Episode38 兄と妹
宴は、和やかに進んでいった。
楽団の曲が変わり、給仕が新しい盆を運んでくる。人の輪がほどけては、また別の輪ができる。
賓客の間を歩いていると、あちこちで話し声が聞こえてくる。
「……ベルナード家といえば、あの商いの」
「ええ。お父上の代で、ずいぶんと」
「子爵家にしては、ね」
扇の陰で、声が低くなる。
私は、気づかないふりをして通り過ぎた。
……聞き流しましたわ。
お母様の言葉を思い出す。こちらが相手にすると、それが糧になってしまう。
その通りなのだろう。腹は立つけれど。
少し先では、別の話がされていた。
「……ええ、先月、母を見送りまして」
「まあ。ご愁傷様でございました」
「涸れ病でしたの。長くかかりましたわ。最後の数年は、ほとんど床から起き上がれずに」
「涸れ病でしたら、仕方がございませんわね。うちの祖母もそうでしたもの」
「ええ、本当に」
それで、その話は終わった。
次の瞬間には、今日の料理の話に移っていた。
私は、足を止めずに通り過ぎた。
……仕方がない。
誰も薄情なわけではない。弔いの言葉も、ちゃんと交わされていた。
ただ、年配の方ほど、身内を一人や二人は亡くしている。あまりに当たり前にありすぎて、もう、仕方がないとしか言いようがないのだ。
私だけが、別の耳でその会話を聞いている。
今この時も、バルナバスさんは遠い土地で草を育てている。その肩には、フィンが乗っているはずだ。
あと何年か。
それだけあれば、あの薬が市井にも回るかもしれない。今の方のお母様にも、届いたかもしれない。
私は振り返らずに、人の間を抜けた。
* * *
「エラリー、こちらへ」
お母様に呼ばれて、人の輪に加わった。
「こちら、フォルクマー伯爵家のアデライン様。クラウス様のはとこにあたられるのよ」
「初めまして。エラリー・フォン・ベルナードと申します」
「アデライン・フォルクマーでございます」
美しい方だった。
濃い栗色の髪を、きっちりと結い上げている。装いは控えめで、けれど一つ一つが上等なものだと分かる。所作に一分の隙もない。
「セレナ様の妹君でいらっしゃいますのね」
声も、柔らかかった。
「ええ、まあ……あまり似ておりませんけれど」
「そのようなことは。目元がよく似ていらっしゃいます」
にこやかに、そう返してくる。
二十歳ほどだろうか。立ち居振る舞いに、私などとは比べものにならない落ち着きがあった。
後ろに控えていた従僕が、主に倣って小さく頭を下げた。
* * *
しばらくして、広間の中央で、両家の挨拶が始まった。
クラウス様と姉様が並んで立つ。
人の輪ができた。皆が、二人のほうを向いている。
当主が短い口上を述べ、賓客が拍手をする。姉様が軽く頭を下げる。首元のダイヤが、灯りを受けて光った。クラウス様が、また少し赤くなっている。
和やかな、良い光景だった。
だから、気づいたのは偶然である。
私は人の輪の後ろにいて、たまたま視線を巡らせた。
アデライン様は、二人を見ていなかった。
微笑んでいる。背筋も伸びている。誰から見ても、祝いの席にふさわしい立ち姿だった。
ただ、目だけが、床に落ちていた。
……顔に出さないこと。
お母様の声が、頭の中で響いた。
私は前を向いて、拍手に加わった。
拍手が終わり、人の輪がほどける。その頃には、彼女はもう二人のほうを向いて、他の方と何か話していた。
……気のせいかもしれない。
そう思おうとした。
けれど、私はそういう時に限って、忘れられないたちなのだ。
* * *
その方に気づいたのは、広間の上座のほうへ進んだときだった。
クラウス様と姉様の席から、ほど近いところ。庭に面した窓の傍に、老人が一人座っていた。
車輪のついた深い椅子に、身体を預けるようにして。膝に毛布が掛けてある。
通りかかる賓客は、皆そこで足を緩め、恭しく会釈をしていく。老人のほうは、誰にも目を向けない。代わりに、後ろに控えた年配の従僕が、一人一人に頭を下げて返していた。
年配の紳士が一人、身を屈めて何か話しかけた。老人は応えない。従僕が穏やかに何か答えると、紳士は何度か頷いて、名残惜しそうに離れていった。
ご家族は、クラウス様たちと一緒に賓客への挨拶に回っているのだろう。近くに姿は見えなかった。
……あの方が。
ご挨拶くらいはすべきだろうか。そう思って、一歩近づいたときだった。
老人の目が、こちらを向いた。
どこも見ていなかった目が、ゆっくりと私の髪に留まり、それからドレスの裾へと降りていく。
もう一度、顔へ戻ってきた。
「……エレノア」
思わず、後ろを振り返った。
誰もいない。
もう一度、老人を見る。目が、まっすぐにこちらを向いている。
……え。
私?
エレノア。セバスチャンから聞いた名前だ。嫁いだ先で、若くして亡くなったという妹君の。
心臓が、大きく鳴った。
後ろの従僕が、はっと顔を上げた。
「旦那様……?」
声が、震えていた。
「エレノア。どこへ行っておった」
今度は、はっきりとした声だった。
近くにいた賓客が、何人か足を止めた。
声を上げる者はいない。けれど、扇の陰で目を見交わしているのが分かった。
従僕は、まだ呆然とした顔のまま、老人と私を見比べていた。
「座りなさい、エレノア。足が疲れよう」
老人が、隣の椅子を示す。
落ち窪んだ目だった。けれど、濁ってはいない。
アウグスティン・リンデンベルク侯爵。九十三歳。
あの詩を書いた人だ。
そして今、私を妹だと思っている。
七十年近く前に亡くなった、エレノア様だと。
「お、お嬢様」
従僕が、ようやく我に返ったように一礼した。
「失礼をいたしました。旦那様は、その……」
言いかけて、言葉が続かなかった。
何と説明すればいいのか、この人にも分からないのだ。
会釈をして、通り過ぎることもできた。
けれど私は、言葉を探している従僕に、そっと手を上げて制した。
それから老人に向き直り、裾をつまんで膝を折る。
「……ただいま戻りました、お兄様」
そう言って、隣の椅子に腰を下ろした。
従僕が、息を呑んだのが分かった。
老人が、ゆっくりと笑った。
「遅かったではないか」
「申し訳ございません」
「どこへ行っておった」
「……少し、迷っておりました」
「そうか。……まあ、よい。戻ったのなら、それでよい」
老人は、膝の毛布を持ち上げると、こちらの膝へ掛けようとした。
「お兄様、それはお兄様の」
「わしはよい。お前は昔から、すぐ手が冷える」
有無を言わさず、掛けられてしまった。
毛布は、ほんのりと温かかった。
「また緑を着ておるな」
「……お気に召しませんか」
「お前は、緑ばかり着る。他の色も着てみろと、何度言うたか分からん」
老人は、ふんと鼻を鳴らした。
「……まあ、よう似合うておるがな」
小さな声で、そう付け足す。
後ろで、従僕が目を見開いていた。
「グスタフ。菓子を持ってこい。あの、干した杏の入ったやつだ」
「は、はい。ただいま」
「こいつは、あれが好きでな。放っておくと、いくつでも食う」
得意げに言う。
……こういうお兄様だったのね。
口では文句ばかり言いながら、手は妹の世話ばかり焼いている。
「騒がしいな、今日は」
老人が、広間を見渡した。
「誰の祝宴だ」
「……クラウス様のご婚約の、お披露目でございます」
「婚約か」
老人が、目を細めた。
「どいつもこいつも、同じことを言うておる。めでたい、めでたい、と。……わしなら、もっとひねるがな」
「ひねる、のですか」
「真正面から祝うなど、面白くもない。誰でも思いつく言葉を並べて、何になる」
ふん、と鼻を鳴らす。
何冊か読んだ、侯爵の本を思い出した。
一つのことを言うのに、たとえ話をいくつも重ねる。どこへ向かうのか分からないまま、気づけば最後の頁まで連れていかれている。読み終えて何日も経ってから、ふとした拍子に一文がよみがえって、しばらく動けなくなる。そんな本だった。
……なるほど。この方の書いたものだ。
「……あいつは、どこだ」
ふいに、老人が広間を見回した。
「お前を一人でうろうろさせおって。何をしておる」
あいつ。
誰のことなのか、私には分からなかった。
分からないまま、口だけが勝手に動いた。
「……少し、用がありまして」
我ながら、便利な言い訳である。誰の、どんな用なのかは、私も知らない。
「ふん。後でわしから言うておく」
不機嫌そうに、そう言い捨てる。
……どなたか存じませんが、ごめんなさい。後で叱られてください。
隣に目を戻すと、老人はもう、こちらを見ていなかった。
「……お兄様?」
返事はなかった。
さっきまで確かに私を見ていた目から、光が引いていた。口元に浮かんでいた笑みも、消えている。
初めに見たときの、遠い目に戻っていた。
後ろで、グスタフが静かに目を伏せた。
膝の上の毛布だけが、まだほんのりと温かい。
老人の目は、窓の外へ向いていた。
私も同じほうを見た。庭園がある。噴水がある。その向こう、生垣に半ば隠れるようにして、女神の彫像が一つ立っていた。
灯りが届かず、輪郭だけが白く浮かんでいる。
老人は、ずっとそちらを見ていた。




