Episode41 もう一人の乙女
それは、ほんの一瞬のことだった。
私が瞬きをして、次に目を開けたとき。
そこにいたのは、広間で見た令嬢だった。背筋が伸び、唇の端に、わずかな微笑みが戻っている。
赤い蝋のついた指先は、いつの間にかドレスの襞の陰に隠されていた。
「……エラリー様」
声も、もう震えていなかった。
「どなたかの、悪戯のようですわね」
「悪戯、ですか」
「ええ。趣味の悪いこと」
像を見上げる横顔は、落ち着き払っていた。
「宴に水を差すことになりますから、このことは、どうか内密に。侯爵家の方にお伝えして、すぐに片付けていただきましょう」
筋の通った頼みだった。
私も、そうするべきだと思う。姉様の晴れの日に、これを誰にも見せたくはない。
けれど。
「アデライン様」
「はい」
「先ほど、向こうへ誰かが歩いていきました」
私は、馬車溜まりへ続く小径のほうを示した。
「アデライン様は、先にここへいらしていましたよね。どなたか、ご覧になりませんでしたか」
「いいえ」
答えは、すぐに返ってきた。
「わたくしは、誰も見ておりません」
私は、黙ってアデライン様の顔を見た。
先に着いていたのは、この方だ。私が生垣を回り込む前に、あの足音は遠ざかっていった。
見ていないはずがない。
私は、像に近づいた。
女神の像は、低い台座の上に立っていた。頭の高さは、私の背丈より少し上くらいだ。
見上げて、息を呑んだ。
両の目の窪みに、赤い蝋が塗り込められていた。
組まれた手に提げられた角灯が、すぐ下から顔を照らしている。溶けた蝋が目の縁から溢れ、頬を伝い落ちていた。
背伸びをして、頬の筋に触れてみた。蝋はまだ柔らかい。石の肌も、ほんのりとぬるかった。
昼の陽射しを、まだ抱えているのだ。そこへ、すぐ下から角灯の熱が当たり続ければ。
蝋燭から垂れる蝋を、蝋涙と呼ぶのだと、何かの本で読んだことがある。
紅い、蝋涙。
……乙女は、紅の涙を流し。
目の窪みには、まだ蝋がたっぷりと残っている。溶け出してから、そう経っていないのだ。
私は背伸びをして、像の手から角灯を外し、足元に下ろした。これ以上、溶けないように。
……窓から見えるように、この位置に提げたのだ。
広間の窓から、この庭は見える。暗い庭で、ここだけが灯っていれば、誰かが必ず目を留める。
泣いている像を、見せるために。
花は枯れ、鐘は鳴らず、乙女は紅の涙を流す。
乙女とは、姉様のことではなかった。
そう分かって、ようやく少しだけ、肩の力が抜けた。
砂利を踏む音がした。
今度は、足音ではなかった。車輪の音だ。
振り返ると、生垣の陰から、車椅子を押すグスタフが現れた。息が上がっている。
「お、お嬢様……申し訳ございません」
椅子の上で、老人が毛布にくるまっていた。
「旦那様が、窓からお嬢様をお見かけになって。どうしてもと、お聞きにならず……」
「エレノア」
老人の声が、夜の庭に響いた。
「こんな夜に、何をしておる」
不機嫌そうな声だった。
「冷えるだろう。お前は、すぐ手が冷えるくせに」
膝の毛布を持ち上げて、こちらへ差し出してくる。
私は、黙ってそれを受け取った。肩に掛けると、老人は満足そうに頷いた。
それから、その目が、私の後ろへ流れた。
像を見ている。
老人の顔から、表情が消えた。
グスタフも、それに気づいた。
「これは……」
声が、かすれている。
「旦那様が、妹君を偲んで作らせた像に……なんということを」
……妹君の。
エレノア様の、像。
私は、思わず像を見上げた。
白い石の女神。その顔が、誰かに似せて作られていたのだと、今になって分かった。
「すぐに、拭き取ります」
グスタフが動こうとした。
「よい」
老人が、手を上げて制した。
それから、懐から白い手巾を取り出した。
震える手で、それを像のほうへ伸ばす。
曲がった背を椅子から精一杯浮かせて、腕を差し上げて。
けれど、手巾の端は、像の頬のずっと下で揺れているばかりだった。
老人の手が、宙で止まった。
しばらく、そのままだった。
やがて、ゆっくりと腕が下りた。
「……グスタフ」
「はい」
「お前が、拭いてやれ」
グスタフが、両手で手巾を受け取った。
像の前に進み出て、片手を台座についた。もう一方の手を、精一杯に伸ばす。
グスタフも、若くはない。爪先立ちになった足が、小さく震えていた。
それでも、まだ柔らかい蝋に、そっと布を当てる。
白い手巾に、紅が移っていく。
ゆっくりと。泣いている人の顔を、拭ってやるように。
老人は、それをじっと見上げていた。
「……嫁ぐ日に」
ぽつりと、老人が言った。
「泣く奴があるか」
それから、ふと辺りを見回した。
「あいつは、どこへ行った」
不機嫌そうな声だった。
「花嫁を、こんなところで一人で泣かせおって」
あいつ。
広間でも、この方はそう言っていた。
私は思わず、馬車溜まりへ続く小径のほうを見た。暗がりの向こうに、もう人影はない。
背後で、小さく息を呑む音がした。
振り返ると、アデライン様が、口元を両手で覆っていた。
その目から、涙が零れていた。声は、出さなかった。肩だけが、小さく震えている。
老人の目が、ゆっくりとそちらへ動いた。
しばらく、じっと見ていた。
「……クリスティーネ」
小さな、けれど、はっきりとした声だった。
アデライン様の肩が、びくりと跳ねた。
「お前まで、泣くでない」
それだけ言って、老人は目を閉じた。
ひどく疲れた様子で、椅子に身を沈める。けれど口元は、わずかに笑っていた。
クリスティーネ。
誰の名なのか、私には分からなかった。
けれど、アデライン様には分かっているようだった。濡れた目を見開いて、老人の顔を見つめたまま、動けずにいる。
『嫁ぐ日に、泣く奴があるか』
なぜだか、その言葉が耳の奥に残っていた。
隣で、アデライン様が泣いている。
声を殺して、ただ静かに。
この方は、何かを知っている。
馬車溜まりへ消えていった背中が誰なのかも、きっと。
それでも、何も言わない。
私は、肩の毛布を握りしめた。
夜の庭に、角灯の灯りだけが、ゆらゆらと揺れていた。




