Episode44 欠けたるまま
やがて、撫でる手が止まった。
侯爵は、目を閉じていた。
寝息が、小さく聞こえる。
「……お疲れになったのだわ」
アデライン様が、涙を拭いながら小さく言った。
「お部屋で、ゆっくりお休みいただきましょう」
私がそう言うと、グスタフが静かに車椅子の後ろへ回った。
私たちは、誰からともなく扉へ向かった。
* * *
廊下では、ルシアン様が壁に背を預けて立っていた。
「終わったか」
「はい」
「泣き声が聞こえたが」
「……大丈夫です」
ルシアン様は、それ以上は聞かなかった。
「で。どうする」
「どう、とは」
「あの従僕を、突き出すかどうかだ」
「……わたくしが決めることでは、ありません」
花も、呼び鈴も、庭の像も、この家のものだ。手紙のことは、お父様が決める。
軽い悪戯だと言う人もいるだろう。けれど、どれも間違いなく、人の手で、わざとやられたことだ。
「決められるのは侯爵家と、うちの父です。わたくしにできるのは、お願いすることだけですから」
「殊勝だな」
ルシアン様が、少しだけ笑った。
「で、何を願うんだ」
「騒ぎには、したくありません」
「そう言うと思った」
肩をすくめる。
「俺は今日は非番だからな。侯爵家が届け出るというなら別だが、そうでなければ、仕事が無くて結構だ」
しばらくして、クラウス様が廊下へ来た。
話を聞いても、顔色は変わらなかった。
「父には、私から話す。……そのうえで、表には出さない」
きっぱりとした声だった。
「考えようによっては、めでたい話だ。祝いの詩のとおりのことが、この家で起きたのだからな」
言ってから、クラウス様は小さく笑った。
花も呼び鈴も、替えが済んでいる。気づいた給仕には、自分から口止めしておくとも言ってくれた。
「フォルクマーの家には、私から知らせておく。……そこは、伏せるわけにもいかないからな」
「はい」
「手紙のことは、君の家の話だ。ご当主がどうなさるかは、こちらからは何も言わない」
「お父様には、明日話します。……あの詩が、祝いのものだったことも一緒に」
呪いの予告ではなかったと分かれば、お父様も事を荒立てはしないだろう。
……たぶん。
扉が開いて、アデライン様が出てきた。
泣き腫らした目のまま、私たちの前で足を止める。
「父には、わたくしからも話します」
声は、もう震えていなかった。
「この者がしたことも、わたくしが書いた手紙のことも……」
「お嬢様、それは」
「いいの」
アデライン様は、振り向かなかった。
「……始まりは、わたくしの手紙よ」
後ろで、ヨナスが口を閉じた。
アデライン様が、クラウス様に深く頭を下げる。
それから私に向き直り、もう一度、同じだけ深く下げた。
私は、黙って膝を折った。
フォルクマー家の一行は、広間へ戻らずに帰ることになった。
私は、馬車溜まりまで見送りに出た。
ヨナスが扉を開け、手を差し出す。
アデライン様が、その手を取った。
手が離れるまでが、少しだけ長い気がした。
馬車が動き出す。
窓の向こうで、アデライン様が小さく会釈をした。
門のほうへ、車輪の音が遠ざかっていく。
* * *
広間に戻ると、宴は何事もなく続いていた。
楽団の曲は軽やかで、賓客は笑っていて、主賓の卓には新しい薔薇が生けてある。
姉様が、クラウス様と並んで賓客に囲まれていた。何も知らない顔で、笑っている。
婚礼は、半年後だ。
私は、鞄の中へ眼鏡を仕舞った。
お母様が、扇の陰からこちらを見ていた。
……その顔を、なさらないこと。
言われる前に、私は笑ってみせた。
人の輪を避けて、窓辺に寄る。
先ほどまで老侯爵が車椅子を寄せていた場所は、今は空いていた。
硝子の向こう、暗い庭に、女神の像が白く浮かんでいる。
頬は、もう濡れていない。
……この家に ひとつ 欠けたるまま。
詩の最後の行を、口の中で唱えてみた。
七十年前にこの家から欠けた一人は、まだ、あそこに立っている。
その名を呼ぶ人は、暖炉のある部屋で、今ごろ眠っているだろう。
……また、参ります。




