Episode43 書いて、よいのだ
やはり、そうだったのだ。
手紙の主がアデライン様だと知れれば、今日のことも、アデライン様が命じたものと思われる。
だからヨナスは、何もかもを一人で背負おうとした。
「お嬢様。……どうか、それ以上は」
ヨナスの声は、掠れていた。
「私が勝手にしたことでございます。お嬢様は、何もご存じない」
「もう、およしなさい」
アデライン様が、静かに首を振った。
「わたくしが書いたと、もう申し上げたの」
ヨナスが、何か言いかけて、口を閉じた。
肩から、少しずつ力が抜けていく。
やがて、深く頭を下げた。
「……申し訳ございません」
私は、ヨナスに向き直った。
「どうして、あんなことを」
声が、思ったより小さくなった。
しばらく、答えはなかった。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
「……お嬢様が、あの詩を書き写しておられるのを、お見かけいたしました」
低い声だった。
「花は枯れ、鐘は鳴らず、乙女は紅の涙を流す。……あのようなものを書き写されるほど、お心を乱しておいでなのかと思いました」
ヨナスの目が、床に落ちた。
「お嬢様は、苦しいときほど何も仰いません。あの詩が、そのままお心のうちのように思えました」
声が、わずかに低くなる。
「そうして封をして、それきりになさるおつもりなのだと」
言葉が、少しずつ速くなる。
「クラウス様はご婚約なさって、お嬢様のご縁談だけが、また先へ延びていく。お嬢様ほどの方に、どうして相応しいお相手が見つからないのか」
膝の上の拳が、固くなった。
「……納得がいきませんでした」
ヨナスが、ひとつ息を吐いた。
「クラウス様は、何一つ隠されません。想う方の隣に立って、その手を取って、皆の前で赤くおなりになる」
声が、わずかに掠れた。
「眩しゅうございました。それだけに、腹立たしくもございました」
ヨナスは、そこで一度、口を閉じた。
「何かが変わるとは、思っておりません。これでご婚約がなくなるとも、思っておりませんでした」
ゆっくりと、首を振る。
「人が気づこうが気づくまいが、どちらでもよかったのでございます」
声が、いっそう低くなる。
「この晴れの日に、ほんの少しけちがつけば、少しは気も晴れる。……そう思ってしまいました」
誰にも気づかれなくてもいい。
ただ、今日という日が、ほんの少しだけ濁ればいい。
……そんなことのために。
膝の上で、私の指も固くなっていた。
「愚かなことをしている、と分かっておりました」
ヨナスが、また口を開いた。
「花に灰汁を垂らしながら、これは違う、と思っておりました。鈴の舌を抜きながらも、庭へ出ながらも」
言葉が、そこで途切れた。
「それでも、手が止まりませんでした」
分かっていて、やったのだ。
分かっていて、止められなかったのだ。
「お嬢様のためだと申し上げるつもりは、ございません」
ヨナスが、ほんの一瞬だけ、主のほうを見た。
すぐに、目を伏せる。
「……私が、そうしたかっただけでございます」
アデライン様が、ヨナスを見つめていた。
「……責められないわ、ヨナス」
声が、掠れていた。
「わたくしも、同じことを思っていたのだもの。……ほんの少し、けちがついてしまえばいいと」
そこで、言葉が途切れる。
「わたくしが取り乱したときも、あなたはいつも静かでいてくれたでしょう。ずっと、それに助けられてきたのよ」
アデライン様が、小さく息を吸った。
「……わたくしが、書いたりしなければ」
声が、震えていた。
「あなたが読み違えたのも、無理はないの。不吉に読まれるだろうと分かっていて、書いたのだもの」
……読み違え、と言った。
不吉に読まれるだろう、とも。
正しい読み方を知っている人の言い方だ。
アデライン様が、首を振る。
「でもね、ヨナス。最近のご縁談がまとまらなかったのは、わたくしが断っていたからなのよ」
ヨナスが、顔を上げた。
「クラウス様のことは、家族のように大切に思っておりました。慕ってもおりましたわ。……けれど、殿方として、というのとは違うの」
アデライン様が、一度言葉を切った。
「いずれ嫁ぐのだろうと言っていたのは、周りの大人たちだけ。正式なお話があったことは、一度もございません」
小さく、息を吐いた。
「わたくしも、どこか他人事のように聞いておりました。……知らないお家へ行くよりは、まだいいのかもしれない。その程度のことだったの」
「アデライン様」
私は、一度息を吸った。
「あの詩は、不吉な詩ではありません」
二人が、こちらを見た。
「寄稿集が世に出たのは、エレノア様が嫁がれた年です。亡くなられる、何年も前でした。……一見不吉な文言が並んではいますが、嫁いでいく妹君に贈られた、祝いの詩なんです」
ヨナスの顔から、血の気が引いていくのが分かった。
けれど、アデライン様は驚いていなかった。
「アデライン様は、ご存知だったんですよね」
私は、静かに尋ねた。
アデライン様が、暖炉の火を見たまま、しばらく動かなかった。
「……存じておりました」
静かな声音だった。
「北の隣国では、婚礼をわざと不吉な言葉で寿ぐのです。花嫁が、紅の涙を流す。嫁ぎ先の夫を、盗人と呼ぶ。……どちらも、あちらで婚礼を寿ぐときの言い回しです」
国境に近い領地のご令嬢だ。あちらの本を手に取る機会も、あったのだろう。
「けれど、こちらでそれを知る方は、ほとんどおりません」
アデライン様の声が、低くなった。
「不吉な詩として読まれるだろうと、分かっていて送りました」
祝いの詩に、呪いの顔をさせて。
「クラウス様とは、幼い頃から、親類の集まりのたびにお会いしてまいりました。想い合う方と結ばれるのは、本当に、めでたいことだと思います」
そこで、アデライン様は小さく息をついた。
「……ただ、それが叶わないわたくしには、少しだけ、妬ましかったのです」
ヨナスの肩が、かすかに揺れた。
アデライン様は、そちらを見ようとしない。見ないのではなく、見られないのだと、なぜだか分かった。
庭で、赤く汚れた指先を見つめていた顔。一人でやったと言い張る、さっきのヨナスの声。
……ああ、そうか。
それ以上は、言葉にしないでおいた。
暖炉で、薪が小さく音を立てて崩れた。
衣擦れの音に、私は振り返った。
老侯爵が、目を開けていた。
落ち窪んだ目が、ゆっくりと部屋を巡り、アデライン様のところで止まる。
「……クリスティーネ」
アデライン様の肩が、跳ねた。
私は、後ろに控えていたグスタフにそっと近づいた。
「クリスティーネ様、というのは」
グスタフも、声を落として答えた。
「旦那様の、ご長女でございます」
グスタフが、手のひらを上に向けて、壁の一角をそっと示した。
小ぶりの肖像が並ぶ、端の一枚。
結い上げた髪の若い女性が、こちらを見ている。目元が、アデライン様によく似ていた。
「嫁がれて十年ほど経った頃に、涸れ病で亡くなられました。もう三十年以上前になります」
グスタフの目が、アデライン様に戻る。
「……アデライン様の、お祖母様にあたられます」
グスタフは、そこで少し迷うような顔をした。
「クリスティーネ様は、物を書くのがお好きでいらっしゃいました。……奥様が、決してお許しになりませんでしたが」
「こっちへ来なさい」
老侯爵の声に、アデライン様がびくりと顔を上げた。
けれど、動けずにいる。
「聞こえんのか。こっちへ来い」
裾を握りしめたまま、アデライン様が一歩、前に出た。
車椅子の前で、ゆっくりと膝を折る。
皺だらけの手が持ち上がって、結い上げた髪に触れた。
幼い子にするように、何度も撫でる。
「読めたのか。わしの詩が」
アデライン様は、答えられなかった。
ただ、何度も頷いた。
「……さすが、クリスティーネだ」
老侯爵が、目を細めた。
「また、隠れて何か書いておったろう」
アデライン様の肩が、大きく震えた。
「隠さんでいい」
撫でる手は、止まらない。
「……母さんには、わしから言うておく」
グスタフの喉が、小さく動いた。
「紙に向かえば、誰も彼も、ただの書き手だ。娘だの嫁だのと言う奴には、言わせておけ」
ふん、と鼻を鳴らす。
「お前は、わしより上手になる」
それから、声が少しだけ低くなった。
「だから、書け。クリスティーネ」
撫でる手が、ふと止まった。
「……書いて、よいのだ」
アデライン様が、声を上げて泣き出した。
取り繕うことも、隠すこともなく。ただ、子どものように。
老侯爵は、また頭を撫で始めた。
ヨナスが、音を立てずに一歩前へ出た。
アデライン様のすぐ後ろで膝をつき、白い手巾を差し出す。
私は、黙って見ていた。
暖炉の火が、小さく音を立てた。




