Episode39 花は枯れ
グスタフは、菓子の皿を老人の傍の小卓に置いた。
干した杏の入った、小さな焼き菓子だった。
「お嬢様に、と仰せでしたので」
老人は、窓の外を見たままだった。
私は、ひとつ摘まんで口に入れた。
干した杏の甘酸っぱさが、生地の中からじわりと広がった。
「……美味しゅうございます、お兄様」
返事はなかった。
やがて、老人の頭がゆっくりと傾いた。
目が閉じている。
寝息が、聞こえ始めた。
「……お嬢様」
グスタフが、声を落として呼びかけてきた。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げる。白くなった髪の、つむじが見えた。
「いえ、わたくしは何も」
「グスタフ、と申します。旦那様にお仕えして、五十年になります」
「五十年」
「はい。……失礼ながら、お嬢様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「エラリー・フォン・ベルナードと申します。セレナの妹でございます」
「ベルナード子爵家の。……セレナ様の、妹君でいらっしゃいましたか」
グスタフは、眠る老人に目を移した。
「旦那様があのようにお話しになるのは、久しくございませんでした。お加減を崩されてからは、ほとんど」
私は、眠っている老人の横顔を見た。
「ここ数年は、どなたともお話しにならず。お名前を呼ばれても、お返事をなさらないことのほうが多くて。……ただ、ああして、窓の外をご覧になっているばかりで」
「……わたくしを、妹君と」
「はい」
グスタフが、少しだけ迷うような顔をした。
「旦那様のお部屋に、妹君の肖像画が掛かっております。私も、妹君を直に存じ上げているわけではございませんが」
そこで、私のドレスに目を落とした。
「お召し物が、ちょうど今日のお嬢様のような深い緑でございました。御髪の色も、よく似ておいでで」
……なるほど。
深い緑のドレスに、似た髪の色。
それで、私を妹君と思い込んだのか。
「エラリー様」
「はい」
「……もし、お嫌でなければ、またお顔を見せていただけませんでしょうか」
グスタフは、少しだけ目元を緩めた。
「差し出がましいお願いとは、承知しております。……ただ、旦那様のあのようなお顔を、久しぶりに拝見いたしましたもので」
私は、膝の毛布をそっと外して、老人の膝へ掛け直した。
「また、参りますね」
グスタフが、もう一度、深く頭を下げた。
* * *
広間に戻ると、楽団の曲がまた変わっていた。
人の流れを避けて壁際を歩いていたとき、ふと、目の端に引っかかるものがあった。
白い薔薇だった。
主賓の卓の周り、姉様とクラウス様が座る席を囲むように飾られた薔薇が、首を垂れ始めていた。
一輪や二輪ではない。卓の周りの花瓶が、揃って萎れかけている。
少し離れた壁際の薔薇は、まだ真っ直ぐに立っていた。
……主賓の卓の周りだけ?
見ていると、侯爵家の給仕が二人、目立たないように近づいてきた。萎れた花を花瓶ごと下げて、代わりの花を置いていく。慣れた手つきだった。賓客の誰も、気づいていない。
私は、下げられていく花瓶を目で追った。
その先で、見知った顔が目に入った。
アデライン様だった。
人の輪から少し外れたところに立って、下げられていく薔薇を見ている。
何かを考え込むような顔だった。
微笑みも、扇を使う手も、忘れたまま。
私の視線に気づいたのか、彼女はすぐに目を逸らし、近くの婦人に何か話しかけた。
その横顔は、もういつもの微笑みに戻っていた。
……今のは。
鞄の中の、あの紙を思い出した。
……花は、枯れ。
背中が、すっと冷たくなる。
私は壁際の柱の陰に寄って、鞄を開けた。
詩の写しの下に、銀の縁の眼鏡がある。
取り出して、掛けた。
硝子越しに見る広間は、何も変わらない。灯りも、人の笑い声も、楽団の音も、そのままだ。
けれど、頭の中が、少しだけ静かになった。
……よし。
* * *
「すみません」
花瓶を抱えて通り過ぎようとした給仕を、呼び止めた。
「は、はい」
「その花、少し見せていただけますか」
給仕は戸惑った顔をしたが、客の頼みを断るわけにもいかないのだろう。花瓶を、そっとこちらへ傾けた。
薔薇は、花のすぐ下から、がくりと首が折れていた。葉も縮れている。
「いつ活けたものか、ご存知ですか」
「今朝でございます。宴の前に、皆で」
「その時は」
「元気でございました。……こんなふうになるのは、私も初めて見ます」
私は、花瓶の中を覗き込んだ。
水が、わずかに濁っている。茎の根元は茶色く変わって、ふやけていた。
指先を、そっと水に浸けてみた。
……ぬるり、とした。
ただの水ではない。石鹸を溶かしたような、嫌な滑りがある。
顔を寄せると、湿った灰のような匂いが、かすかにした。
……灰汁だ。
洗い物に使う、木灰を溶かした上澄み。
念のため舐めて確かめようかと、一瞬だけ思った。
やめた。
これは、舐めてはいけない類のものだ。
「お、お嬢様?」
「……ありがとうございました。お仕事、お続けください」
「は、はい」
給仕は、首を傾げながら去っていった。
* * *
強い灰汁に挿された花は、茎が傷んで、水を吸えなくなる。
知っているのは、身をもって覚えたからだ。
いつだったか、洗濯を終えたカーラたちが、灰汁の混じった水を桶ごと流そうとしていた。もったいないと思って、私が花壇に撒いてしまったのだ。
翌朝、花壇は見るも無惨なことになっていた。
『お嬢様……あれは、洗い物にしか使えない水なんです……』
カーラが、泣きそうな顔でそう言った。お母様は、あらあら、と笑っただけだったけれど。
桶一杯の、洗い物の残り水であれだけ枯れたのだ。
濃い灰汁なら、小瓶ひとつで、花瓶の花くらい造作もない。
花が勝手に萎れたのではない。
誰かが、主賓の卓の周りの花瓶にだけ、灰汁を入れて回った。
けれど、宴の最中に、客の目の前でそんなことをすれば、誰かが覚えているはずだ。
……ならば、宴が始まる前。
支度の慌ただしさの中、花を整えるふりをして少しずつ垂らしていけば、誰も気に留めないだろう。
それに、灰汁を扱うのは洗い場だ。
令嬢や賓客が、わざわざ手にするものではない。
私は、鞄から紙を取り出して、もう一度目を落とした。
花は枯れ 実は熟れて落つ
鐘は鳴らず ただ風のみが渡る
乙女は紅の涙を流し
盗人の手に 攫われゆく
……花は、枯れ。
主賓の卓の周りの花だけが、人の手で枯らされた。
偶然かもしれない。人為的ではあるけど、ただのイタズラかもしれない。花を枯らすくらいのことなら、この詩を知らなくても思いつく。
けれど、もし偶然でないのなら。
次の一行を見る。
……鐘は、鳴らず。
この広間に、鐘などあっただろうか。
私は、主賓の卓へ目をやった。
姉様とクラウス様は、今は賓客に挨拶して回っていて、席を外している。卓の上には、二人の杯と、花の代わりに置かれた新しい花瓶と。
それから、小さな銀の呼び鈴が一つ。
給仕を呼ぶためのものだろう。姉様の席の、ちょうど正面に置かれている。
私は人の流れに紛れて卓に近づき、それを手に取った。
軽く、振ってみる。
音が、しなかった。
もう一度振る。やはり、鳴らない。
逆さにして、中を覗いた。
鳴らすための小さな舌が、根元から抜き取られていた。
……鐘は、鳴らず。
手の中の呼び鈴が、急に重くなった気がした。
一つなら、偶然で済んだ。
けれど、二つ続けば。
誰かが、詩に書かれたことを、この宴の中でひとつずつ起こそうとしている。
手紙を送っただけでは、終わっていなかったのだ。
では、その次は。
……乙女は、紅の涙を流し。
顔を上げる。
卓から数歩離れたところで、姉様が賓客に囲まれて笑っていた。首元のダイヤが、灯りを受けて光っている。
すぐそこにいるのに、手が届かないような気がした。
この宴で、乙女と呼ばれるべき人は、一人しかいない。
私は呼び鈴を握りしめたまま、ルシアン様を探した。




