Episode37 リンデンベルクの広間
リンデンベルク侯爵家の屋敷は、王都の西にあった。
先に降りたお父様が、お母様に手を差し伸べる。馬車を降りた瞬間、カイルが小さく息を呑んだのが分かった。
門から玄関までが遠い。その間に庭園があり、刈り込まれた生垣が幾何学の模様を描いている。噴水がある。どれも手入れが行き届いていて、一つとして崩れたものがない。
「……エラ姉様」
「言わなくていいわ」
「うん」
当家とは、桁が違う。
私は、耳元に指先で触れた。
琥珀の耳飾りが揺れている。あの日、ローウェンさんが最初に勧めてきた品だ。
結局、お母様が求めてしまった。私が首飾りのほうをろくに見もせずに即決してしまったので、まだ他も見たかったらしい。
深緑のドレスに、琥珀と、細い首飾り。
……我ながら、あの時は慌てすぎた。
商人相手に、値も聞かずに「これにいたします」と言い切る令嬢があるだろうか。お母様が驚いた顔をしていたのを覚えている。
「エラ姉様、何ぶつぶつ言ってるの」
「なんでもない」
* * *
広間に通されると、既に人が集まっていた。
高い天井から、硝子の灯りが幾つも下がっている。楽団が控えめな曲を奏でていて、給仕が盆を持って人の間を縫っていく。
壁際にも、卓の上にも、白い花が飾られていた。
同じ花で統一されている。丈の揃った、清らかな白。
「まあ、見事ですこと」
お母様が、思わずといった調子で呟いた。
「この数を揃えるのは、大変でしょうね」
たしかに、数が多い。広間の端から端まで、切れ目なく続いている。
このときの私は、ただ綺麗だと思っただけだった。
* * *
「エラリー」
振り返ると、セレナ姉様が立っていた。
今日の姉様は、いつにも増して美しかった。
淡い青の絹に、銀糸の刺繍。そして首元には、見たこともないほど大粒の石が連なっていた。
ダイヤである。一つ一つが、姉様の持っているどの品とも比べものにならない。
「お姉様、それは」
「リンデンベルク家からお借りしたの」
姉様が、少しだけ声を落とした。
「代々、この家に入る娘が身につけるものなのですって。……昨日、お義母様から直接」
……なるほど。
これは装いではない。この家が娘を迎えると、賓客に向かって示す印なのだ。
道理で、先ほどから周りの目が姉様の首元に集まっているわけである。
「あの手紙のことだけれど」
姉様が、さらに声を落とした。
「クラウス様には、全部お伝えしてあるわ。あちらでも、人の出入りには気を配ってくださっているそうよ」
「そうですか」
「だから、あなたも楽しんでちょうだいね」
そう言って、姉様は笑った。
……楽しむ。
この方は、こういうときにこそ笑うのだ。心配をかけまいとして、自分の中に全部しまってしまう。
そこへ、クラウス様が歩いてきた。
まっすぐにお父様の前へ進み、一礼する。
「ベルナード子爵、子爵夫人。本日はようこそお越しくださいました」
「クラウス殿。お招きいただき、ありがとうございます」
「エラリー嬢、カイル殿も」
「本日はおめでとうございます」
カイルと揃って、頭を下げた。
きちんとした挨拶だった。背筋が伸びていて、声もよく通る。侯爵家の嫡男らしい、隙のない振る舞いである。
……と、思っていたら。
挨拶を終えたクラウス様の目が、隣の姉様へ流れた。
そして、止まった。
何も言わない。
ただ、耳の先から、じわじわと赤くなっていく。
「クラウス様?」
「いや、その」
咳払いをひとつ。
「……昨日から見ているのだが」
「はい」
「何度見ても、慣れないものだな」
姉様が、袖で口元を隠した。
姉様の婚約者は、こういう人である。侯爵家の嫡男で、背も高く、剣も使えるらしいのだが、姉様の前でだけは毎回こうなる。
カイルが、隣で小さく笑った。
「相変わらずだね、義兄上」
「まだ義兄上じゃないわよ」
「半年後にはそうなるでしょ」
それは、そうなのだけれど。
弟のほうが、よほど気が早い。
* * *
「エヴェリン様」
朗らかな声に振り向くと、マグダレーナ夫人が立っていた。
「マグダレーナ様。本日はありがとうございます」
お母様が、少しくだけた調子で微笑み返す。
「おめでとう。セレナ様、本当にお綺麗だこと」
「恐れ入ります」
夫人は、いつも通りの華やかな装いだった。婚約の席なので白は避けたのだろう、深い藤色の絹をまとっている。
ひとしきり言葉を交わした後、夫人の視線が、ふとこちらへ流れた。
「……あら」
目が、すっと細くなる。
「エラリー嬢。その耳飾り、ローウェンさんのところの品ね」
「え」
「ええ、間違いないわ。あの人の選ぶ石は、色の抜き方が独特なの。濁りを残して深く見せる」
思わず、お母様と顔を見合わせた。
「まあ、よくお分かりになりますこと」
「これでも収集家ですもの」
夫人は、機嫌よさそうに扇を開いた。
「そうそう、エヴェリン様。あの本のことだけれど」
「あの本、と申しますと」
「ほら、いつかお話ししたでしょう。あなたの首飾りに似た意匠が載っていた、先祖代々の」
お母様の目が、ぱっと輝いた。
「覚えておりますとも。お待ちしておりましたのよ」
「ようやく蔵から出してきたの。ところが、埃を払っている途中で頁が外れてしまってね。今、職人に直させているところなのよ」
「まあ、それは大変」
「直り次第、お知らせするわ。……そうそう」
夫人が、こちらを見た。
「エラリー嬢も、よろしければご一緒に。あの時、ずいぶん熱心に聞いていらしたから」
見られていた。
この方は、朗らかな顔をして、驚くほどよく人を見ている。
「ありがとうございます。ぜひ、拝見したいです」
「ええ、楽しみにしていて」
* * *
広間の隅に、見知った顔があった。
紺の制服ではなく、きちんとした夜の装いをしている。けれど、立ち方だけは変わらなかった。壁を背にして、広間全体が見渡せる位置に。
「ルシアン様」
「やあ、エラリー嬢」
振り向いたルシアン様が、白い歯を見せて笑った。
「今日はお招きにあずかってね」
「クラウス様の、ご友人として」
「そういうことになっている」
少しだけ、声を落とす。
「……半分は、その通りだ。学生時代からの付き合いだからね。残りの半分は、あいつに頼まれた」
「手紙のことを、ご存知なのですね」
「聞いている。詩のことも、曾祖父君のことも」
ルシアン様は、広間に目を戻した。
「といっても、今日は何の権限もない。ただの客だ。……目を貸しに来ただけだよ」
「心強いです」
「何も起きなければ、それが一番いいんだがね」
そう言って、また笑う。
この方は、こういうときでも笑い方を変えない。裏表のない人間だと、クラウス様が言っていたのを思い出した。
「エラリー嬢」
「はい」
「何か気づいたら、すぐに俺のところへ来てくれ」
「かしこまりました」
「返事が早いな」
ルシアン様が、苦笑した。
「前にも同じことを言った気がするんだが」
「……言われました」
「覚えているならいい。一人で突っ走らないこと。……約束だ」
私は、曖昧に頷いた。
頷いてから、これは約束を守る顔ではなかったかもしれない、と思った。




