Episode6 追跡開始
逃げた。
完全に、逃げた。
背中で、セバスチャンの声が聞こえた。
「……皆さん、お騒がせいたしました。お仕事にお戻りください」
ルーシーたちが、くすくす笑いながら席を立つ気配がした。
私はしばらく、カイルが消えた廊下を呆然と見つめていた。
応接間には、スコーンの香ばしい香りと、気まずいほどの沈黙が漂っている。
先ほどまでの自信満々だった私はどこへやら、今はただ、静かに微笑むセバスチャンと、少し呆れ顔のマリアの視線にさらされていた。
「……お嬢様?」
セバスチャンが穏やかに声をかける。
「坊ちゃまのご様子が、少しばかり慌ただしいようでしたが。……何か、気になることでも?」
私は握りしめていた伊達眼鏡を机に置き、深く息を吐いた。
「……セバスチャン。私、とんだ恥を晒してしまったわね」
スコーンを一口食べて、冷めかけたハーブティーで流し込む。胃に温かさが戻ると同時に、徹夜で回らなかった頭が、少しだけ鮮明に動き始めた。
カイルのあの反応。いつもなら「エラ姉様」と茶化してくるはずなのに、今日は露骨に避けていた。
「『お父様に頼まれた用事』……ね」
私は小さく呟いた。
「嘘くさかったね、あれ」
フィンが、ぼそっと言った。
「……でも、カイルよ?」
思わず、声に出た。
正義感が強くて、曲がったことが嫌いな弟。困ってる人を放っておけない性格で、それは長所のはずだった。
さっきセバスチャンが言った言葉が頭をよぎる。
『人の行いを明らかにするには——それが起きた証、それを為し得た手立て、そして為すに至った理由。』
カイルは鍵の管理に関与できる立場にあった。
「……マリア」
「はい」
「カイルが書斎へ出入りする際、誰か他の人と顔を合わせている可能性はある? 例えば、お母様や、お掃除を担当している人とか」
マリアは少し考え込み、それから首を小さく横に振った。
「旦那様の執務室は、特に厳格に管理されておりますから。坊ちゃまがご用事で入られる際は、大抵、旦那様が傍にいらっしゃいます」
「……でも、鍵は持ってるのよね」
少なくとも、書斎へ入る手段は持っている。
私は立ち上がった。
今度こそ、ただの状況証拠だけで決めつけたりはしない。でも、少なくとも「見落としていたピース」が、今、カイルという形で見つかったのは確かだ。
「セバスチャン、マリア。……もう一度だけ、チャンスをちょうだい」
私は再び眼鏡をかけ、しっかりと前を見据えた。
「今度は絶対に、塔のような積み木じゃなく、もっと確かな真実を見つけ出してみせるわ。……まずは、カイルが何を隠しているのか、確認してくる!」
「がんばれー」
フィンが、気の抜けた声で応援した。
言うが早いか、私は応接間を飛び出していた。
「お、お嬢様!?」
背後でマリアの声がしたが、振り返らなかった。
カイルが消えた廊下を、私は一人で駆け出した。
廊下を走ったものの、カイルの姿はもうどこにもなかった。
「……逃げ足だけは速いのね」
肩で息をしながら呟くと、フィンが呆れたように笑った。
「あんなに慌てて逃げたら、余計怪しいってわからないのかな」
「わかってたら苦労しないわよ」
私はしばらく考えて、カイルの部屋へと向かうことにした。本人がいなくても、レオに聞けることはあるはずだ。
部屋をノックすると、レオが少し驚いた顔で扉を開けた。
「お嬢様、どうなさいましたか」
「カイル、最近どこか出かけてる?」
レオの表情が、わずかに強張った。
「……存じません」
「レオ」
私はできるだけ、優しく聞こえるように名前を呼んだ。
「怒ってるわけじゃないの。ただ、心配なだけ」
半分は本当で、半分は嘘だった。
レオは目を伏せたまま、しばらく黙っていた。
「……坊ちゃまのことで、何かあったのですか」
「わからないから、聞きに来たの」
沈黙が落ちる。
「レオ」
「……私からは、何も」
「うん」
「言えません」
その言い方に、私は少し驚いた。
「知らない」じゃなくて、「言えない」。
つまり、何かは知っている。
「わかった。無理には聞かない」
私がそう言うと、レオは少しだけ、ほっとしたような顔をした。
部屋を出て、私は小さく息を吐いた。
「……何か知ってるっぽかったね」
フィンが、肩の上から顔を覗き込む。
「うん。でも、口は割らなそう」
レオの忠誠心は本物だ。無理に聞き出しても、多分意味がない。
「なら、他をあたるしかないか」
厩の方へ向かうと、トムが馬の世話をしているところだった。
「トム、ちょっといい?」
「お嬢様? どうされました」
「最近、カイルが出かけてるとこ、見たことある?」
トムは手を止めて、少し考えるそぶりを見せた。
「そういえば……月に何度か、街の方へ向かわれるのをお見かけします。以前はレオを連れていかれることが多かったのですが、ここ最近は、お一人のことが増えていたような」
「街のどのあたり?」
「平民街の方角だったかと」
平民街。
思わず、フィンと顔を見合わせた。
「ありがとう、トム。助かった」
私は厩を後にし、歩きながら考え込んだ。
「平民街、か」
「行く?」
フィンが聞く。
「行くしかないでしょ」
私が伊達眼鏡をかけ直したところで、後ろから声がかかった。
「……お一人で、どこに行かれるおつもりですか」
振り返ると、マリアが立っていた。
「あら、マリア。どうしたの」
「お嬢様の姿が見えなかったので、探しておりました」
マリアは少し息を切らしていた。
「少し街に出るわ」
「でしたら、私もお供します」
「……いいの?」
「もちろんです。お一人で行かせるわけには参りませんので」
マリアはそう言って、支度のためにと踵を返した。




