水が激しく沸き、桶の縁からこぼれた。
ゲオルグは火鋏を離さない。
音が変わるまで待った。
やがて沸騰が静まり、蒸気が薄くなると、ゲオルグはゆっくり剣身を引き上げた。
水が刃を伝って落ちる。
何滴も工房の床へ落ち、煤を固めた。
ゲオルグは息を忘れた。
緋色だった。
炎の赤ではない。
冷えている。
それでも刃の奥に、透き通るような緋色が残っていた。
血管に似た細い紋様が、切っ先から茎まで走っている。
ゲオルグは長い間、それを見ていた。
これまで見てきたどの血鉄とも違う。
これまで何百という人間を炉へ入れ、何百という血鉄を打ってきた。そのどれとも違う。
「……綺麗だ」
声が漏れた。
言った直後、胸が痛んだ。
ヘルマに聞かせてやりたかった。
ゲオルグは火鋏で剣身を作業台へ移した。
十分に冷えるまで待つ。
その間も目を離さなかった。
炉の火が弱くなり、工房を満たしていた熱も、少しずつ引いていった。
汗が冷え、寒さを感じ始めた。
寝床の方を見るが、仕切り布は動かず、咳も聞こえない。
当たり前だ。
わかっている。
ゲオルグは視線を戻した。
剣身はもう冷えていた。
手袋を外し、右手を伸ばした。
刃には触れない。
むき出しになった茎へ、指先を置く。
ゲオルグの指が止まった。
温かい。
一度指を放し、また触れる。
やはり温かかった。
炉の熱ではない。
焼き入れは終わり、剣身は冷えている。
それなのに、茎だけではなかった。
何度も触れた温度だった。
病に伏した娘が熱を出した夜。
額へ手を当て、頬を包んだ。
汗ばんだ手を握った。
あのときの温度。
人肌の温かさだった。
ゲオルグは動けなくなった。
とくん、と。
掌の下で何かが脈打った。




